彼女の住処3
未だ万歳ムードの集会場から、楓が英樹に連れられて来たのは、英樹の部屋の右隣にあるドアだった。英樹が懐から鍵束を取り出し、その内の二本を選ぶと鍵穴に差し込んで回す。
ドアを開けて中に入ると、真っ暗だったので英樹がブレーカーを上げ、電気を付ける。間取りは英樹の部屋と同じだったが、机と炬燵、ベッドの他は本棚と本が部屋の大部分を占領している英樹の部屋に対して、こちらはクローゼットやソファーベッドなど、遙かに生活感が感じられた。しかし長い間使われていなかったらしく埃っぽかったので、英樹が雨戸を開けると、初春の夕方の冷たい空気が室内に入る。
部屋中を見回しながら、楓は英樹に尋ねる。
「ここにある家具とかは誰の?」
「前の住人の物だよ。使っても文句は来ないだろう」
英樹は言葉を一旦止め、遠い目をしながら言葉を続ける。
「……もう死んでるからね」
その目は既に亡き前の住人を偲んでいるのだろうか、そんな目とは対称的に顔は無表情で淡々と英樹は答える。
「それじゃ、これが鍵。コピーが出来ない物だから、無くさないように気を付けて」
先程使った二本の鍵を楓に渡し、英樹は立ち去ろうとして、ふと足を止め楓の方を振り向く。
「それから、何かあったら僕の所に連絡するように。リトル九龍の主立った電話番号は電話の側に電話帳があるから。それじゃ」
言って、英樹はバタンとドアを閉めて出て行ってしまう。集会場から楓をこの部屋に案内し、たった今出ていくまで、英樹の態度は終始事務的で淡々としたものだった。今までも度々英樹にうっとうしがられたことはあっても、多少は楓を気遣ってくれる向きはあったが、今回の英樹は個人的に気に入らないことを仕方なくやっているという考えがありありと見て取れた。それは英樹にとって他のどの部屋よりも特別な意味を持つこの部屋が、何の関わりもない他人のものになってしまうことに対する憤りが爆発しそうなのを心の中で必死で押し込み、且つそうと気付かれないように隠そうとして、それが知らず知らずのうちに態度に出ていたという事を楓が知るのは、もうしばらく先のことである。
そんな英樹を何だか酷く冷たいと思いつつも、ようやく落ち着く場所を見つけたという安堵と、部屋中に舞い上がる埃に、食事の支度の前にまず掃除をしようと楓が思った矢先、部屋に呼び鈴の音が鳴り渡る。
誰だろうと思いながら、楓はインターホンへ向かう。
「はい、何でしょうか?」
返ってきたのは、昼間も聞いたことのある、やたらと元気な男の声だった。
「やあお嬢さん、ちょっといいかね?」
自分の部屋に戻り、帽子、上着、ネクタイを床に放ると、そのまま英樹は仰向けにベッドに倒れ込んだ。
「はぁぁぁぁっ……」
思わず溜め息がでてしまう。その位心身共に疲れた。ただ縛り付けられているだけでも結構疲れるものだし、加えてリトル九龍の住人たちに囲まれ、睨まれ、脅迫まで受けたとなれば、疲労困憊しない方がおかしい。だが何よりこたえたのは、自分の隣のあの部屋を、他人に使わせる羽目になった事だ。
リトル九龍の住人たちの多くが楓の事を気に入っているのはある程度考えに入れていたが、流石に隣の部屋に目を付けられるのは計算外だった。生前、リトル九龍の住人達のみならず、新宿や外の者達の多くから愛され、憎まれ、恐れられ、死後も他の者が死んだ時ならハイエナのように遺品や遺産に群がり喰らい付くような連中さえ手出しを控えた彼女の部屋に。あの部屋に足を踏み入れて良いのは自分だけなのに、自分だけのはずなのに──!
