白と灰色3
あのマンションを飛び出してからどう走っていったか覚えていない。ただ走っていたかった。止まれば何かに押しつぶされそうな感じがしたからだ。
目の前に道がある限り走って、走って、走り疲れて足が動かなくなって、気が付いたらその場に座って泣いていた。
何に泣いていたか? あの男──大友英樹に辱めを受けたことか? 求める物を手に入れられなかった自分自身の不甲斐なさか? それともあれ程乱れた人間がのうのうと生きているこの世界か?
正解──全部。
涙も枯れ果てたとはよく言ったものだが、どれだけ泣いても涙は一向に枯れそうにない。泣いたってどうにもならないのは頭で分かっていても、それだけで収まる程人間の感情は、体は簡単じゃない。この悲しさが、悔しさが、無力感が、ほんの少しでも涙と一緒に体の外に流れ出るものならば、体中の水分を全て涙にして出してしまっても良い。泣くというのはそういうものだろう。
そうして嗚咽を漏らしている所に、
「何泣いてんだ嬢ちゃん、こんな所で」
声を掛けられ、少女が顔を上げた先にいたのは、少女と同年代か、少し上ぐらいの十代後半と思しき少年だった。ツンツンの茶髪、丸いサングラス、だぶついた上着と色落ちしたジーパン姿。上着のポケットに両手を突っ込み、少年は少女を見下ろしていた。
はたと気付いて少女は左右を見回してみるが、自分が何処まで走ったのか分からなかった。
「ええっと、すみません……ここって、何処なんですか? 夢中で走ってたみたいで……」
「おいおい、知らないで来たのかよ」
呆れたように少年はため息をつく。が、すぐに言葉をつなげて、
「まあ、そうでもなきゃ嬢ちゃんみたいなのが“どん底通り”に来るはずはないよな」
この時彼女に声を掛けたのが“便利屋”沢木恭介であった事、その恭介がたまたま大金を手に入れたばかりで大変上機嫌だった事と幸運が重なっていなかったら、彼女が座り込んでいた、“混沌の街”新宿でも屈指の危険地帯とされる通称“どん底通り”で少女の人生は事実上終わっていたに違いなく、この後彼女が新宿で歩むことになる長い長い物語も無かっただろう。もし彼女が信じてやまない神のご加護とやらがあるとすれば、それはこういう事なのかも知れない。
どん底通り──その名は一九九九年の大隕石群襲来で隕石の一つが落ちた、かつて新宿区役所通りと呼ばれた通りの現状を見事に言い表していた。
隕石の落下で甚大な被害を受けた一帯の復興計画は、隕石の落下直後と新世紀内戦終結後の都合二回実施された。
第一次復興計画は都知事、新宿区長、その他民間企業の代表者や有識者等で構成された“新宿区復興委員会”の主導によるものだったが、既に世界各地で隕石の落下地点を中心とした超常現象や怪異が数多く報告されていたにも関わらず事態を軽視した委員会は、軽微な機動隊と自衛隊を護衛として隕石の調査と復興作業を開始した。結果、区役所を始めとする諸施設内の書類、データ類を最低限ながら回収できたものの、作業の途中で大量に飛来したハエ、蚊などの虫による妨害や、突然錯乱した作業員、自衛隊員らによる暴動、殺傷事件など数多くの事件に見舞われ、委員会は計画の見直しを迫られることになる。更に追い打ちを掛けるように勃発したクーデターとそれに端を発する世紀末内戦により、第一次復興計画は文字通り瓦解してしまう。
内戦中、被害の拡大を防ぐ名目で新宿を封鎖し、根本的な対策を立てる事を事実上放棄していた政府は、内戦がほぼ収束するのを確認するや、マスコミや国民の追求を逸らすためか、すぐさま第二次復興計画に乗り出した。前回の失敗を踏まえ、機動隊はもちろん自衛隊も特別機動部隊を編成するなど、第二次復興計画には国の威信を掛けて膨大な人員と予算が投入された。内戦で破壊された道路の修復、隕石の影響で突然変異、凶暴化した生物の大半の駆逐、隕石の破片の回収などは、人員と火力に物を言わせてある程度の成果を上げることができたが、隕石によって落下地点とその周辺にできたクレーターの埋め立て作業だけは一向に進展を見せなかった。
