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第92話

 税関に申告するようなものもなかったし、出国審査は全然あっさり通った。

 多分、カウンターの人にも話が通ってたからだと思うんだけど。パスポートと決められた書類を提出して、簡単な質問があって、それだけ。ちょっと拍子抜け。

 むしろそれより前のボディチェックだけに引っかかったくらい。私の身体には、僅かだけど金属が使われてるしね。職員の人には医療用のパーツだって説明して、服の中に何も仕込んでないことを見てもらったら、納得してくれたみたい。

「さあて。折角ビジネスクラスなんだから、ラウンジにでも行こうか?それとも、免税店で買いたいものでもある?」

「うん……」

 ほっと息をついた先生の横にいて私はもっとほっとしてるはずなのに、何だかもやもやした気持ちが抜け切れてなかった。

 手荷物検査とボディチェック、出国審査が終わったら、確かもう日本を出たことになるんだったと思う。カウンターを抜けた先には広い廊下が広がってて、ずっと先にある滑走路のほうまで見渡せる大きな窓が、解放的な感じだった。落ち着いた音楽によく飛行機のエンジン音が混ざるけど、この辺りは人がいなけりゃ基本的に静かなところなんだよね。

 ここもやっぱりあんまり混んでなくて、出発まで二人でのんびりできそう。

 あとはもう出発時間を待つばかりとは言っても、結構中途半端な時間だった。

 今回のフライトはユナイテッド航空で出発は第一ターミナルだから、シャトルを使う必要もないし。

「そう言えば、戦いが終わったら甘い物を食べに行こうって言ってて、まだ行けてなかったよな。僕が奢るから、何か買って食べる?」

「……うん」

 杉田先生の声が耳に入ってきたけど、内容はスルー。すれ違っていったポーターロボットと一緒に、そのまま話が後ろに行っちゃった感じ。

 魅力的なお誘いにも反応がイマイチでとぼとぼ歩いてる私を、流石に杉田先生はおかしいと思ったみたい。でも、すぐに理由に思い当たってくれた。

「未来のお母さん、来てなかったな」

「でもそれは、杉田先生だって一緒じゃない」

「僕は何日か前に実家に戻ったから、その時に両親と話をしたよ」

 そう。

 そうして親と家の中で何でも話せて、それが当たり前なんだよね。

 杉田先生が羨ましくて、私は意識せずため息を漏らしてた。

「やっぱり、見送りに来て欲しかった?」

 杉田先生は私のことを責めたり、咎めたりする口調にならないのが助かる。

 だから、素直にこっくりと頷いた。

「田代先生の面会禁止令が解けてないから、仕方ないんだけどね。でも、そろそろ私を黙って見守るってことに慣れてもいいんじゃない?って思っちゃってさ」

 私はお母さんと、秋のあの事件以来一言も喋ってない。田代先生はお母さんに私との面会どころか、直接の連絡も禁止したって入院してた時に言ってたな。

 控え目に、杉田先生が話題に乗ってきてくれる。

「そう言えば、未来のお母さんも田代先生のクライアントになってたんだよな。確か、今でもまだカウンセリングが続いてるんだろ?」

「うん。お母さん、最初はなかなか来なかったみたいなんだけど……田代先生が根気よく説得してくれて、渋々来るようになるまで2ヶ月くらいかかったみたいだよ。だから、本格的にやり始めてからまだあんまり経ってないのかな」

 先生と並んで動く歩道に乗りながら、私は窓の外を眺めた。強い太陽の光を受けた白っぽい滑走路が眩しく照り返してて、小さく見える飛行機を光らせてるみたいだった。

 彼も眩しそうにしながら、目線を私が見ている方へ合わせてきた。

「でも今日来てなくて未来にも連絡が行ってないってことは、先生の言ったことをお母さんがちゃんと守ってるってことじゃないか。それだけでも、大きな進歩だろ?お母さんはあんなことがあっても、なかなか自分にも原因があるって認めなかったんだし」

「そうそう。カウンセリングだなんて、自分を精神病扱いするのか!私は娘に殺されかけた被害者なのに!って激怒してたんだってね」

 動く歩道はまだまだ長い。

 私たちがいる窓側とは反対側の廊下が、普通の通路になっている。そこに、三歳くらいの男の子を連れた白人のカップルがいた。遊びたがってる子どもを両親が宥めながら、入国審査カウンターに向かってるみたい。