「いや、いや──」
頭を振って考えを強引に止める。こんな事をいくら考えても無駄だ。もはやあの部屋は彼女と英樹の領域ではなくなってしまったのだ。これはもはやどうしようもない事実であり、リトル九龍住人の総意である以上、自分独り抵抗した所で無駄な事だ。それより問題とすべきは、これ以上楓とリトル九龍の住人たちに自分の生活を侵されないためにはどうすれば良いかということだ。
彼女の部屋というのは気に入らないが、前向きに考えれば、自分と楓が別々の部屋になったのは好都合というもの。必要最低限を除いて楓と顔を合わせないようにして、会話も極力電話で済ませる。あとはリトル九龍の住人達の熱が冷めた頃を見計らって、楓に高校の寮に移ることを勧める。それで完全とは言えずとも、ほぼ元通りの状態に戻る。そう、あの部屋が自分の元に戻って来るのだ──
ベッドの上で天井を見上げながらそう考えを巡らせていると、不意に呼び鈴の音が鳴る。
疲れているのに一体何だと心の中で文句を言いながら、インターホンへ行って受話器を取る。
「はい?」
インターホンのモニターには東南アジア系の男が映っている。疲れを隠そうともしない英樹の声に、
「オ疲レノ所スマネ。少ス大事ナ用事ガアッカラ、ス邪魔ステヨロスイベガ?」
田舎なまりの口調で男が尋ねてくる。
「何の用?」
「ソレハ入ッテガラ話スマスカラ、マズハドア開ゲデグレマスカ?」
何の用だって言うんだよ全く、と思いながら、英樹は仕方なくドアの鍵を開ける。
「失礼スマス」
そう言って、男がひょろ長い身体を英樹が開けたドアの間に滑り込ませて部屋の中に入り込んでくる。この男、名前をグエン・ヴァン・ダットと言い、ベトナムから建築を学びに日本へ留学して来たのだが、政府高官だった父親が失脚したため仕送りが途絶え、学費はおろか生活費もままならないわ、家賃を滞納して住まいを追い出されるわで、いくつもの仕事や住む場所を転々とした末、リトル九龍に流れ着いて来たのである。ちなみに父親が世界中で放送された伝説的朝ドラの大ファンで、グエンが祖国にいた当時は実家に何十本ものビデオがあり、それらで日本語を覚えたため、独特の口調になってしまった訳である。
部屋に上がるなり、グエンは巻き尺を取り出し、部屋の壁や本棚の長さをあれこれと測り始める。玄関でそれを見る英樹が一体何をやっているのかグエンに尋ねようとした時、
「おう、邪魔するぞ」
後ろから割れ鐘のような声がして振り向いてみると、万次郎が道具袋を担いで立っており、強引に英樹を押しやって、これまたズカズカと部屋に上がり込んで来る。部屋の方ではいつの間にか本棚の一つが中身を抜かれて移動されており、元あった位置の壁にグエンが何やら線を引いているところだった。
「おい、大丈夫そうか?」
「何モ問題ハネ。コノ線通リニヤレバ開ゲ閉メデギマス」
「おっしゃ。じゃ早速やるとするか」
万次郎とグエンの会話の傍らで、何をするつもりか訊くタイミングを伺っていた英樹だが、万次郎が道具袋から取り出した物を見て、
「おい、チェーンソーなんか出して、一体何をやる気だ!?」
「邪魔だ、どいてろ」
慌てて止めようとする英樹を払いのけ、万次郎はチェーンソーの刃をグエンが引いた線に当てて勢いよく引き始める。流石は建築現場歴二〇年以上を自慢するだけあって、あっという間にチェーンソーは隣の部屋へ貫通し、みるみる壁を切っていく。
「人の部屋の壁に何をするんだ、この野郎!!」
とうとうキレた英樹が、上着と一緒に床に放ってあったホルスターから自動拳銃を取り出し、無理矢理にでも止めさせようとした時、横から飛んできたダーツが右腕に当たり、痛みに拳銃を取り落とす。
「誰だ!?」
玄関の方に目を向けると、いつの間にか部屋の入口にニコルが立っている。右手に一本、英樹の右腕に刺さっているのと同じダーツを持っているのみならず、左手にも数本持って、いつでも投げられる体勢になっており、英樹にダーツを放ったのが誰かは問い質すまでもなかった。
