白と灰色6
こんばんは。
今回の更新は2話アップです。
ファーストエピソードの最後までご覧下さい。
お局様が声のした方を振り向くと、階段を上がった所に大友英樹が立っていた。が、アニェスは放心状態で彼の存在には気付いていないし、お局様は彼に関する記憶をまだアニェスから見つけていなかった。もっともアニェスが正気だったとしても、この時の彼の姿を見てすぐに同じ人物だと気付いたかどうか。
今、彼女たちの前に立っている英樹はダークグレーのスーツに同系色のソフト帽とロングコート姿、左手には銀色の持ち手が付いたステッキを携えている。リトル九龍でアニェスが訪ねた時のパジャマと半纏姿とは打って変わり、今の服装なら西新宿のオフィス街を歩いていても何ら違和感は無いだろう。ただ一点、ステッキの持ち手に施された蛇の彫刻を除けば。
「初めまして。すみませんが、そこに縛られてる女の子を、こっちに渡していただけないでしょうか? その子を家に帰さないと私、立場がまずくなるんですよ」
挨拶もそこそこに用件を切り出されて、お局様は一瞬困惑したがすぐ嫌悪の表情を露わにする。
「できないわね。この子の脳味噌は記憶と一緒にわたしが頂くんだから!」
「脳と一緒に記憶を? あの、もしかして最近頭蓋骨から脳が消えた死体が連続で見つかってる事件、あれはあなたの仕業ですか?」
英樹の問いに、お局様はフンと鼻を鳴らす。
「そうよ。わたしはこの世界にウジャウジャいる豚どもを支配するための力を授かった選ばれた存在。そう、真のエリート中のエリート! だからたくさんの連中から知識を頂いて、誰よりも知識を持っていなくてはならないのよ! 世界の支配者の神聖な義務なのよ! ホーッホッホッホッ!」
お局様は口に手を当てて高笑いを上げる。ある調査によると、異能者が能力に目覚める原因には、生死を彷徨う状況に陥った、厳しい修行の成果などと実に様々だが、最も多いのは劣等感や憎しみなど負の感情を募らせていった末、何らかのきっかけで異能力に目覚めたケースだという。そのため負の感情に更なる拍車が掛かったり、その裏返しでこのお局様のように選民思想に捕われたりしてモラルが崩れ去り、犯罪に走る異能者が多く見られた。そうした事件のせいで異能者に対する社会の風当たりが厳しくなり、それが更なる犯罪を生むという悪循環を成しているため、近年では異能者による犯罪が深刻な社会問題となっており、世界各国の指導者や知識人、人権団体などが異能者をどう扱うかについて日夜思索と討論を繰り広げているが、未だ根本的な対策を打ち出せていないのが現状だった。
「え~と、じゃあどうあってもその子を放してはくれないと?」
「だからそう言ってるでしょ。しつこいわね」
「そうですか……」
お局様の断固とした拒否に、英樹は少しうつむき、思案顔でうなり始める。
五秒程そうした後顔を上げ、苛立たしげなお局様に視線を向けると、それまでの緩慢な動きから一転、弾かれたような速さで右手を懐に入れる。
お局様は咄嗟に身構えるが、その時既に英樹の右手は自動拳銃を抜いて銃口を向け、立て続けに二発。両方とも胸に喰らったお局様は、着弾の衝撃で後ろに吹き飛ばされる。
「他人を傷つけたり殺そうとするというのはね、自分が殺られても文句は言わないと宣言するのと同じなんだよ。無抵抗だったり圧倒的に弱い者しか相手にしてなくて、それを分からなかったり忘れたりするのが世の中には多いみたいだけど」
お局様が白眼を剥いて微動だにせず、胸からおびただしい血が流れているのを確認してから拳銃を懐のホルスターに戻し、未だに独りぶつぶつと言い続けているアニェスに近寄り、彼女の眼の高さにしゃがみ込む。
