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黄昏のミリアム  作者: 雅流
安奈
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台風


原生のブナ林が広範囲に広がる白神山地の北側、青森県の南西部に西目屋村は位置している。

村唯一の教育施設である西目屋小学校では午後の授業を中止して帰宅することが生徒たちに伝えられていた。


前日に四国へと上陸した台風7号は北陸から日本海へと抜け勢力を弱めると思われていたが、コースを変え北陸地方を舐めるようにして東北地方へと再上陸する可能性が高まっていた。


台風の東北地方への再上陸は夕方から夜半になる見込みであったが、西目屋小学校では大事をとって早めに生徒を帰宅させることにしたのだった。


小学6年生の藤田一郎は同じ里に住む内田安奈5歳を連れて帰宅の途についた。

一郎はいつも登下校に同じ集落の安奈を連れていたのだ。


一郎の父は土建業を営む村の実力者であり、息子の一郎も小学生とはいえしっかりとした少年であったので、安奈の両親である内田夫妻も安心して娘の登下校の付き添いを一郎に任せていたのだった。


家への帰り路、二人は手をつないで岩木川の支流である大秋川沿いの道を歩いて涙橋の袂までやってきた。

そのまま真っすぐに進めば一郎たちの集落へと続いているし、右折れして泪橋を渡れば山道の先は広泰寺だ。


泪橋まで来ると一郎はふいに立ち止まり、しゃがみこんで安奈に話しかけた。



「安奈ちゃん、ここからだったら一人でもお家まで帰れるよね?」



泪橋を通り過ぎればそこから先は一郎と安奈の住む集落までひとつの分岐さえもない一本道だった。



「ちょっと寂しいかもしれないけれど、それじゃあここからは一人で先に帰ってくれる?」


「お兄ちゃんはちょっとだけ用事があるんだ」



まだ5歳とはいえ毎日の通いなれた道だ、安奈は一人で帰ることに不安は感じなかった。


それに周囲の大人たちが思っているほど安奈は一郎兄ちゃんと一緒にいるのが楽しいわけではなかった。


「わかった、ここからなら安奈、一人で帰れるよ」


「でもお兄ちゃんはどこに行くの? 台風が近いから早く帰りなさいって山城先生が言ってた」


「お兄ちゃんはちょっとだけ用事があるんだ」


「用事がすんだらお兄ちゃんもすぐに帰るから大丈夫」


そう言うと一郎は安奈をギュッと抱きしめてからバイバイと手を振って泪橋を渡っていった。


一郎と別れて少女が帰り道を歩いていると、ほどなくして雨がぱらつき始めた。


最初はパラパラと振り始めた雨はあっという間に土砂降りに変わった。


少女は黄色い傘をさして歩いていたが、土砂降りの雨に怖くなり、いつしか道を駆け出していた。


足元のぬかるみに足をとられて転んだ少女は泥だらけになり、黄色い傘は土手のあたりに投げ出された。


少女はなんとか起き上がると泣きながら傘も取らずに家へと走っていった。


ずぶ濡れで泥だらけになり泣きながら帰ってきた安奈を母親の滝江はあわてて抱きしめた。

すぐに風呂にいれ服を着替えさせたが、風邪をひきこんだのか少女はガタガタと震えていた。


そして母親の用意した布団にもぐりこむとすぐに寝息を立て始めたのだった。



一郎は泪橋を渡ると山道へは向かわず、橋の袂のあたりから河原へとおりた。


それからは一目散に河原沿いの道ともいえない獣道を走っていった。


大秋川沿いには地蔵や仏像を収めた小さな祠が点在している。


なかには古くなりご神体は失われて祠だけが小さな洞窟のように残っているものも少なくなかった。


一郎はそのうちのひとつを自分だけの秘密倉庫にしていた。


秘密倉庫には宝物を隠している。


一郎は四年生の夏休みに父親に連れられて、宮城県にある博物館に行ったことがある。


そこでは博物館の展示のほかに、実際の現場を使って化石の発掘体験を行っていたのだった。


発掘体験のインストラクターはアンモナイトの化石を見せて、この発掘体験で採れたものだと言った。


体験実習は一時間ほどだったが一郎はすっかりその体験に魅せられてしまった。


一時間ほどの体験時間のあいだ小さなハンマーを一心不乱に振り続けていた。


アンモナイトは見つからなかったが運よく一郎は木の葉の化石を見つけることができた。

今でもそれは一郎の大切な宝物のひとつだった。


地元へ帰ってきて翌日から一郎は大秋川の河原や川沿いの崖などで化石を探し始めた。


最初はまったくの徒労に終わったが、一郎はあきらめずに根気よく発掘を続けていた。


一郎たちの集落は典型的な限界集落だった。


住民は年寄りが大半で、子供は一郎と安奈だけだ。


遊び相手のいない一郎は父の車に乗せてもらって、近隣の集落まで遊びに行くこともあったが、子供の社会にも部落主義はどことなくはびこっており疎外感を感じることが少なくなかった。


そのうちに一郎は他の集落へと行くことをやめて、遊び相手にもならないだろう小さな安奈のことをいつも連れて歩くようになった。


「まだ小学生だというのに小さな子の世話を自分からするなんて、さすがわ藤田さんのところの跡取り息子だね」村の者たちはそう噂していた。


遊び相手といえば、まだ5歳の安奈だけ。


そんな一郎が化石発掘を知って、一人でも楽しめる発掘にのめり込むのは必然の成り行きだったかもしれない。


この2年の間に一郎は8個もの化石を見つけていた。


初めて植物の化石を見つけたときの興奮は忘れられない。


大秋川流域にも化石がある!


