白と灰色5
こんにちは。
連休最終日、1回目の更新をお送りします。
天国への希求を表すように高く伸ばされた柱とアーチで支えられた天井の大聖堂。
二段ある窓の上方は万華鏡のように色とりどりの模様と聖人の姿を描いたステンドグラス。
その下の祭壇には、金色に輝く十字架の前で、キリストを膝の上に抱き、両腕を広げて嘆くマリアの姿を彫ったピエタの彫刻が鎮座していた。
その祭壇の前で、三角形の司教冠を被り、司教杖を携えた祭服姿で初老の司教がゆっくりと信徒の前へ進み出る。
そして説教を始めようと口を開きかけたところで、突然司教の祭服の胸から立て続けに2度、赤く染まる。
眼の前で起こった事態の異常に周囲は一瞬凍り付いたように固まるが、自分の身に何が起こったのか理解できない、呆然とした表情のままで床に崩れ落ちる司教の姿を確認するや、爆発するがごとく聖堂内はパニックに包まれた。
ようやく司教が銃撃を受けたことを理解できた他の聖職者らが司教に駆け寄り、ちょうど聖堂内に居合わせた医者が呼び寄せられるが、既に司教の意識は無く、近づいた医師の顔も絶望の色に染まっていた──
「これは私の力で作り出した幻影。しかしいずれ訪れる未来──」
少女の背後で厳かにそれは告げる。自体が温かく熱を持った光、背中越しに感じる圧力に、少女は振り返ることが出来ないでいた。更に言葉は続く。
「もはやこれは定められた運命──私の、そして我らが主の力を持ってしても、もはやこの流れを変えることはできないのです──」
それまで祭服の胸を真紅に染めて司教が倒れている場面に見入っていた少女は、その言葉に弾かれたような勢いで少女が後ろを振り向く。あまりの眩しさに少女思わず眼を伏せるが、
「何か方法はないのですか! 私にできることなら、例え地獄の底でも行ってみせます!」
必死の表情で叫ぶ少女に、望む言葉を得たりとそれは再び語り始める。
「いいでしょう。ならばアニェス、これから言うことをしっかりと心に留めておくのです。日本へ、それも首都東京の街・新宿へ行きなさい──」
「新宿?」
「そうです。ソドムとゴモラよりも罪深く、そして汚れた街。その中においてもなお、罪深さと汚れ際立つリトル九龍に住む大友英樹という男から“永遠の鍵”を手に入れるのです──あの司教を今あなたに見せた運命より救いたければ、“永遠の鍵”の力を使う他に方法はありません──」
「何なのですか、その“永遠の鍵”というのは?」
「それは絶望の闇の中にあっても一筋の光を投げかけるもの──悲しみに満たされた運命を変革し、希望に満ちた未来への扉を開く鍵──」
そう言い終わると、光はだんだん薄らいでいき、アニェスが顔を上げた瞬間、彼女はベッドから跳ね起き、次の瞬間それまでの体験が全て夢であったことに気付いた。
だが、あの時感じた光と熱、圧力、そして言葉の一つ一つに至るまで、それらは現実に起こった出来事のように、全てがアニェスの身体と記憶に生々しく残っていた。
他の誰にもこのことを言わなかった。言ったところで誰が信じてくれるだろうか? いや、司教様なら信じてくれるだろうが、それでどうなると言うのだ? あの“啓示”は自分に告げられたのだから、自分が遂行しなくてはならないのだ──
目覚めてすぐ少女──アニェスが感じたのは、ロープが身体に喰い込む痛みだった。そのおかげで微睡みからすぐに覚醒状態へ持って行かれ、アニェスは周りを見回す。
外は既に夜となっており、明かりもないから最初は真っ暗で何も分からなかったが、だんだん眼が慣れてきて、ここが無人のビルの中で、その柱の1つに自分が縛られているのだと分かる。
コンクリートの床から足に伝わってくる冷気を避けるため、体育座りのようにして足を組んでいると、階段の方からこちらへ上がってくる足音が聞こえてくる。
階段を上がって現れたのは、三〇代後半から四〇代前半辺りの女性だった。頭のてっぺんで結い上げた髪、尖り眼鏡、スーツの上にロングコートをまとった姿はまさしく何処の会社にもいそうな“お局様”のイメージそのままだった。
お局様はパンプスを鳴らしてアニェスの側に来ると、顎を掴んで自分の方に顔を向けさせる。
「御免なさいね。ハローワークに行ってたらこんなに遅くなっちゃって。あなたみたいな子供と違って、大人は忙しいのよ」
多分に棘を含んだ言い方でお局様が言う。さっきまでいたビルの時に続いて、この人も自分にいかがわしい事に及ぼうとしているのだろうかと怯えるアニェスに、
「あらお嬢さん、もしかして私があなたをレイプするつもりとか考えているのかしら?」
図星を突かれて返事に詰まるアニェスの様子を見て、お局様は唇の端を吊り上げる。
「安心して良いわよ。わたしにその気は無いわよ」
安堵の表情を浮かべるアニェスに、お局様は笑みを崩さず言葉を続ける。