「もしも~し、僕が分かるかい? ……って、駄目か。何かショックを受けたのかな? とすると、天壌先生の所に連れてかなきゃいけないか……ガハッ!」
言いかけて急に英樹の言葉は止まり、代わりにおびただしい量の血が吐き出される。
大量の生暖かい血を浴びせかけられて、アニェスはようやく放心状態から現実に引き戻される。そして眼の焦点が合って最初に見たものに、
「ひっ……あぁぁぁぁぁぁっ!」
鼓膜が破れそうな程の悲鳴を上げるアニェス。彼女が見たものは、鮮血に汚れながらもピンクの地色を見せる物体に腹を貫かれている英樹の姿だった。
「随分痛い目に遭わせてくれたわね。ちょっとの間だけど気絶までしちゃったわよ」
英樹の背後には先程撃たれたはずのお局様が立っていた。英樹の身体を貫いたピンク色の物体が後ろから引き抜かれると、お局様の口の中にシュルシュルと収まっていく。ピンク色の物体はカメレオンのように伸ばされたお局様の舌だった。
「成程……異能者だと思っていたけど本当は変異種だったか……丈夫なわけだよ」
言って、アニェスの膝の上に英樹は倒れ伏す。
変異種──人間としての姿はそのままで本来有り得べかざる能力を持つ者を異能者と呼ぶのに対し、大変換以降世界中で頻繁に確認された、形態、性質までも“変異”した生物を一般的にそう呼んでいた。変異した原因は一九九九年七月に落下した隕石から出る放射線によるもの、ウィルスによるものなど様々な説が唱えられている。これら変異種の多くはそれまで神話や伝説などにしか存在しなかった怪物もしくは妖怪のイメージに似た形状、能力を持っているものが多かったため、可能な限りそれらに因んだ名称を付けられるのが生物学界における慣例となっていた。
「言ったでしょう、私は選ばれた存在なんだって」
血にまみれ、歯をむき出しにした嘲笑の笑みを刻みながら、お局様、いや、もはやあれは脳喰らいと呼ぶべきであろう──は英樹を見下ろす。
「散々邪魔してくれちゃって。まあいいわ、あなたの脳もその娘の前菜にしてやるわ」
英樹の脳を取り出すため、彼の頭を叩き割ろうと脳喰らいが右手を振り上げた時、英樹の左手に持つステッキの持ち手に施された蛇の彫刻の目に填め込まれた宝石がポゥッと光り出し、直後、脳喰らいの足下に円とその他複数の図形、文字を組み合わせた魔法陣が光を放ち浮かび上がる。そしてそこから無数の電流が立ち登り、脳喰らいを包み込む。
「ギャァァァァァァッ<」
悲鳴を上げ、もがき苦しむが、感電こそすれ致命的なダメージは与えられていないようだった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、しっかりして!」
英樹の耳元に必死に呼びかけるアニェス。思わず彼のことを最初に彼を訪ねて周囲をごまかすために使った時と同じ『お兄ちゃん』と呼んでいたが、今の彼女にそれに気付く余裕は無かった。
「ガハッ……あいつは……どうした?」
弱々しい声でうずくまっている英樹から聞こえた。
「苦しんでるけど、まだ生きてるわ」
「そうか……今の僕の、あれが精一杯だったんだけど、駄目か……こうなったら、君に協力して貰うしか……」
「駄目。私には何も……」
「いや、その力じゃなくて……」
「えっ?」
思わずアニェスは膝の上に立てた腕を支えに上半身を上げた英樹の顔を見返す。既に血の気を失った顔色は死の直前であることを示していたが、その眼に未だ諦めの色はない。少々恥ずかしげに英樹は尋ねる。
「えっとね……君は処女かい?」
「はあ?」
目の前の危機も一瞬忘れてアニェスは困惑し、思わず叫んでしまう。