陥没部分に土をかぶせて埋めたはずの部分が、一夜明けると土が消えて元に戻ったり、工事機械の故障が頻発したり、はたまたコントロールが利かなくなって暴走したりといった、第一次復興計画の時さながらの異常現象が頻発。とどめを刺したのが、夏も盛りの八月初旬に起こった集団恐慌事件──後に言う“真夏の白昼夢”事件である。
昼の休憩が終わって午後の作業の最中、隕石の落下で壊れた水道管の修復のための調査に当たっていた作業員の一人が突然奇声を上げて失神。更には駆け寄った近くの作業員も同じように叫び、錯乱して走り出す始末だった。パニックは驚異的な速さで周囲に広まっていき、地面や壁に狂ったように頭を打ち付ける者、他の作業員に襲いかかる者、クレーターの下へ飛び降り自殺する者など症状は様々だったが、日没近くになってやっと沈静化した時、官民合わせておよそ四百人が頭髪真っ白、殆どが死亡か重軽傷、そうでなくても精神に異常を来した状態で状態で医療機関に収容された。辛うじて会話が可能だった作業員の一人によると、
「空から耳が破れそうな程大きな音がして、炎や氷がたくさん降って、地面が燃えてひび割れるのが見えた」
という。ちなみにこの作業員はこの証言を残した直後意識不明となりそのまま息を引き取る。
この事件の後、政府は『新宿区内の道路等の修復、隕石の破片回収を始めとする一連の作業はほぼ完了』と発表し、今後の活動を討議中のまま予算、人員の大部分を撤退させ、事実上復興計画は凍結され、旧区役所通りの北は職安通り、南は風林会館までとその周辺の道路は危険地域として立ち入り禁止とされる。
その後新宿が外部資本を積極的に導入してめざましい復興を遂げていくと、それに比例して非合法な取引、娯楽の類も増えていくのが世の常である。官憲の眼を逃れるためクレーターとその近辺で違法取引や賭博などが頻繁に行われるようになり、やがて一攫千金を求める者や他の場所から文字通り『落ちてきた』者達がクレーターとその周辺に集まってきて、更にはそれらを相手に商魂たくましい連中が店を広げ、あれよあれよという間に一大歓楽街が形成される。この有様に外部の人間の誰かがクレーター内に作られたその外見と、ゴーリキーの有名な戯曲の名前になぞらえて“どん底通り”と呼ぶとすぐさまその呼び名が定着した。当の住民達さえも、落ちる所まで落ちてしまった自分自身を嘲笑うかのようにその名を使うほどに──
「観光ガイドでも見ただろう? どん底通りには近づくなって。とにかく早くここから出ないと危ないぞ。ほら、立てるか?」
「大丈夫です。自分で立てます」
手を差し出す恭介に、少女は断って自分から立つ。
「いいか、あっちの十字架の下に教会があって、そこが通りの北の外れだからあそこを目印にして歩くんだ。途中で呼び込みとかいっぱいあるけど無視して進むんだ。いいな?」
言って恭介が指差した先を見てみると、かなり距離があって、しかも立っている所からかなり上の方にだが、確かに十字架が屋根のてっぺんに立っている教会らしき建物があるのが少女にも見えた。
「はい、あれですね。ありがとうございます」
丁寧にお辞儀して、十字架のある方向へ向かっていく少女を見送りながら、
(「本当に大丈夫かな。あの嬢ちゃん相当お人好しそうだし……」)
そう恭介は考えていたが、
「ったく、何でこんなに甘っちょろいこと考えるんだよ? 俺らしくないぜ」
独り毒づきながら歩き出すが、恭介のその心配は見事に的中するのだった。
「さあさあ、さっき絞めたばかりのトリはどうだい? 闘鶏場払い下げの軍鶏だから安心だよ!」
「最新のCPUが安いよ! それに西のオフィス街から型落ちしたばかりのノートもあるよ!」
「ねぇそこを歩いてるお兄さん、一晩一緒に遊ばない? それともそっちのお嬢さんでもいいわよ。安くするからさぁ」
「疲れたらうちの喫茶店へどうぞ! 今なら一発で疲れが取れる注射も一本サービスするよ!」
どん底通りの両側に立ち並ぶ建物はバラックと呼べる物ならまだ良い方で、廃材で適当に組み上げられた今にも崩れそうな小屋も多く軒を連ね、中には板と柱で屋根を立て掛けた物や、地面にシートを敷いた上に商品を並べただけの露店もそこかしこに見られた。それらを原色のけばけばしい看板、装飾の類が彩り、店の呼び込みや歓声、叫声、その他大小様々な音が包み込む。しかも通り自体がクレーターの斜面に作られているため当然傾いていて、しかも下方に建てられた建物の屋根が通りになって更にその上に店が出来たりと、無計画に建てられた建物のせいで右へ左へと歪んでいるわ、脇道は通りに対して直角だけでなく斜めだったりはたまた上下だったりして、素人が入り込んだら間違いなく方向感覚が狂うだろう。
