366日目の黄昏
二月二十九日
僕にとってこの日は、唯一彼女と逢える日だった。
四年に一度だけの一日。たった二十四時間。たった千四百四十分。たった八万六十四百秒。そんな日が、彼女とのたった一つの接点というのは皮肉なものだ。
それこそ、天に浮かぶ星々が紡いだ七夕ですら一年に一度会えるというのに。この世界に神様がいるのなら、きっと性悪の傍観主義者なのだろう。
でも、なんとなく、僕はそれで良いと思う。
なんて想いながら、手持の線香に火をつけ、海へと投げ入れた。
「ねぇ、一年って三百六十五日でしょ? なら、今日は一年に無いはずの日だよね」
そんな事を彼女は話していた。
揺らめく焼けた陽射し、ほんの少しの間だけ訪れる凪、淡い藍に揺蕩う無色不透明な雲。煌めきに彩られた情景は色々と思い出させてくれる。
脳裏を過ぎる懐かしい記憶の断片はキラキラと輝き始めた。
「一年にないはずの日?」
「そう。閏年だけにある三百六十六日目」
「でも、なんで?」
「さぁ。でも、そんな日があるってことだけは確か」
「……よく分からない」
「だよね」
こんな会話さえ本当に楽しかった。そう、心の底から楽しんだ時間。
笑みを零しながら話す彼女の髪は、夕凪なのに靡き、乱れているのに綺麗だった。
泣き弱って腫れた眼元、叫び続けて枯れた声、何度も転んだ証の泥汚れ。それさえも美しく感じた最期の最後。
残響に押し潰されそうな中、訪れた沈黙に身を置き、ただただ沈む太陽を見て、物思いに耽った。
ふと、遠のいていた意識は携帯の着信で現実へと戻されてしまう。
ポケットから取り出して、すぐに着信拒否のボタンを押すと、「ごめん。今外にいるから」なんて定型文を選んで、送信する。そして、電源まで切り、その辺に放り投げた。
「はぁ……」
溢れる吐息には、幾分かの幸せが入っているのだろう。だったら、誰かに届いてくれれば良いな。なんて下らない感傷に浸り、ほんの数瞬の間だけ目を瞑った。
暗闇に差す微かな光は、こんな時ですら目蓋の裏側に浮かぶ。そんな事に心底うんざりしている。呆れる。茫然とする。でも、心の奥底では安心していた。
もう一つ、大きな息を吐くと、ゆっくりと目を開く。その瞬間、一筋の流れ星が駆けて行った。
願い事、願い事……そんな事を考えていると、いつの間にか消えてしまっている。まぁ、だからこそ、三回も願い事を唱えれたら叶うと言われるのだろう。
ふと見上げると、近くに街という街が無いせいか、もう紺青の空には瞬く光が鏤められていた。腕時計は十八時五十九分を示している。
やっぱり神様って意地悪だ。
幾重にもなった偶然は、二つとない鮮明な記憶をこんな綺麗な風景に投影した。
「ねぇ、来世は何が良いかな」
「来世? 信じてるの? 生まれ変わり」
「まぁね。私は、また私に生まれ変わりたい」
「なんだよそれ」
「……また出逢えるかな」
「…………」
今過ごしているはずの一年に無い今日。例外を許さないこの世にある“例外”。
多分、それが僕と彼女が出逢えた理由で、たった一つの共通点。そして––––。
「……じゃあ、そろそろ行こうかな」
「……うん」
「ちゃんとお別れをしなきゃだね」
「分かった」
込み上げてくるのは、言葉に出来ない程苦しい切なさ。最後に見る景色が、こんな綺麗だと、ちょっとくらいの後悔は残るだろうな。
吐き出してしまいたい全てを、背負いきれない全てを持って、そっと口を開く。
「じゃあね」
「ばいばい」
「また逢おうね」
「うん。また」
そう言うと、手を繋ぎ、足並みを揃え、ゆっくりと歩き始める。足場のない空に向かって。
寄せては返す漣の音、暮れを告げる烏の声、虫のさざめき。そんなのを横目に一歩、一歩と踏み締めていく。
互いの体温を確認しつつ、全身の震えを誤魔化し合って、進んで行った。
そして、もう一歩踏み出せば、天へと続く道へ真っ逆さまだ。
どんどん強くなる震えに互いを抱きしめ合う。
「ごめん。ちょっと怖いな」
「僕も」
「でも、行こ」
「うん」
大きく息を吸い込み、“終わり”を覚悟した。
瞬間。
「月が綺麗だね」
彼女の小さな囁きに、つい空を見上げ、淡い月に目を盗られてしまう。
「……本当にごめんね」
そんな小さな呟きが聞こえた瞬間には、もう全てが遅かった。
不意に強く押されてしまい、大きく後ろへと下がってしまう。
「私の分まで、生きて。強く生きて」
最期の叫び。
涙を浮かべながら満面の笑みを見せると、眠りにつくように目を閉じる。そのまま足場ない道へと倒れるように、彼女はそこから消えてしまった。
遅れて一つ聞こえた水音。
「な……何、で」
理解出来なかった。
全てを共にすると誓い合った彼女が、何故、最期の最後で僕を裏切ったのか。
凪も終わり、潮風に煽られる中、ただ、呆然とするしかなかった。
結局、あれから彼女を追いかけなかった。追いかけられなかった。
彼女の言葉のせいか、それとも、死ぬことへの恐怖だったのかは分からない。でも、だから今の僕があるんだと思う。弱虫でも、強くあれば良いんだと、そう思って生きてきた。
太陽はその姿を隠し、いよいよ僕の頭上は夜一色に染められようとしている。
……そろそろ僕は行かなくちゃ。
「ありがとう」
あの日、決して僕の時計の針は止まらなかった。彼女の所為、なのだろう。多分、それがなかったら、ここには来れていない。
焼けた風景を仰いだ。
「––––あと、ごめん」
でも、一度壊れて仕舞えば、直すことなど出来なかった。
一度でも狂ったものは、決して戻ることを許されなかった。
進むべきはずの道は、何処にも無かった。
「……じゃあね。また、逢おう」
腕時計は永遠に十八時五十九分を刺したまま。電池切れでも、故障でも、不具合でもない。
八年前の今日。理由もなく止まってしまった時計は、この瞬間からまた動き始める。
そして、僕と彼女の物語は終わった。