「こんな時に、一体何を言ってるんですか?」
「いや、こんな時だから訊いてるんだよ……正直に答えて。君は処女かい?」
「ええそうです! 私は処女です! それが何だって言うんですか?」
「いやその……気分の問題ってやつで……ごめんね」
申し訳なさげな顔でそう言うと、英樹はアニェスの首筋に顔を埋めた。何をするのかと顔をそちらに向けようとした途端、首筋に鋭い痛みが走り、彼女の意識は遠のいていった。
「ハァッ、ハァッ……」
電流による痺れから回復し、脳喰らいが立ち上がる。
英樹が出した魔法陣による電撃は瀕死の状態で繰り出したものの、常人ならば致命傷は無理でも相当なダメージを与えられたかも知れない。しかし弾丸を受けても立っていられる程の変異種のタフネスでは二、三分痺れさせて衣服に焦げを作るのが精一杯だった。
「只の豚だと思っていたけどあいつも異能者だったなんてね。あいつの脳を食べれば私もあの能力が使えるようになるかしら? グフフフ……」
口の端から垂れる涎を袖で拭いながら、脳喰らいは英樹たちの方へ向き直る。その瞬間、二人の光景に脳喰らいは言葉を失った。
「はっ……あっ………んっ!」
縛りられままのアニェスの上にスーツ姿の影が覆い被さり、アニェスが彼女のイメージには似つかわしくない悩ましげな声を上げている。その顔は苦痛と快楽とが入り交じって上気しており、足は爪先まで反り返り、身体全体が小刻みに震えていた。
「あぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
絶叫とともにアニェスの身体から力が抜け、崩れ落ちると、影が少女から体を離した。
「ご馳走様でした」
ご丁寧にアニェスに向かって合掌した後、影はゆっくり立ち上がる。アニェスの首筋には2つの小さな孔が空けられ、そこから赤い筋がまだ流れていた。
影がこちらを振り返り、口の周りに付いた血を舐め取っているその顔を見た時、脳喰らいは幽霊でも目撃したような顔になる。影──首をコキコキと鳴らしながら脳喰らいに向かい合っているのは大友英樹だった。
「バ、バカな?」
腹を貫いた舌の一刺し、あれは十分致命傷だったはずだ。脳喰らいが改めて英樹の腹を見てみると、そこに開いていた穴は組織、筋肉、血管、皮膚がのたうつように再生し、見る間に塞がっていく。再生力では人間を凌駕する変異種の脳喰らいでさえ、これほどのスピードで傷を治すことは出来なかった。
「まさか……おまえも変異種?」
「変異種……ふむ、まあ確かに通常の人間と色々な所が違う所からすればそうだろうね。でもどうせお前、例の隕石の影響とかで記憶をコピーしたり、さっきみたいに舌を伸ばして武器にできるようになったクチだろう? そんな種としてたかだか十年も経っていないのと違って、こっちは数千年の歴史があるんだよね」
口調はそれまでと同じマイペースだったが、血のような紅に染まった瞳で脳喰らいを見つめる今の英樹は、中身だけが全く別の存在と入れ替わったような、そんな雰囲気をまとわりつかせていた。
「こういうことを考えたことは無いか? あの大変換で世界の環境とか、体制とかが大きく変わったけど、同じように、いや、あれ以上に世界のあり方を大きく変えるような出来事が過去になかっただろうかと。例えば恐竜の滅亡。例えばイエス・キリストの出現のように。そしてそれらの大変換で生まれた種の中で歴史の表舞台に現れず、ひっそりと闇の中に隠れていったものは無いか?」
英樹は左手に握ったステッキを軽く掲げ、右手を広げて理解を求める仕草を見せる。
「い、今、人間の血を吸ってた……まさか、お前は……」
微かに震える指で英樹を指して問いかける脳喰らいに、