「そう言えばあのときも、小さかった頃のあんたはあんなに可愛かったのに……って言われたかな。大きくなって知恵がついて口応えするようになっても、子どもは子どもなのにね」

「子どものそういう面も全部認めて愛することができるのが、本来の親の姿だよ。そして、子どもがいつか一人前になって、立派な独立した人間になるってことを喜ぶのもね」

 自嘲気味に笑った私の視線の先にいる白人の親子を、杉田先生も目で追っていた。

 白人の一家が欧米系らしい、賑やかな笑い声を上げてるのがわかる。

「未来のお母さんも、ようやく自分の問題を受け入れる勇気を身につけてきたんだ。僕は明るい兆しだと思うよ」

 親子連れの姿がだいぶ後ろに行ってから、私たちは同じタイミングで前を向いた。

 母と子の分離不全、つまり子どもの独立の失敗。

 それが、私とお母さんの心に潜んでいた問題だった。

 一口に分離不全とは言っても色んなケースがあるみたい。

 私たちにあてはまった例をわかりやすく言うと、母親が子どもに「こうあって欲しい」って望む姿を強く押しつけて、子どもが自分で判断する前にあれこれ言ったり、手を出したり。平たく言えば、黙って見守ることができないってことか。

 子どもは子どもで、親の言うことを聞かなきゃ叱られたりするもんだから、自分の意見を持つのは悪いことで、親の言うことを聞かない自分が間違ってるんじゃないか?って無意識のうちに考える。しまいには「親も意見を聞いてくれない、まして他人が自分の意志を尊重してくれるはずがない。自分がいる価値なんかないんだ」って、歪んだ心を持つらしい。

 最終的には親子がお互いに依存し合うか、家庭が破綻するかの運命を辿ることも少なくないみたい。私は自分の世界を外に持っていたし、友達や仲間がいたから反発して、何とか一人立ちできたけど。

 それでもお母さんは私を手放したくなくて、家を出るときに泣いたって言ってきたり、勝手に私の部屋に上がり込んだりするような真似を色々しでかしてくれた。そうやって、いつまでも私の独り立ちを許そうとはしなかったんだよね。

 私はもっと自分を大事にしろ、何でも自分のせいにするなってみんなから言われてきたけど、それもそんな問題があったんだったら何となく納得がいく。

 私は誰の役にも立てない自分なんか価値がない、自分が我慢して誰かが助かるんならそれでいい、っていつも心のどこかで思ってた。

 だけど、その「誰か」はお母さんに置き換えることができるんだって、田代先生とのカウンセリングを通して気づくことができた。

 私はお父さんとの関係が冷えていたお母さんに、いつも助けを求められてるって感じてた。お母さんの役に立てて、「未来ちゃん、いい子ね」って褒められるのが大好きだった。

 だけどそうやってお母さんのために自分を犠牲にして、子どもらしく振る舞うことを許されなかったのもまた、本当のことだったんだよね。

 だから心が壊れたとき、私を支配し続けてきたお母さんと、何もできなかった自分自身への憎悪が剥き出しになって表に出たんだって。

 確かに、何をするにもお母さんにどう思われるかが判断の基準になってて、自分の考えでやったはずだったことがまるで指図されてたみたいに感じたり、自分の判断が正しくなかったんじゃないかって、自信が持てなかったことも多かったなあ。

 ただ、お母さんが今の私を無条件で愛してくれてるっていう実感が……もしあの時掴めたら、お母さんに銃を向けることもなかったろうけど。

 結局は、見捨てられたくない、素の私を愛して欲しいって気持ちの裏返しなんだからね。激しい憎しみっていうのはさ。

「私、田代先生には本当に感謝してる。先生じゃなければ、お母さんもきっとカウンセリングを受けようって気にならなかったと思うしね。私の心の恩人だよ」

 田代先生は、最初はちょっと苦手だった。

 それも、お母さんと世代が近い女性だから、ってのが無意識のうちにあったせいみたいだけど。でも二人の印象は全く違ってたから、それが良かったんだと思う。

 私の頭の中では、逆に歳が全く違う大月さんとお母さんの姿がよく重なってた。

 お母さんは大月さんと似た者同士で強い人だけど、お父さんとうまくいかなくて、辛さに耐え切れなかったところはあると思う。だから私たち子どもに、逃げ場を求めたんだよね。

