トオル
篠田洋子は夫である篠田順一を包丁で刺殺した殺人の現行犯で逮捕された。
110番通報で警察官が駆けつけたときには被害者は数十か所をめった刺しにされて、あたりは血の海と化していた。
小学校にはいったばかりの一人息子、篠田僚は犯行現場の隣の部屋で呆然とした様子で床に尻をペタリとついて坐っていた。
ショックのせいなのか一言も喋らないので、犯行を目撃していたのかどうかはわからなかった。
事件は被害者のDVに耐えかねた妻が夫を刺殺したというものだったが執行猶予はつかなかった。
加害者、被害者の実子である篠田僚は宮城県の養護施設へとひきとられた。
楽名という施設の先生は不思議な人だった。
僚はもともと口数が少ない子だったし、事件から後は一言も喋らなかった。
けれども楽名は僚の頭のなかに直接話しかけてくるのだ。
どうなっているのか僚にもわからなかったが、楽名の言葉は確かに頭の中に聞こえてくる。
そして声に出して答えなくても楽名には僚の考えていることがわかっているようだった。
施設にひきとられてから一週間ほどした頃、トオルは楽名に「教室」に連れてこられた。
楽名は僚に大きなテーブルにいくつか並べられている椅子のひとつに坐るように言った。
楽名がいつものように頭の中に話しかけてくる。
「トオル君はさわらないで物を動かせるよね?」
僚はギクリとした。
何故それを知っているのだろう?
でも僚がそう考えたことで答えなくてもそれは楽名に伝わったようだった。
楽名はひとつの器具を僚の前に置いた。
直径10cmくらいの金属の円盤、厚さは1cmくらいだろうか重そうだった。
円盤の真ん中には直径1cmほどの穴があいている。
台座のほうは木製で円盤より少し広い面積の四角い木の板の真ん中に直径1cmほどで高さが15cmほどの棒が固定されていた。
円盤は輪投げの輪のように、その棒に刺さるように設置されていた。
円盤を持ち上げて15cm上げてやれば、棒から抜くことができる。
楽名の声が頭のなかに響く
「持ち上げてごらん」
僚が円盤に手を延ばそうとすると、また楽名の声が頭のなかで響いた。
「そうじゃない、手を触れずに動かして」
僚は金属の円盤に意識を集中してみたが、円盤はぴくりとも動かなかった。
楽名は次にまったく同じ形をした木製の円盤をもってきた。
やはりぴくりとも動かなかった。
次にダンボールの紙でできた円盤が登場したがそれも同じだった。
最後に紙でできたぺらぺらの円盤が前に置かれた。
「集中して、少しだけでいい」楽名の声が語りかけてくる。
僚は意識を集中した、視界が揺れるような感覚。
いつもの感覚が現れた。
紙の円盤は小さく振動をしている。
僚がさらに意識を集中すると、すっと円盤が2cmほど浮き上がった。
風にでも吹かれたような感じだが、室内なので風はない。
「よし、よくできたね」
「毎日、午前と午後ここで練習してみよう」
楽名はそう言ったが、僚はあまり気乗りがしなかった。
触らないで物を動かすと、とても疲れるからだった。
そして、そんな些細な力は何の役にも立たなかったから。
それでも言われた通りに午前と午後の時間に練習をすると、少しずつ紙が高く持ち上がるようになった。
3日目の午後、楽名がダンボールの円盤をもってきた。
僚が意識を集中すると円盤は1cmほど浮き上がった。
このころには僚は練習が楽しくて仕方なくなってきていた。
たぶんこのまま練習すれば、また3日ほどでダンボールも柱から抜けるようになるだろうと思った。
そして2週間ほどで金属の円盤さえも持ち上げられるようになった。
教室での勉強はそれで終わりだった。
それからは僚よりも前から施設にいる子供たちと一緒に遊ぶことになった。
みんなトオルと同じように色々なものを動かすことができる。
一緒に遊んでいるうちに、トオルはいつか子供たちの中でも力が一番強くなっていた。
そんなある日、楽名は一冊の厚い本を持ってきて僚に言った。
「この本を触らずにめくることができるかな?」
「いっぺんにめくっちゃだめだよ」
「正確に一頁ずつパラパラとめくるんだ」
本の頁は軽い、造作もないことだった。
僚が意識を集中すると猛烈な勢いで頁がバラバラとめくれていった。
「ああいいね、僚くん」
「それじゃあ明日から、ミコのお手伝いをしてくれるかな?」
僚はおそるおそる訊いた。
「巫女って、天気予報の?」
「そうだよ、ミコと一緒に行って本をめくってあげて欲しいんだ」
天気予報のミコは僚たち、ここに引き取られてきた数人の子供たちの人気者だった。
いつも明日の天気とか、いろいろなことを教えてくれる。
そして何よりも、ものすごくきれいなお姉さんなのだ。
「一緒にいって本をめくってくれるとミコも喜ぶと思う」
天気予報のミコはとてもきれいだけど、いつも無表情でニコリともしなかった。
僚たちが訊いたことには何でも答えてくれるから、子供が嫌いなわけではないと思う。
でも笑顔は見たことがなかった。
「お姉さんが喜んでくれる?」
「ああそうだ、2週間ほどは一日一緒にいてお手伝いしてもらわなければならないけど、それが終わったらきっと笑顔で褒めてくれると思う」
それだけ聞けば十分だった。
あのきれいなお姉さんと2週間も一緒に過ごせる。
「うん、僕お手伝いするよ」