「お察しの通り。古くから呼ばれてきた僕らの種の名は吸血鬼。僕達の間では血族と呼んでいますが──歴史の陰の中で生きてきた長い年月は伊達じゃありません」
英樹は胸の前で右手を地面と水平に構えて一礼した。
「それにしても、他人の記憶を自分にコピーする能力と、普通の人間よりいくらか上の体力、頑丈さが付いただけで世界を支配するなんてね。いくら変異して舞い上がったとは言っても、調子に乗りすぎじゃないかい?」
「お黙り! さっきは思わず震えてしまったけど、吸血鬼と言っても私と同じ生き物なんだから、頭を潰されれば再生は出来ないでしょう? それにその後ろの娘もかばってなくちゃならないんだから、まだ私の方が有利よ!」
脳喰らいの舌が、再び口からカタパルトで加速されたような速さで英樹の顔面めがけて伸びる。
が、英樹も襲いかかる舌の先を右手でそれに匹敵する速さで弾く。標的を逸らされた舌は英樹の背後のコンクリート壁を貫通した。英樹は攻撃を弾いた衝撃で右手が跳ね返ってくる勢いを利用して、右手でステッキを掴み、一気に振り抜く。次の瞬間、
「ギャアァァァァッ!」
肉屋で見られる切り身の肉のように鮮やかな舌の切断面が現れ、脳喰らい側と地面に落ちた側の両方からホースのように血が噴き出す。
「あ、あはひおひああ(わ、私の舌が)ぁぁぁぁっ!」
未だ味わったことのない苦痛に悶えながらも英樹に視線を向ける脳喰らいは、英樹の右手に目を止めた。
英樹の右手に握られたステッキの柄は持ち手を含めて25センチ程しかなく、その先には両刃の細剣がまっすぐに伸びていた。その剣身を下げたまま英樹は脳喰らいに向き直り、口を開く。
「世界を支配すると言うね、ちょっと訊くけど、他人の記憶を手に入れて、それからどうするのか具体的に計画とか立てたかい?」
残った舌を引き戻し、口を押さえた体勢のままで、返答に詰まって脳喰らいが硬直する。もし答えがあったとしても、その舌ではまともに解答はできなかっただろうが。
「やっぱりね。おおかた会社勤めしていた時も、英会話とかキャリアアップの努力をする機会はあったはずだよ。けどお前は会社の仕事が忙しいとか言い訳を付けてそういうのに全然目を向けないで、ただ漫然と与えられた仕事をしているだけだったんじゃないか? このご時世、それじゃ首切りの対象にもされるさ」
英樹の言葉の一つ一つが脳喰らいの記憶の奥底に葬られた過去を暴き出し、神経を逆撫でしていくにつれ、脳喰らいの怒りの形相が、英樹の言葉を受けて深さを増していく。舌の出血が相当な量のはずなのに、顔色はどんどん赤みを帯びていく。
「生まれつき優れた才能があるわけでもなく、目標を持って努力することもせず、たまたま手に入れた力も利用しているつもりが実際は力に踊らされていることにも気付かない。今のお前はまさにそれだよ」
言いながら脳喰らいを見る英樹の眼には、哀れみも侮蔑の色もない。ただ冷徹な観察者の如き視線が、相手の心の奥を透かし見るように、脳喰らいの姿を捉える。
「夢を見るのは勝手だけど、どんなに甘い夢でも夢は夢。いつかは醒めて、辛い現実がやってくる……」
少し寂しげに言うと、剣先を脳喰らいに向けて構え、
「夢の時間は終わりだ」
今度は強い口調で英樹は言い放った。
「黙レェェェェェッ!」
獣の咆吼の如く、脳喰らいが叫ぶ。
既に顔色は怒りでどす黒く変色し、食いしばられた歯はギシギシと軋みを上げ、その間から血の混じった泡を吹き出し、四肢は衣服やストッキングがはち切れんばかりに膨張し、肌の見える部分にはびっしりと血管が浮き出る。機関車のように白い息を口から漏らし、英樹を睨み付ける充血した眼に、もはや人間としての理性は欠片も残っていなかった。