それは一郎だけの大変な秘密情報だった。


そのために一郎は見つけた化石を家にも持ち帰らず、秘密倉庫に隠していたのだった。


中学生になって小遣いが貯まったら一郎は宝物を持って博物館を訪れ鑑定をしてもらうことを夢見ていた。


一郎の宝物のなかでも拳ほどの大きさの縞々がついた化石は特別なものだった。


一郎はそれがアンモナイトの化石の一部ではないかと思っていたが、今の一郎にはその正体を確かめる術がなかった。


いつか博物館の先生から「これは大変な発見だ」と言われることを一郎はなんどもなんども夢に見た。


一郎の秘密倉庫である祠は大秋川の河原に面した崖にあった。


今度の台風は大きいと言われている。


増水するかもしれないので川には近づくなと先生からも注意があった。


もし増水したならば宝物が流されてしまうかもしれない。


それは一郎にとっては大変な心配事だった。


台風が行ってしまうまでの間は化石はカバンの中に隠しておくしかないと一郎は思って、安奈と別れて秘密倉庫までやってきたのだった。


秘密倉庫には化石だけではなく、化石を発掘するための道具も置いてあった。


博物館で父親に買ってもらった小さなハンマーなどのはいった発掘セットだ。


それを目にすると一郎は少しだけ化石探しをしてみたくなった。


雨は強くなってきていたけれど、先生は台風が来るのは夕方から夜にかけてだと言っていた。


小さなハンマーを手にした一郎はいつしか発掘に夢中になっていた。


発掘に夢中になると時間はあっという間にすぎていく。


一郎が大秋川の水面がいつになく近くなっているのに気付いたときには秘密倉庫から泪橋へと向かう川沿いの獣道はすでに増水にのまれて見えなくなっていた。


ーーーーーーーー


藤田建設は台風への備えで大わらわになっていた。


九州や四国とは違い東北地方では台風による大きな被害は稀で、それがために普段から台風に対する十分な備えがされていなかった。


ご多聞に漏れず西目屋村でも台風情報があってさえ住民たちは家の中にいさえすれば台風なんてものはすぐに通り過ぎるさと甘く考えていたのだった。


ところが台風が近づくにつれ、テレビから流れてくる被害情報の映像を見て、村人たちは俄かに不安を感じはじめた。


そのせいで朝から藤田建設の電話は鳴りっぱなしの状態だった。


社長の藤田富士夫は村長とも幼馴染の間柄で、「こんな時こそ商売抜きで村の人たちのためにボランティアでも役にたたなければならない」と従業員にはっぱをかけていた。


雨戸が壊れているという年寄りの家にいって雨戸代わりに板をうちつけたり、村役場を手伝って川沿いに土嚢を積み上げたり。


やるべきことはきりがなく、息子の一郎が帰宅していないことに母親の和子が気付いたのは夕方近くなってからのことだった。


学校に問い合わせると、とっくに昼には学校を出て帰路についたという。


一緒に帰ったはずの安奈は帰っているかと内田家に問い合わせすると、すでに娘は昼頃には帰宅していて、一郎とは泪橋のところで別れたということだった。


どうやら一郎は雨の中、泪橋を渡って広泰寺に向かったようだと誰もが思った。


泪橋からの山道は延々と緩い坂道が、丘の頂上にある寺へと続いているばかりで、他には何もない。


泪橋を村人が利用することといえば寺へと向かう用事と決まっていたから、誰もが一郎は寺へと向かったのだと考えたのだ。


こんな雨の中、河原沿いのあぜ道を一郎が下っていったなどということに考え至る者はいなかったのである。


寺の住職に電話をしてみたが一郎が寺にやってきた様子はなかった。


山道は最初の村道こそ、そこそこの広さがあるが途中からは未舗装となり、寺までは崖沿いの細道を延々と歩いていかなければならない。


この雨の中、一郎が何のために寺に向かったのかはわからなかったが、ぬかるんだ悪路に足をとられて滑落したおそれが高いと村人たちは判断した。


藤田富士夫からの連絡を受けて村役場と藤田建設の者たちは台風による大雨のなか、総出で山寺までの道沿いと、崖下へと一郎が転落したような痕跡はないかと捜索を始めた。


しかし一郎の行方はようとして知れなかった。


いよいよ台風が青森県を直撃する頃になって、内田家では風邪で寝込んでいたはずの安奈が起きだしてきて騒ぎ始めた。


「お兄ちゃんが大秋川の祠神社にいる」と繰り返して言う。


驚いた父親が藤田建設へと連絡をいれた。


大秋川の川べりのあぜ道沿いに転々と続く、地蔵祠群のことを村人たち俗称で祠神社とよんでいた。


