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機械娘の心的外傷(トラウマ)~旧タイトル:SAMPLE  作者: 日吉 舞
敵味方、満身創痍
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第90話

 未来に母を殺させはしない。

 もし殺せば、未来は自らが人として存在することを許せなくなるだろう。

 だから、杉田は無我夢中で弾道に飛び込んだ。

 刹那、彼の視界に毒々しい赤い飛沫が飛び散り、胸に強い衝撃を受けて後ろへ吹き飛ばされそうになった。

 自分は未来に撃たれた。

 それがはっきりわかっているからこそ、倒れるわけにはいかなかった。

「……ぐ!」

 杉田は短く呻いたが、必死で歯を食いしばった。肺の中の空気全てを絞り出すくらいのつもりで息を吐き、半身を屈めて腹と足に全ての力を溜める。

 決して頑丈ではない肉体が耐え難い勢いを抑え込み、堪え抜いて踏みとどまった。

 弾丸がめり込んだ左胸を中心として、身体が火がついたかのように熱くなり、杉田は無意識のうちに右手をその上に重ねていた。

 身体に開いた穴から血液が溢れ出し、指に赤黒い筋模様を幾つも作り出している。

 あっと言う間に掌が暖かい血にまみれ、足元のベージュの絨毯に滴っていった。

 二人の後ろで何かが倒れる鈍い音がした。

 未来の母が、惨劇を眼前にして卒倒したのだ。

「杉田先、生……?」

 その音を合図にして、表情を凍りつかせていた未来が無機質に声をこぼした。

「未、来……」

 傷口を庇いながら杉田が呻き、丸めていた上半身を伸ばす。

「そん、な……うそ。私……」

 杉田の指の間から溢れ落ち、床に広がっていく夥しい量の血を目にして、未来が再び呟いた。唇がわななき、大きな黒い瞳は見開かれ、右腕が小刻みに震え出す。

 杉田の姿と右手の銃を見比べてた未来は、脳がびりびりと痺れ、今まで奪われていた現実感が何十倍もの鋭さで神経に叩き込まれている気すらした。

 血と硝煙の臭い。

 戦いの場で嗅がされた、忘れ得ない死と暴力の臭い。

 苦痛から逃れようとする必死の喘ぎ。

 それを大切な、心の底から会いたいと願っていた男に自分が与えたのだ。

 信じられなかった。

 信じたくなかった。

 しかし未だ薄い煙を吐き出す銃口と絨毯の上に転がった薬莢は、悪い夢だと思うにはあまりに現実的過ぎた。

「や、だよ。こんな……」

 掠れた声が、絶望に彩られる。

 未来の顔は、起き上がってきた死人を思わせるくらいに真っ青になっていた。

 杉田にとっては見ていられないほどに痛々しく、哀れな姿であった。

「大丈夫だ。心配、するな」

 彼の胸の傷口は相変わらず焦げつくほどの熱さを感じさせ、荒い呼吸に言葉も途切れるが、気にかけている場合ではない。

 泣いている子どもに語りかける優しさを意識して、杉田は未来に微笑んで見せた。

 そして一歩、足を彼女の方へと踏み出す。

「や、だめ……来ないで、先生」

 左胸を押さえてゆっくりと近寄ってくる杉田を恐れているのか、未来は激しく首を振った。

 が、杉田に歩みを止める気などない。

「君に、また……会いたかったんだ」

「やめて、来ないで!今の私なんか……だって私は、先生を撃ったんだから!」

 未来は水を含んだ長い髪を振り乱して狂ったように絶叫し、後ずさった。

 愛らしかった顔が激情に歪み、頬は雨と涙でびしょ濡れになっている。

 全てがもう、遅すぎるのだ。

 自分は一番大切だった人に武器を向け、あまつさえ傷つけた。

 そんな自分が、どうしてのうのうと生きていられるというのか。

 人間の心を持っていると言えるわけがない。

 少なくとも、人でいて許されるわけがない。

 母や大月が罵った通り、自分は化け物なのだ。

 間未来という人間はもう、とっくに死んだのだ!