「ガアァァァァァァァッッ!」
咆吼と共に、右腕を一振りする。腕が当たった傍らのコンクリート壁は粉々に砕け散り、無惨にえぐられる。
それに気を良くしたのか脳喰らいは口の端を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべる。
「完全に人間を捨ててしまったか……」
「グオォォォォォッ!」
再び咆吼を上げ、脳喰らいは筋肉が膨れ上がった足で床を蹴って英樹へ跳びかかる。あの脳喰らいの腕力では例え防御したとしても、吹っ飛ばされるか防御した部分ごと持って行かれてしまうだろう。だから英樹は自分からまっすぐ相手の方に走り込んで行く。獲物を捕らえ、引き裂こうと鉤爪をかざし振り上げた脳喰らいの右腕より先に、振り上げられた英樹の剣が、脳喰らいの右脇から肩口を両断する。切断された右腕が地面に落ちるよりも早く、返す刀で振り下ろされた剣が更に左の肩口に掛かり、一気に振り抜かれる。
「ギエエェェェェェェッ!」
切断された両腕の付け根から血を吹き出し、脳喰らいは怪鳥のごとき悲鳴を上げた。が、それでも戦意は消えないのか、大きく口を開けた状態で首を前方へ出し、英樹に向かって噛みつき掛かる。咄嗟に英樹は二、三歩バックステップしてかわし、ガチィッと音を立てて脳喰らいの歯が閉じられる。
英樹は左手に持った鞘に剣を収めると、それを腰だめに構え、再び脳喰らいに向かって跳びかかり、剣を抜き放つ。吸血鬼の力と抜き打ちによって加速された剣は脳喰らいの胴を左下から右上へ輪切りにし、更に英樹は剣を持った手首を返してすれ違いざまに脳喰らいの首を刎ね落とす。
既に大量の血を失いながらも、立ちつくす脳喰らいの下半身が残りの血を出し尽くすように血の噴水を上げ、床に転がった首を英樹の靴が容赦なく踏み砕いた。
英樹は靴に付いた血やその他の汚れを振り払い、床にこすりつけたりして落とそうと奮闘しながら、剣に付いた血を一舐めした。
「……不味い」
理性を捨て去り獣と化した脳喰らいの咆吼で目を覚ましたアニェスは、それから英樹が脳喰らいを殺すのを全て見ていた。見ないでいることもできたが、彼女は目を閉じたり逸らしたりせず、それを記憶に焼き付けるように両眼に捉えていた。具体的な理由などない。ただ、見なくてはならない、覚えていなくてはならないと命じられた気がしたのだ。だからその戦いと、凄惨に切り刻まれた脳喰らいの死体を見ても、悲鳴一つ上げなかった。だが、いくら気丈に振る舞おうとまだ十代の少女である。剣を納め、靴の汚れを落とすのを終わらせた英樹に縄を外して貰うと、緊張の糸が解けて、座り込んだ姿勢のまま全身が震え始めた。それを止めたのは、縄が外れて少しして英樹から出た言葉だった。
「大丈夫かい? マドモアゼル・アニェス」
一度も彼に言ったことのない自分の名前を呼ばれて、はっと彼の顔を見上げる。そして当然の如く聞き返す。
「何で、私の名前を知ってるんですか?」
「失礼と思ったけど、旅行鞄の中を見せて貰ったよ。いくら手元にあったからって、鍵が付いているのに掛けないのは危険だよ」
確かに英樹の言うことの方が正しかったので、言葉に詰まるアニェス。
それから英樹が携帯電話でどこかへ掛けて、しばらくすると防護服と防毒マスクで身を固めた数人がやって来て、脳喰らいの死体を袋に詰めに掛かる。脳喰らいの頭が潰されている事に、防護服姿の一人が文句を言って来るが、
「相手は変異種で、それも最近何人も人を襲って脳を食ってた奴だぞ。首を切ったくらいで死ぬとは限らないだろ。運んでる途中で襲って来たらどうする?」