 ただ、親が子どもをストレスのはけ口にするのは許されることじゃない。

 お母さんの苦しみと悩みを認めはしても、許せるかどうかは別の問題なんだから。

 私たち親子の治療は、やっと始まったばっかり。

 まだまだ時間が必要なわけで、私が物理的にうんと離れた場所に行く今回のアメリカ行きは渡りに船みたいな話だったと思う。お母さんのことは田代先生やお姉ちゃんに任せておけば、多分心配ないだろうし。

「田代先生には、僕も学生時代に随分世話になったんだ。僕たちで共通の恩人だな」

 ゆっくりとゲートを目指して歩きながら、杉田先生が穏やかに笑った。

「本当に、未来が元気になってくれて良かったよ。こうして一緒にアメリカにも行けるくらいにまで回復したんだから」

「別に、先生のために良くなったんじゃないもん。でも、あっちに行ったらパートナーなんだから……一緒に頑張らないとね」

 その笑顔に、私はかっと頬が熱くなったような気がした。

 慌ててそっぽを向いて憎まれ口を置いて、ちょっと後悔……照れたのがもろバレだったみたいで、先生が余計に笑ってるのが気配でわかった。

 そろそろ動く歩道も終わる。

 でも私たちの目的地、第四サテライト四三番搭乗口まではまだまだ長そうな感じ。

 まあいいや。

 杉田先生と一緒なら、多分この先にお店とかがなくてもそれなりに楽しいだろうし。





 結局搭乗口の近くにはカフェテリアしかなくて、甘いものもそんなになかった。

 だから素直に引き返して、今回のフライトで使うユナイテッド航空のラウンジでオトナのひと時を堪能。ビジネスクラスなんてこの先乗る機会があるかわからないから、使えるところは使っておいたほうがいいよね。

 ラウンジはすごく豪華で……と言いたいとこだったんだけど、内装が金ピカなのはちょっと趣味が悪いかなあ、って思ったり。でも、ビールをはじめとしたお酒が無料で飲み放題だったのは流石。マッサージ機能つきのソファーで酔っ払う前に杉田先生が止めてくれなかったら、呑み過ぎになっちゃってたかも。そこは反省かな。

 もっと長くラウンジにいたかったけど、搭乗時間までそんなに時間がなかったことと、ビジネスクラスはエコノミークラスより搭乗が先だったこともあって、一時間くらいしかいられなかったのが残念。

 飛行機はワシントンDCまでの直行便。

 ただし数が少なくて一日に二本しかないから、午前中になったんだよね。

 ビジネスクラスは空席が三分の一くらいあって、私たちを含めた乗客は出張に行くって印象のビジネスマンばっかり。みんなスーツを着てて窮屈そう。

 ビジネスクラスの座席が広いのも、こういう人たちへの配慮ってことなんだろう。軽装の私たちは明らかに浮いてて、何だかちょっと申し訳ない気分になった。

 特に私の私服は色が明るいから、深みがあるブルーのシートからも浮き上がって見える感じ。私と杉田先生は、どう見ても新婚旅行のカップルにしか見えない……と思うのは考えすぎかな。

「そう言えば、未来は英語は大丈夫なのか?」

「杉田先生こそ、大丈夫なの?」

 横に七つ並んだ広いシートに深く座りながら意地悪っぽく聞き返すと、杉田先生も意地悪っぽく返してくる。

「僕は学会とかで、色んな国へ行ってたからね。英語だけじゃなくて、ドイツ語やフランス語でも大丈夫だよ」

「そっか。生憎私も高校のときに語学留学したことがあるから、平気だよ。今だって、事務所では英語が共通語になってるんだしね」

 わざとそっけなく答えたけど、これは本当のこと。お母さんが行け行けってうるさかったから行ってきたようなもんだったけど、色んな人種の友達もできたしあれはあれで楽しかった。

 まあ今回は仕事で行くわけなんだし、法医学や刑事捜査、法律用語も色々出てきて難しいのは目に見えてるんだから、遠慮なく杉田先生に頼ることにしちゃおう。

 で、ビジネスクラスのフライトなんて初めてだから、どうしてもきょろきょろする。

 国際線のエコノミークラスは一列に九席か十席くらいだけど、ビジネスクラスは流石に余裕があるし、席数もかなり少ない。席の前に足が伸ばせるだけの余裕があるのはホント、助かる。

 長時間のフライトだから、シートが完全にフラットになって横になれるってのも嬉しいよね。座席の前についてるモニターも独立型で、かなり本数が多い映画とかゲームから、好きなのを選んで楽しめるみたい。

 それから、国際線での楽しみと言えば何と言っても機内食!