祠群は何時代の頃のものだろうか、山寺が建立されたころからはお参りするものもなくなったのであろう、ほとんど荒れ果てて村人でさえも今では訪れる者もなかった。


しかし祠神社へと向かうあぜ道は台風による増水にのまれて既に川の流れの一部と化していた。


反対側の岸の雑木林をかきわけて捜索隊が川沿いを下っていくと、泪橋からかなり下ったあたりに中瀬のように僅かに取り残されたスペースがあり、少年が立往生しているのが見つかった。


川の水かさは刻一刻と増しており、僅かに取り残された中瀬もあといくらの時間も持ちそうもなかった。


後ろは古代の地殻変動で断層がすれてできたのであろう、切り立った崖になっており少年の逃げ場はどこにもなかった。


轟轟と流れる濁流に阻まれて捜索隊は近づくことさえできない状態だった。


誰かが「何とかして向こう岸に重しをつけたロープを投げ込んで、崖の断層のどこかにひっかけてロープを渡すしかない」と言い出した。


ロープを渡すことができれば、それに掴まりながらなんとか濁流の中を中瀬まで歩いていけるかもしれない。

そんなことが本当にできるのかはわからなかったが、議論をしている時間がないのは明らかだった。


他に方法が思いつかない以上とにかくやってみるしかない。


ロープが現場に用意されたころには中瀬はまったく消失して、子供のひざ下あたりまで川の水が押し寄せていた。


一郎は小学6年生にしてはがっしりした体格をしていたが川の急流のなかで踏ん張っているのも限界に近づいているのは明らかだった。


ロープを向こう岸まで届かせる作業は困難を極めた、現場は雑木林の中で足場も悪く、重機をいれることができなかった。


重しをつけて人力で投げてみても、とても向こう岸までは届かなかった。


そうこうしているうちに水は少年の腰のあたりまで増えている。


あっと思った瞬間、少年の姿は激しい濁流の中に消えていた。


増水して濁流と化した大秋川にはおびただしい流木が流れ込み少年の捜索は難航を極めた。


結局、藤田一郎の遺体は2日後になって現場から遥か下流の浅瀬で発見されたのだった。


最愛の一人息子を失った藤田富士夫の嘆きようは気もふれんばかりであった。


いつもは温厚で知られる富士夫であったが葬儀の焼香に現れた内田夫妻を烈火のごとく怒って追い返した。


「おまえんところの娘が、すぐに居場所を教えてくれさえしたら一郎は死なずに済んだんじゃ」


「どの面さげてここに来れた」


周囲の者が懸命になだめてもまったく富士夫はとりあわなかった。


「そんなこと言っても、あんな小さな子供だもの仕方ないわよ」


「小さいもなんもあるかい、泪橋で別れたと言うたときに一言祠神社に行ったと教えてくれさえしたら、一郎は死なんかったんじゃ」


「安奈ちゃんは知らんかったって、祠神社のことは頭の中に一郎が叫ぶ姿が浮かんだんだと言っとるよ」


「そんなわけあるかい、知っとったにきまっとる」


「それでなけりゃ、なんで一郎が祠神社におるとわかるんじゃ」


「あんガキはあ、一郎が危ないのを知っていてわざと黙っとったんじゃ」


「まったく憎らしい娘じゃ、みすみす一郎を見殺しにしおって鬼っ子め」


藤田はそれからというもの内田家の者とは一切口も利かず、内田家の者がいる場所には決して現れなくなった。


新しい居住者が流入しない限界集落の村では古くからの血縁、利害関係などというしがらみが現在まで暗黙のうちに続いてきている。


村のなかでも一番の実力者である藤田が内田家の者を避けるようになると、大っぴらには内田家と親しくつきあうのは憚られるというものも少なくなかった。


内心では内田家に同情する者もいなくはなかったが、愛息を失なった被害者は藤田であり、藤田への同情心からあからさまに内田家を悪く言う者もいた。


「あの娘は鬼っ子じゃ、どうせ将来もろくな者にはならん」


「よく平気な顔をしてこの村にいられたものだ」


村八分というようなあからさまな差別ではなかったが、内田家の者が村での居場所をしだいになくしていくのはどうしようもないことであった。


父親はしだいにヒステリックになっていった。

まだ5歳の小さな娘に対して声を荒げているのを村人たちが耳にすることも少なくなかった。


母の滝江にしても最愛の娘である安奈が、村の者たちからまるで疫病神か何かのように嫌悪の目で見られることは何よりも耐え難かったであろう。


それから1年後、内田夫妻は先祖代々住み慣れた村を離れていったのだった。

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