英樹がそう言い返すと押し黙り、他の仲間と一緒に血が散乱する床や壁を掃除すると、脳喰らいの死体を持って撤収する。
「あの人達は?」
「変異種の研究をしている施設の連中だ。人間から変異した変異種の生体サンプルは稀少だからね。すぐ飛んで来たよ」
事も無げに答える英樹だが、研究者にしては余りに手際が良すぎると、アニェスには思えてならなかった。
そんなこんなで後始末を済ませた後、アニェスは再び小九龍の英樹の部屋へ戻り、炬燵を挟んで彼の尋問を受けているところだった。
「アニェスってフランス人の名前が付いているけど君はどう見ても日本人みたいだし、それに君が呆けてた時、うわごとみたいに『私の名前』『楓』って言ってたけど、どういうことなんだ? 一体君は何者なんだい?」
「……分からない」
流石の英樹もこれには呆れた。
「おいおい、いくら何でもそりゃないだろう。こっちだって僕の身体の秘密をばらしたんだ。そっちの秘密も教えて貰わなくちゃ合わないよ」
「本当に分からないんです。……私、赤ん坊の頃にフランスで列車事故に遭って、それで両親も死んじゃったそうなんです。おまけに身分とかを証明する物が何も見つからなかったそうで、だから外見から多分日本人だという他には本当の名前も誕生日も分からないんです」
うつむき加減に自分の身の上を、ぽつりぽつりとアニェスは明かしていく。
「アニェスと言う名前も、私が列車事故から助け出された日が1月21日の聖アグネス(アニェスはアグネスのフランス語読みである)の記念日ということで、孤児になった私を引き取ってくれた司教様が付けてくれたんです。それからずっと、私はその司教様の元で……」
話しながら、アニェスが微笑を浮かべ遠い目をする。おそらく実の両親がいない分、その司教とやらに一杯の愛情を受けて育ったに違いなかった。
「でも……」
それからアニェスは、夢の中で司教が殺される場面を見せられ、英樹が持っているという“永遠の鍵”なる物を手に入れるように啓示を受けたことを話すと、話の間軽く相づちを打つだけだった英樹がこう問いかけてきた。
「君はそれを神からのものだとあっさり信じてしまったのかい?」
その問いに、アニェスは両手で力一杯炬燵を叩いて眉を吊り上げる。
「それって、私が幻覚や妄想を見たと思ってるんですか?」
声を荒げるアニェスに、英樹は落ち着いた口調で話す。
「そうじゃない。君が啓示を受けたとして、それが神じゃなくて、悪魔とかその他の霊や物の怪とかかも知れないってことだよ」
「そんなことない! あの時感じた神々しさは神様か、そうでなかったら天使、それかマリア様に間違いありません!」
半ばムキになって言うアニェス。英樹は炬燵の上に置いてあった湯飲み茶碗からお茶を一口飲んで口を湿らせてから一呼吸置いて話し始める。
「君もクリスチャンだったら、聖書くらい読んでるだろう? サタンだって光の御使いに変装するって書いてあるよ。新約聖書『コリント人への手紙』第二の第十一章十四節にある有名な箇所だ」
英樹は本棚の一つから聖書を引っ張り出し、その箇所を広げてアニェスに見せる。
「うっ……」
実際に記述を見せられ、アニェスは言葉に詰まる。
「君はこの世ならざる神秘的なものを見て、ただそれだけで神の啓示だと信じやしなかったか? もっと言えば、神の啓示だと思いたい気持ちは絶対働かなかったと断言できるか?」
「そ、そんなことは……」
英樹に詰められ、言葉を濁すアニェス。英樹は話を続ける。
