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黄昏のミリアム  作者: 雅流
安奈
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神田小川町

温暖化の影響なのか8月にはいってからの関東地方は連日気温が35℃を超える猛暑日が続いていた。


横断歩道の白いペンキが靴底に貼りついてくるような感覚を覚えるほどに照りつける陽射しは容赦がなかった。


JR神田駅からお茶の水方面へと向かう、小川町界隈の交通量はあいかわらずだったが、あまりの猛暑におそれをなしたのか歩行者の数もまばらだった。


そんな閑散とした街中に年配の夫婦が花柄のワンピースを着た女の子を連れて信号待ちをしている。


白い半袖のシャツを着た中年の男と、薄緑色の日傘をさした同年代と思われる女にはどこがどうというわけでもないのだが、真底くたびれはてた雰囲気がまとわりついていた。


やがて信号が青にかわると、夫婦はトボトボとした足取りで横断歩道を渡りはじめた。


しかしどういわけなのか花柄のワンピースの少女は両親についてはいかず横断歩道の端で立ち止まったままでいた。


二人は渡りきったところで初めて娘がいないことに気づいたように辺りを見回したが、父親のほうが先に少女がまだ横断歩道の向こう側にいるのを見つけた。


「安奈、何をしているんだ。はやくこっちに来い」


それでも少女は父親の声が聞こえていないのか、その場に立ちつくしたままだった。


信号機が点滅しはじめたのを見て母親は一瞬走って戻ろうかと考えたようだったが、停止線に並んでいるたくさんの車両を見て思い直した。


「安奈、危ないから動かないで、いいからそこでじっとしていて」


「もう一度青になるまでそこにいなさい、お母さんがそっちに行くから」


信号が変わるのを夫婦が待っていると、ひとつ先の交差点のあたりが何やら騒がしい。


夫婦からは見えない交差点の先を左に曲がったあたりで何人かの人声がしている。


金切声というのか悲鳴のようにも聞こえる女の声、何かを叫ぶ男の怒鳴り声。


夫婦が何だろうと首をかしげていると、声がしていた方角から交差点を曲がって男が飛び出してきた。


黒っぽいスウェットのような上下を着て野球帽をかぶったその人物は角を曲がると軽い足取りで夫婦のほうへと走ってくる。


まっすぐに自分たちに向かってくるその黒い人影を見て、夫婦は歩道の端の建物のほうへと寄って道をあけた。


ランナーはその軽快な走りのままに通り過ぎるかと見えたが、夫婦の手前まで来ると突然に方向を変えた。


明らかに意志をもって夫婦に向かって突進してきたのだ。


白シャツの夫は反射的に両手を前方に突っ張るようにして男の突進を押しとどめようとした。


しかし、男はそんなことにはまったく怯まずに、そのまま体当たりのようにぶつかってきた。


「ドン」という衝突音、それに続いて「ぐふっ」という息を飲み込むような声がして、ふたつの体が重なりあった。


僅かな静止時間の後にランナーの体が離れたとき、支えを失った夫は膝をつきその場に座り込むように倒れこんでしまった。


あっという間に倒れたあたりの舗道が水たまりのように赤黒く染まっていく。


その時はじめて女は黒い人影が銀色に光る細長い刃物を持っているのに気づいた。


そしてその男の顔はおびただしい返り血で真っ赤に染まっていた。


真っ赤な顔のなかに黒い両目だけがギョロリと光るのを見て、女は「ひっ」と短い悲鳴をあげて逃げ出そうとした。


しかし後ろを向いた女の背中に向けて、黒いスウェットの男は容赦なく襲い掛かった。


先ほどと同じように体当たりによる鈍い衝突音に続いて、女の体はズルズルと歩道へと崩れ落ちていった。


黒スウェットの男は女の背中から刃物を引き抜くと、ゆっくりと振り返った。


束の間、横断歩道のこちらと向こう側でふたつの視線があわさった。


その瞬間に信号が青へと変わり、赤信号で停止していた車両が一斉に動き始めて二人の視線を遮った。


横断歩道の向こう側では花柄の服を着た少女が悲鳴をあげるでもなく、時間が止まってしまったかのように立ちすくんでいた。


スウェットの男はすぐに少女から視線を外すと倒れた男女はそのままにして、また歩道を走りはじめた。


それからまだ20mほどを走り続けてから、男は力つきたように歩道にしゃがみこんでしまった。


通報を受けて警察が駆けつけるまで、そうしていた男は警察官の制服姿を見ると座ったままの姿勢で前のめりに倒れこんでいった。


警察官が駆け寄ったときには自分で喉を一突きにした男はすでにこときれていた。


犯人は6人の男女を刺したあとに自殺、被害者は6人全員が死亡、犯行動機は不明だった。


小川町通り魔殺人事件。


警察の調べでは犯人は中学生のころから引き籠りとなり20年近く、自宅の部屋に籠りきりで、たまに近所のコンビニに出かける程度の行動範囲しかなかった。


その犯人が犯行の前日に凶器の刃物を購入するために、わざわざ自宅から2駅先にあるホームセンターまで出かけていったのだった。


犯行当日、自宅最寄駅から淡路町駅まで7駅を地下鉄に乗り、その後は徒歩で犯行現場へと移動、到着後いきなり次々と人々を襲い始めたのだった。


なぜ犯行現場に小川町を選んだのかは不明。


犯行の状況からは、まったく無差別にたまたま通りあわせた者を次々と襲撃したと考えられ、被害者と何らかの関係がある可能性は低いと思われた。


内田夫妻は被害者6人の中で、唯一、自宅や仕事場が近隣なわけではなくて現場にいあわせた被害者だった。


現場でたまたま居合わせて事故にあったように見えるが、なぜ内田夫妻は小川町にいたのか、その理由もわかっていなかった。


内田夫妻には近隣に知り合いというものがほとんど存在しないようだった。


郷里から東京へ出てきてから、夫の内田義男は日雇い仕事などをいくつかしていたようだが、それもその日その日で仕事にありつけるかどうかというような仕事ばかりで、決まった仕事仲間というような者も存在しなかった。


実際には上京してからほとんど収入はないも同然で、多くはない貯金を食いつぶしているような生活だったのかもしれない。


そして両親を亡くした少女は一人残されたのだった。

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