「何をするんだいきなり! おまけに勝手に人の部屋に入って!!」
「何言ってやがる。お前だって銃撃とうしようとしたじゃないか」
「警告に決まってるだろ!」
「信用できるかよ、そんなの」
「大体こいつらだって、勝手に人の部屋の壁を切ってるんだぞ。それは咎められないのか?」
「えっ?」
ハッとした表情で、ニコルは英樹と遣り取りしていた間も作業を続けていた万次郎とグエンの方を向く。
「お前ら、何のためにその壁切るのか言ってなかったのか?」
ちょうど作業が終わり、隣に続く大穴が壁に空いた所だった二人は、ニコルから訊かれるなり、
「あっ、そう言や忘れてた!」
万次郎が額をピシャリと叩き、
「アッ、忘レデタ!」
グエンが手を打って答えた。
「……ったく、普通忘れるかよこんな事」
頭が痛そうに額を抑え、溜め息をつくニコルだったが、そこに壁の穴の向こうから長髪を頭の後ろで縛った男が現れる。
「まあええやないの。世の中には事後承諾ちゅう便利な言葉があるんやで」
そう言って笑いながら英樹たちの所へやって来るのは自称“天才発明家”相沢正太郎である。
「お前か相沢、お前がこの破壊活動を計画したのか!」
ダーツで刺された箇所を押さえながら英樹は正太郎に詰め寄る。
「破壊活動やない。お前と楓ちゃんが会議場を出てった後、部屋が別々だと色々不便やないかと意見が出てな、それで手軽に行き来できるようにしよう言うことになったわけや」
「それで穴を開けるのか? 僕たちの承諾もなしで!」
「楓ちゃんにはとっくに話して、今は夕飯の買い出しに行ってもろうとる。お前からも快諾を貰った言うといたで。反対する理由なんてないさかいな」
「大ありだ! 本棚とかどうする気だ? 承諾なんてしないぞ! すぐ元に戻せ!!」
「お前の本より楓ちゃんが喜ぶ方が大事に決まっとるやないか。未来の百科事典で『人類史上最も偉大な天才発明家』として載せられる予定の俺の天才的頭脳で考えるまでも無く──あぐっ!」
突然奇声を上げて、そのまま正太郎は前のめりに倒れる。よく見ると背中にニコルのダーツが刺さっており、針に眠り薬の類が仕込んであったらしく、ちょうど頭の位置に積んであった本を枕代わりにして眠りこけている。
「何寝言ほざいてやがるんだ、このアンポンタン。……とにかく、そう言う訳でみんなの圧倒的多数で決まったんだから工事は続けさせて貰うぜ。お前も民主主義は分かるよな」
「ちょっと待て。民主主義には少数意見の尊重というのもあるぞ」
何とか工事を止めさせようと、必死で抵抗する英樹だが、
「そんなの通ると思ってんのか? 分かってんだろ?」
ニコルはぐいっと顔を近付け、
「ここはリトル九龍だぜ」
そう言って、ニヤリと笑みを浮かべた。
ガックリうなだれる英樹を後目に工事は急ピッチで進み、ものの数時間で二つの部屋を繋ぐ出入口は完成した。経緯はともかく、開けた穴にピッタリとフレームを組んでドアを取り付けた辺り、万次郎達の腕は確かだった。
「すごーい、これなら簡単に行き来できるね!」
帰って来るなり出入り口を見せられ、それまでの経緯も知らずに楓が喜ぶ。ついでに連中は楓の部屋を簡単ではあるが掃除までして行ったので喜びもひとしおであろう。そんな楓とは反対に、英樹は鬱屈と共に、もはや楓との共同生活は避けようがない事を改めて痛感するのだった。
ベッドから下りて、英樹は机の引き出しの奥から一枚の写真を取り出す。そこに写っていたのは、あの日リトル九龍の屋上で、やや緊張しながら立っている英樹自身と、彼の肩に手を置き、隣で微笑んでいる彼女の姿だった。
入れる物に合う形の容れ物がないんだったら、容れ物の形を物に合わせちゃえばいいじゃない──あの日そう彼女は言った。
「でも、今のこれが、本当に僕に合った形なのか? 彩──」
英樹はそう尋ねるが、無論、写真の中の彼女は何も答えてくれなかった。