「相手がどんなものか見極めないで、いや、できなかったとしても、見極めようともしないで無条件に信じるのは、そういうのは信仰じゃなくて盲信って言うんだよ。所詮どんな奴でも仮面で色んなものを隠してこの世界で生きてるのさ。君が最初僕を訪ねてきた時、“身内”という仮面で小九龍の連中をごまかしたようにね。信じる者は騙される。後になって騙されても手遅れなんだよ」
「…………」
「それから君が欲しがってる永遠の鍵だけど、あれは何があっても絶対に渡せない。どんな物かも教えられない」
「そんな! あなたの言ってることはそういう可能性もあるということだけじゃないですか! もし本当に神からの啓示だったらどうするんですか? それで本当に司教様が死んだらどう責任取ってくれるんですか?」
また両手で炬燵を叩き、英樹に向かって身を乗り出すアニェスに、負けずに英樹は顔を突き返す。
「知らないよ。そもそもそんなあやふやなもののせいでその司教様とやらの人生に責任なんて持てるもんか。自分の人生だけでも責任持つのがやっとだというのに」
「じゃあ、くれなくてもいいですから、貸してください! 永遠の鍵を!」
「軽く言わないでくれ。あれは渡すとか貰うとか、貸すとか借りるとか、そう手軽に受け渡しが出来る物じゃない! それに、あれはお前が思ってるほど便利な物じゃないんだ。仮にその司教様が殺される運命だったとしても、プラスお前が運命の鍵を手に入れたとしても、司教様とやらを助けられるとは限らないだろうね」
「どういうことですか、それは? 永遠の鍵というのは何なんですか?」
アニェスに強い口調で質問され、英樹は興奮して口を滑らせてしまったのに気付き、慌てて口をつぐむ。
「……とにかく、さっきも言った通り、永遠の鍵は渡せないし、どんな物かも話せない。ついでに言っておく。今後一切永遠の鍵のことは他言無用だ。もし永遠の鍵の存在を君が知ってることを、それを探してる個人や組織が知ったら、そいつらは即座に君を拉致して、拷問、人質、自白剤……考えられるあらゆる手段を使って君から情報を絞り出そうとするだろうからね」
英樹の眼は、今言ったことが冗談でも脅しでもないと言うように真剣な光を放っていた。その眼に見つめられ、アニェスは思わず乗り出した身を引いてしまう。
「フランスへ帰るんだ」
強くはないが、はっきりとした口調で英樹は言った。アニェスは嫌だと言い返したかったが、彼女をまっすぐに見つめる英樹の視線がそれを許さなかった。
「いいか、帰ったらまず、ゆっくり休んで旅の疲れを取るんだ。その後でどうすればいいかじっくり考えて行動するんだ。大事なのは例えどんな相手でも外面だけですぐに信じず、その奥にある真実を見極めるようにすることだ。いいね?」
「……はい」
力無く答えてうなだれるアニェス。泣きたいのをこらえているのか、心持ち震えているように見える。それを見て、英樹はこう付け加えた。
「まあ、もし僕に出来ることがあったら手を貸さない事も無いけど」
顔を上げ、英樹を見つめるアニェス。
「本当?」
今にも涙があふれ出しそうだったアニェスの眼が、明るさを取り戻しかけていた。
「ああ」
「分かった……私、明日帰る」
「ありがとう……ところで、今日は泊まる所あるのかい?」
えっ? と虚を突かれたような顔になって、恥ずかしげにアニェスは首を横に振る。どうやら英樹から永遠の鍵を手に入れることしか頭になかったようで、宿のことは全く考えてなかったらしい。
「仕方ないな。じゃあ今夜はこの部屋に泊まっていくといい。夜の新宿は物騒だからね。部屋のベッド使っていいよ。僕は炬燵で寝るから」
柄にもなく済まないと思い、免罪符のつもりで英樹はアニェスに優しくしたのだが、これが後の英樹自身とその周辺に大きな影響を与える事を、無論この時は言った本人さえ知る由もなかった。