 名前にある「未来」という文字は、自分の中にもう存在しない。

 こんな皮肉があるだろうか。

「……僕を撃った、自分が許せない?」

 そのとき杉田が、未来の心の内を躊躇わずに言葉にした。

 糾弾や詰問するような調子では全くない。低く、あくまで穏やかな印象だ。

 驚いて顔を上げた未来の視線が杉田へと向く。

「僕が赦す」

 杉田の短い返答。

 未来は耳を疑った。

 そこにこそ、彼女が求めていたものがあったのだ。

「え?」

 未来の血の気がない唇が動き、放心した顔から驚きとも、呆れともつかない声が漏れた。

 大きな瞳の先に、静かな、優しい男の笑顔がある。

 銃弾によって重傷を負い、立っていられないほどの激痛があるだろう。なのに、杉田の表情はどこまでも暖かく、苦しみなどまるで感じさせない。

「今だけじゃない。未来の全部を、僕が赦すよ」

 低く呟くように言い、若い医師は両手をゆっくりと未来に差し伸べた。

 そして、科学の鎧に包まれた彼女の身体を待った。

「……だから、ここにおいで」

 しかし未来は動けないでいた。

 肩を震わせて自分の身体を両腕で抱き、駄々をこねる子どもの仕草で首を横に振る。

 杉田の優しさを、自分が受けていいはずがない。

 自分が大事に思われる資格などないのだ。

「ううん。私、そんな資格……」

「僕は……そのままの未来が、大切なんだ」

 杉田の低い調子の声が続く。

 未来が背けていた顔を杉田に向けた。

 彼女の中で、心を、身体を縛っていた何かが弾けた。

 無意識の動きなのだろう、未来の右手が銃の安全装置をかける。

「さあ」

 今一度、杉田が血まみれの手を伸ばす。

「先、生……」

 一言呟いて、未来がこわばった足をふらりと前に出した。

 力が抜けた右手から、ベレッタM92が外れて床に落ちる。

 全てを赦す。

 今自分が、ここにいることが赦されている。

 彼にあんな酷い傷を負わせた相手だというのに。

 どんなに非難し、口汚く罵倒してもいい相手だというのに。

 それなのに。

 自分はまだ、ここにいていい。

 醜く激情を剥き出しにしたのに、ここにいていいというのか。

 未来の胸の内側から、暖かいものが堰を切って溢れ出した。

 それは瞳から大粒の涙に姿を変えて、外側に零れていく。

「先生……先生!」

 揺れる声が杉田へと近づき、未来は彼の腕の中に抱きしめられた。

 お互いに手を伸ばせば触れられた、杉田と未来の距離。

 それが永遠に縮まらないと思えた時も確かに存在したが、支え合うようにして抱き合った今、彼らの想いは重なり合った。

 濡れた未来の顔に、杉田がいとおしげに自分のそれを寄せてくる。

 パワードスーツの身体を抱きしめる彼の体温は感じられないが、冷たかった頬に伝わる暖かさがこころよかった。

「……君を助けるよ。これからもずっと」

 呟いた杉田が、血染めの指先で未来の涙を拭った。

 泣き声を押し殺して腕の中にいる未来が、小さく頷く。

「ごめん、なさい……先生、私……ごめんなさい」

 しゃくり上げながら、未来は謝らずにいられなかった。

 杉田が恐らくこれまでも向けてきてくれていたのであろう、無償の想い。

 それに気づけず、信じられず、拒み続けてきた自分。

 傷ついた身体で純粋な気持ちをぶつけられて、やっとそれを受け入れることができたが、今はそれが恥ずかしかった。

 しかしだからこそ、彼の腕に身を委ねることができているのもまた、本当のことだった。

 謝る必要なんてない。

 もう大丈夫だから。

 そう言おうとした杉田は、意識せず自分の腕が未来の身体から滑ったことに気がついた。腕だけではない。急激に、全身から力が奪われつつあった。

「杉田先生?」

 愛する男の異変に気づいた未来が、驚いてはっきりとした声を上げた。

 杉田はもう自らの力で立つ力さえ絞れなくなり、未来に抱かれて何とか姿勢を保っていなければならないほどだった。

 未来が涙を拭いながら、慌てて杉田の細い身体を横たえる。

「大丈夫だ、これぐらい……」

 若い医師はそう言って顔を上げようとしたものの、最早首に力を入れることさえ叶わない。いつの間にか自分の呼吸がひどく苦しげな調子になり、手足の先も急に冷えてきたような気さえする。

 ちょっと血を流しすぎただけだ。

 弾丸は急所を外れてたんだし、死にはしない。

 それに、そろそろリューが手配してくれた人員がここへ来る頃だ。

 杉田は未来を安心させるために告げたかったが、呟くようにこう言えただけだった。

「不安そうに、するな……未来は、笑ってなきゃ……」

 出血が続く胸の傷を見てまた泣きそうになっている彼女の頬に、手を伸ばそうとする。

 その手が力を失い、ばったりと途中で落ちた。

「先生!杉田先生!」

 どんどん視界の色彩が奪われていく中でぼんやりと聞こえた、未来の絶叫。

 杉田の心が苦しくなるほど悲痛な声も、遂には闇の中に呑まれていった。


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