少女もまた、曲がりくねる道と、他の通行人に押されたり群に飲まれたりして何度も方向を見失いそうになったが、目印の十字架を頼りに少しずつ通りの外側へ進んでいた。
斜面を上がると、ようやく教会の建物が眼に入る。恭介に教えられた時には気付かなかったが、その十字架は少女にとってなじみ深い二つの棒が組み合わさった物に、更に上下に一本ずつ横木があって、下の横木は斜めに組まれていた。しかもその十字架が立てられた屋根もタマネギのような形状をしていた。それはロシア十字と呼ばれる、東方正教会でよく使われる十字架なのだが、それを少女が知るのはもう少し先のことである。
全く見慣れないその十字架に、少女はしばし困惑するが、背後からの爆発音で強制的に中断させられる。
それは彼女いた場所から約百メートル後ろの店に並んでいたダイナマイトだったが、当然ながら正規のルートではなく、某国某所の土木業者の倉庫でずさんな管理により長年放置され、ふとしたきっかけで発見されて処分される予定だったのが、横流しの末にどん底通りへ持ち込まれた物だった。そのため染み出したニトログリセリンがほんのちょっとした衝撃で爆発、他に並んでいたダイナマイトや火器類にも誘爆したのであった。
そのダイナマイト等を売っていた店はもちろん、周りの店や通行人も爆発で焼死、もしくは吹き飛ばされるが、爆発を免れた店は即座に売り物と金をまとめ、我先にと逃げる通行人達の流れに飛び込む。だが、どん底通りに不慣れな者は状況に理解が追いつかず、頭の中が真っ白になって棒立ちになっている所を、逃げる人達のまさに激流に飲み込まれると、モラルの欠片も無い連中に倒され、踏みつけられる等して怪我を負わされ、運の悪い者は命を落としてしまう。
少女もまた、派手な服装をした娼婦らしい女にぶつかってよろけた所へ、「邪魔だ!」とヒスパニック系の中年男に突き飛ばされて側の店にぶつかると、屋根と柱、それに薄い板壁の、安普請を鼻で笑う店はあっけなく倒壊。それに巻き込まれる形で周りの似たり寄ったりな店もドミノ倒しの要領で次々と倒れていき、混乱に更なる拍車が掛かる。
混乱がようやく収まったのはそれから数分後、ほとんどの人が逃げ去った後、どん底通りでこの一帯を縄張りにするロシアンマフィアの構成員達が消火に駆けつけてからだった。
「お前ら、道具はちゃんと持ってきたか?」
「はい!」
「掛かれ!」
彼らはリーダーの指示で手榴弾を取り出し、ピンを抜いて火に向かって投げると、数秒後爆発が起こる。複数の場所で同じ爆発が起こると、爆風で周辺の可燃物が吹き飛ばされ、火自体も勢いが一気に弱まる。
「良し! 残った火を消すぞ!」
続くリーダーの指示で消火器を手にするまでの間、ロシアンマフィアの構成員達は逃げ遅れの確認や救助の類は一切しなかった。彼らにとっては飯の種であるどん底通りの火災を消す事が最優先であり、いくらでも代わりの効く住人や客に時間を割くという思考は存在しなかった。
そんな強引とも言える手際でほぼ鎮火されると、構成員達は消し残した火を探すのと、再燃火災を防ぐため燃え残りの建材の撤去に掛かる。
「良し、この辺のはまだ燃えてないな。折ったりしないで大事に運べよ」
その中で火元から遠い場所を担当するグループが、後で売るために倒れた店の建材を確保に掛かる。
「ん、何だ?」
構成員の一人が、屋根に使われていたトタンの下から人間の手が出ているのを見つける。死体だったら面倒だなと思いながらトタンを持ち上げると、そこにはまだ十代と思しき少女が倒れていた。
構成員が少女の周りの建材をどけて、少女が大きな傷を負っていないのに気付くと、もしかしてと思って少女の側に寄り、腕を取って脈を診る。
「おいアンドレイ、ガキの死体相手に何ボーッとしてやがる! 死体愛好癖にでも目覚めたか!?」
他の構成員が、作業から外れた仲間をどやしつけにやって来る。
「イワン、こいつ生きてるぞ。気を失ってるだけだ」