 ビジネスクラスでは料理もちゃんとお皿に乗って出てくるって話だし、すっごく楽しみ!

 エコノミークラスのデザートはコンビニデザートといい勝負だけど、ビジネスではどうなんだろ。ちゃんとした美味しいお菓子が出るのかな?

「それでも、向こうに行ったら結構なハードスケジュールだぞ。FBIの本部に顔を出したら、すぐに借家まで移動しないといけないからな。僕らの入る予定の住宅をチェックして、荷物を入れて、掃除もして、周りのスタッフに挨拶して……」

 って、杉田先生がすっかり観光気分でいた私の気分に水を差してくれた。

 スケジュール表をいちいち自分で作り直してからプリントして機内に持ち込んでるあたり、几帳面な先生らしい。

「もう。そんなの、着陸前にチェックすればいいじゃん。ちょっとは楽しい気分に浸らせてよ。どうせアカデミーに入ったら、訓練と講義ばっかりで四ヶ月はつぶれるんでしょ?」

「僕は最初から研究所に配属されるけど、未来は一ヶ月遅れでアカデミーに入るからな。補講や試験もあるだろうし、最初のうち君だけは寮住まいだよ。アカデミーでの課程が修了しても、事件に忙殺されることになるんだぞ」

「けど、メンテの時には絶対会えるでしょ。私はそれなら大丈夫だよ」

「マイナス思考がないんだな、未来は」

 呆れ半分で、また先生に笑われた。

 でも、暗いことばっかり考えてたら余計に気分が悪くなるんだから。こういう姿勢が本来の私だし。

 私たちは当然日本語で雑談してたんだけど、周りは英語やスペイン語、中国語らしい言葉のざわめきも増えてきてる。エコノミークラスの搭乗が終ったんだろう。

 いよいよ、アメリカに行くんだって言う気持ちが高まってきた。

 そこに、飛行機が定刻通り飛び立つことを告げる機内アナウンスが最初は日本語、次に英語で流される。

「これで少なくとも、一年は日本とお別れだな。何か言い残すこと、ある?」

 通路側の席にいる杉田先生が、シートベルトを締めてからこっちを向いてくる。

「うーん。最後にお気に入りのパティスリーで、苺のミルフィーユが食べたかったな」

 私も先生に倣ってシートベルトを締め直すと、確認しに来た中年くらいの白人系女性客室乗務員がにこにこして、ベルトOKのサインを出した。

 やっぱりここでもロボットを使った効率化はやってないんだなあ、とぼんやり思った。

 窓の外に目をやってみると、景色がゆっくりと動き出してるのがわかる。ゲートから飛行機に伸びていた搭乗用の廊下はもう取り外されてて、飛行機がゆっくり旋回しながら滑走路に向かってるみたいだった。飛行機の大きな胴体を支える車輪から、緩やかな揺れもたまに伝わってくる。

 杉田先生は、蛍光ペンで相変わらずスケジュールのチェック中。   

 邪魔しちゃ悪い気がして、私は小さな窓の外を見つめた。

 初夏の日差しが白い滑走路を眩しく彩ってて、遮光フィルタがない普通の人の瞳だと、目を細めたくなるぐらいだろう。飛行機が移動する速さはゆっくりだけど、滑走路も混んでないみたいだし、このままいけばすぐに離陸になるのかな。