「ただあなたの脳を食べるだけだから」
アニェスの顔から一気に血の気が引いた。
「あの……つかぬ事を訊きますけど、脳って、頭の中にある脳ですよね?」
「そうよ」
「それを食べられたら、やっぱり……」
「死ぬわよ」
そんな簡単なことも分からないのかしらといった口調でお局様は答える。
「いやぁぁぁぐっ──!」
叫ぶアニェスの口を左手で無理矢理塞ぎ、お局様はそれまでの友好的な笑みから、好物を眼の前にしたようなそれに変わっていく。
「安心しなさい。脳にある記憶はわたしのものとして残るんだから」
ブンブン頭を振って、口を塞いでいる手を外そうとするアニェスに向かって、諭すようにお局様は話し続ける。
「まあ別に食べなくても、ただ頭を触るだけでも記憶を探ってわたしの脳にコピーはできるのだけど、やっぱり脳を食べるのに比べると、インターネットで言ったらアナログ回線と光ファイバーくらい速度や効率に差があるのよ。それに……」
そう言葉を句切ると、腹に据えかねることでも思い出したのか、お局様の表情が一気に怒りの形相に変わる。
「何よあの会社! 十五年以上も会社に尽くしてきたわたしを、もっと若くて高学歴の子がいるからとか言って仕事干して、辞表を書かざるを得ない状況まで追い込んで! おまけにハローワークの窓口や合同説明会の企業ブースに行っても、二流の短大出で資格もろくに持ってなくて四〇近い女性向けの求人はこのご時世じゃありませんの繰り返し! ええそうよ、わたしは四〇近くになっても独身で、男もなくて、事務仕事しか能の無い女よ! でもそういうあいつらだって、若くて綺麗で、わたしに無い知識がちょっとあるのをこれ見よがしに男どもに振りまいて! ちょっとフランス語が分かるくらいでいい気になってんじゃないわよ! どうせ陰じゃ上の男たちに身体売ってんじゃないの!? どんなに隠したって無駄よ。話さなくたって、記憶からほじくり返してやるんだから!」
もはやお局様にはアニェスと、話に出てきた若い女子社員の区別が付かなくなってしまっているようだった。明らかに正気を失った眼で睨み付け、アニェスの頭を右手で鷲掴みにする。瞬間、脳を手で乱暴に掻き回されるような激痛がアニェスの頭を走った。
熱い。焼け付くように熱い。
暗い。明かりと呼べる物は全くなく、隙間から外の光が僅かに入ってくるのみ。
狭い。天井がすぐ上に迫っている。いや、天井が崩れて落ちかかっているのだ。それを母が腕に抱いている私をかばい、今にも私たちを押しつぶそうとしているのを必死で支えている。それでようやく私たちが事故か何かに遭ったのだと気付く。そして、このままでは母と私が危ないことも。
私は母の腕から出て早くこの崩れた天井から抜け出そうとするが、母の腕を押そうと出した手はあまりに小さくて、とてもそんな力はなく、足はあまりに小さくて、床にさえ届かなかった。無理で当たり前だ、赤ん坊の手足では。
既に手も頭も血まみれで、命の火が今にも消えようとしていながら、母はその腕の中にいる私が生きているのを視力を失いかけている眼で確認すると、かすれた声で、しかしはっきりと唇から言葉を紡ぎ出す。
「元后憐れみ深き御母、我らの命、慰め、及び望みなるマリア、
我ら逐謫の身なるエワの子なれば、
御身にむかいて呼ばわり、この涙の谷に泣き叫びてひたすら仰ぎ望み奉る。
ああ我らの代願者よ、憐れみの御眼もて我らを顧み給え、
又この逐謫の終わらんのち、尊き御子イエズスを、我らに示し給え。
寛容、仁慈、甘美に在ます童貞マリア)──
聖母マリア……あなたの娘にして私の娘、楓をお守り下さい……」
そう唱え終わると、母の腕からみるみる温もりが消えていくのを感じ、私は泣いた。力の限り声を出して泣いた。そうしているうちに気が付くと、上にのしかかっていたものがいつの間にか退けられ、入り込んで来る強い光の中から現れた腕が、私の方へ伸ばされてくるのが見えた──
ハッと両眼を見開いて目覚めると、アニェスの身体はじっとりと汗ばんでいた。が、開かれた彼女の眼は虚ろで、
「楓……私の名前……楓……」
ぺたんと床に膝を落とし、放心状態のままうわごとのようにそう呟き続ける。
一方お局様の方は、アニェスから突然流れ込んだ記憶に思わず彼女を掴んでいた両手を離して飛び退き、火傷でもしたかのように苦痛に歪んだ顔で右手を押さえていた。
「何? 今の記憶は? ……いやいや、どうでも良いわそんなこと。どうせあなたの脳味噌を食べてしまえば全部分かるんだから!」
両手の指を鉤爪のように折り曲げ、未だ呆けているアニェスに襲いかかろうとした刹那、その場の雰囲気を全く理解していないような、いささか疲れた声が割り込んできた。
「ああ、やっと見つけた」
次回の更新は、本日18時の予定です。