「マジか。でもどうすんだよ、家族探して引き取って貰うのか?」
面倒臭そうに言うイワンに、「ンなわけねえだろ」とアンドレイが返す。
「どん底通り(こんなとこ)に来るようなガキだぞ。余程の物好きか、そうでなきゃ相当な訳ありだ。多分後者の方だろうよ」
「じゃあどうすんだよ?」
「良く見ろよ、このガキ、親分の好みに思い切りストライクじゃねえか。ちょうど明日が親分の誕生日だし、プレゼントに献上すれば俺達の点数上がるぞ」
「成程、そいつは良い考えだ。──いや待てよ、もしこいつが良い所のお嬢様で、さっきのお前の言葉を借りたら余程の物好きだったとしたらどうすんだ? 厄介事になったら点数どころじゃねえぞ」
「そうか、ん~……」
腕を組んで唸るアンドレイだったが、突然「そうだ!」と手を叩く。
「今日のうちにコカインを入れちまおう。中毒者にしちまえば逃げ出す心配は無くなるし、もしも良い所のお嬢様だったとしても、世間体があるから表沙汰には出来ないだろうよ」
「おおっ、冴えてんじゃねえかアンドレイ!」
「だろ? んじゃ早速持って行こうぜイワン」
「待て待て、勝手に持ち場を離れて後でボリスの兄貴にバレたら大目玉だぞ。まずは断りを入れてからにしようぜ」
「ボリスの兄貴か……手柄を独り占めされないか?」
「仕方ないだろ。第一お前がさっき言ったコカインにしても、俺達が勝手に使ってバレたらヤバいだろ?」
「あ、そうか。どの道兄貴に言わなきゃ駄目か……」
「そういう事だ。分かったら行くぞ、アンドレイ」
「あ~あ、早く俺達も幹部になりてえな……」
ぼやくアンドレイの肩を叩くと、イワンは未だ気を失っている少女を背負うように相棒を促すのだった。
その頃、リトル九龍では──
「ん~っ」
床の上に並べた少女の鞄の中身を前に、英樹が唸り声を上げていた。
「Republique francaise──フランス共和国か」
それらの中から手帳状の物を手に取って、表紙に記された文字を読み上げてページをめくると、そこに貼られた写真から少女の物である事を確認する。
「パスポートまで置いて行っちゃったのか。うっかりにも程があるだろ」
呆れたように独りごちて、他の中身を鞄に戻すと、パスポートを手に英樹は立ち上がる。
「鞄がこっちにあるんだから、向こうから戻って来てくれれば面倒は無いんだけど、そうもいかないかな──こういう新宿だし」
英樹は携帯電話をパソコンデスク上の充電器から外すと、内蔵のカメラでパスポートの写真を撮影し、登録してある連絡先から目的の相手を選択。数回のコールを挟んで相手が電話に出る。
『はいこちら沢木。今日は何の用だ?』
「人を探している。居所か、それに繋がる情報が欲しい」
早々に本題に入ろうとする電話の向こうの相手に、英樹も慣れた様子で答える。
「探しているのはこの子だ」
英樹は先程撮影した、パスポートの少女の写真ファイルを送信する。
『ああ、この嬢ちゃんならさっき見たぜ』
「本当か!? どこで見た?」
予想外の反応に、英樹の声が若干上擦る。
『おっと、ここから先は、分かってるだろ?』
「ああ」
英樹はあらかじめ一定の金額で発行済みの、ウェブマネーのプリペイド番号を恭介に伝える。
『OK、確認した。嬢ちゃんなら、どん底通りで見たぜ』
「どん底通り──ここからだと、北側か?」
『ああ。一応出る方法は教えたが、さっきあの辺りで爆発があったから、もしかしたら巻き込まれてるかもよ』
「おいおいマジかよ、ったく──」
『まあ無事だったとしても、北側と言ったらロシアンマフィアの縄張りだろ。もし嬢ちゃんがあそこの連中に目を付けられたら──』
恭介の言わんとする所を、英樹は即座に理解する。
「おいおいおい、あいつがあのボスへの貢ぎ物になんてされたら、面倒なんてレベルじゃ済まないぞ!」
流石に英樹の表情と声に、焦りが出てくる。
『それじゃ俺が先にどん底通りへ行って探してみるよ。どうせお前も来るんだろ? つー訳で』
「分かった」
英樹は追加のウェブマネーのプリペイド番号を伝えて通話を切ると、クローゼットの方へ身を翻した。
皆様に置かれましては連休をいかがお過ごしでしょうか。
今日は18時にもう1話アップします。