 暇だし、窓の外に見えてる空港のターミナル屋上にズームを絞ってみた。

 展望デッキも平日だけあって空いてるみたいで、見送りか見学らしい人たちも隅の方にひとかたまりしかいない。

「あ……」

 飛行機が一度止まった。

 何気なくその人たちに向けてもっとズームを絞ってみたとき、私は思わず声を上げた。

「ん?」

 杉田先生が、後ろで顔を上げた気配がする。

「みんなが、展望デッキから見送ってくれてるよ。杉田先生のお姉さんたちもい……」

 答える私の言葉が、そこでぶっつりと切れた。

 少しの間だけ、呼吸することも完全に忘れた。

「どうかした?」

 いきなり固まった私の右肩に、心配した杉田先生が手をかけてくる。

 はっとして、私は細く息を飲み込んだ。

「ううん、何でもないよ。みんなの顔、杉田先生にも見せてあげたいなって……」

「こういうとき、君の目は便利だよな。翔子ちゃんとか、随分寂しそうなんじゃないか?」

「うん……さっきから、ずっと……手を振ってくれてるよ」

 詰まりそうになりながら、私は何とか先生に答えてた。

 展望デッキにいる見送りの集団から離れたところにぽつんと佇んでいる人を、私は食い入るようにもう一度見つめた。

 大きなサングラスと日除けの帽子、涼しげな感じの白いブラウスの女性。

 夏が近くなるとよく見た、お出かけのスタイル。

 見間違えるはずがないよ、お母さん。

 来てくれたんだね。

 私は声に出さずに呟いたっきりで、何も考えずに同じ場所を眺め続けた。

 不意に機内に轟音が響いて、見えない力が身体をぎゅっとシートに押しつけようとした。今まで止まって見えていた展望デッキが、一瞬で後ろに消える。

 飛行機が、離陸態勢に入っていた。 

 って思ったのもあっという間。

 機首がぐんと斜め上に上がって、しつこく外を見てた私の顎も少し上を向く。

 滑走路でジェットエンジンを全開にした飛行機は、鳥が羽ばたいていくのと同じように大空へと駆け上がった。

 私たちが乗った巨大な人工の翼は地上と空の間をどんどん登り詰めて、飛べない大地を遙かに下へ、手が届かないところに置いていく。

 緑の山に囲まれた白い島みたいに見えてた成田空港は私の視界で小さくなっていって、すぐに見分けがつかなくなりそう。

「……行ってきます」

 今度は私、口に出して言った。

 小さくだけど。

 気づかないうちに右手の指先がこめかみに上がって、敬礼の形になってた。

 これは、私たちの無事を祈ってくれてる人たちへの礼。

 事務所の仲間に。

 AWPのみんなや、今までお世話になった人たちに。

 お姉ちゃんやお父さん、杉田先生のお姉さんたちに。

 そして、お母さんに……

「ベルトのサインが消えたら、ドリンクのサービスが始まるからね。そしたら、ワインで乾杯しようか」

 私が右手を下ろしたときを見計らってくれたのか、杉田先生が声をかけてくれた。

「うん」

 振り向いて一言だけ答える。

 すぐそばに、大好きな人がいる。

 FBIで五年間研修っていう仕事は、生半可な気持ちじゃ務まらないってわかってる。

 凶悪犯罪が目白押しのアメリカで、下手すりゃ生きて帰って来られないかも知れないんだから。

 だからこそ、先生と二人で力を合わせてやっていかなきゃならない。

「先生、ちょっと言いたいことがあるんだ」

「何?」

 私が杉田先生の肩を引っ張ると、すぐに顔を寄せてきてくれる。

 眼鏡の向こうにある黒い瞳を一瞬だけ笑顔で見つめてから、私は唇に素早くキスした。

「ち……ちょっと未来、いきなり何を!」

「別に。アメリカじゃキスは挨拶代わりなんだから、練習……あ!今、口拭いたでしょ!私のキスは汚いっての!」

 唇を離した後も、一呼吸の間はぽかんとしてた杉田先生が我に返って慌ててるとこに、怒ったフリして突っ込みを入れてみる。

「そんな、そうじゃなくって!と、突然こんな、こんなことされたら……」

 真っ赤になってどもる杉田先生。

 私たちの賑やかな声だけ、澄んだ日本の空に残していく感じ。

 ま、周りからすればただのじゃれ合いにしか見えないよね。

 これからずっとよろしくね、杉田先生。

 そして、次にこの国は帰ってくる時は……素直に「ただいま」って言えますように。

 お母さんをハグしたら、ハグし返してくれますように。

 きっと、きっと、いつの日か……


                               -完-

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