第89話
「お母さんの娘って誰なの?何でも言うことを聞いてお母さんの望みをかなえる、いい子の私?いい子じゃなかったら、私は必要ないの?」
あくまで自分に従う子ども、望んだことを完全に叶える子どもしか母は求めていない。
幼い頃から薄々感じていたことではあったが、未来は生まれて初めて言葉にした疑問をぶつけた。
「……子どもの頃の未来ちゃんは、何があっても手放したくないくらい可愛かったわ。だから、貴女の幸せを望んだのに。そうするために、お母さんがどれだけ頑張ってきたか。どうして、それがわかってくれないの……」
しかしそれも届いていないことは、過去の娘の姿しか見ていない母の答えに表れていた。
自分の手を離れた娘を、決して認めない母。
今度はそれをこちらが認めねばならないと言うのか。
「そんなの、お母さんが自分の幸せを私に押しつけようとしただけじゃない!子どもは親の望みを叶えるための人形じゃないよ。どうして、そんな簡単なこともわからないの!」
勿論、未来にそんなつもりは微塵もない。
母を受け入れるのは、大人にならないという敗北宣言だ。即ち、幼い自分のままでいることと同じことであろう。
もう駄目だった。
母と娘、二人の距離はどこまで行っても縮まらず、平行線を辿る一方だった。
恵美子は自分がどれほど苦労を重ねたかを主張し、未来は自分の存在が尊重されなかった苦痛を訴える。客観的に見れば、お互いが全く譲歩せずに言いたいことを言っているだけなのだから、衝突しかしないのも当然と言えば当然だ。
二人はそれが自分にとって絶対に譲れないものであるが故に、頑なに態度を緩めないで自らを守り、相手を折れさせようとする。
これは母子の本質が類似したものであるということの、皮肉な証明だった。
どれほど叫んでも、耳を塞いだ相手に真意は伝わらない。
そう悟ったとき、未来は感情が急速に胸の中で萎んでいくのを感じた。
「私はいらないんだね」
一時激しい調子になっていた未来の声が唐突に下がったことに、恵美子ははっと顔を上げた。
娘の未来の顔は表情を失い、動きがない能面を思わせた。
「だったら私だって、お母さんなんかいらない」
ゆっくりと、下げられていた右手が上がっていく。
金属光沢を放つ手に握られていたのは、黒い小さな武器。
拳銃だった。
娘が、母である自分に大嫌いな銃を向けている。
未来が自分を殺そうとしている。
目の前に突きつけられた事実を、子から親へのはっきりとした殺意を、母は咄嗟に把握できていないようだった。
「認めてくれれば良かったのに」
未来が低く呟き、手にしたベレッタM92の安全装置を無意識に外した。
かちり、という金属的な響き。
銃口がまっすぐ自分の胸を狙っていることにようやく気づき、恵美子がびくっと身体を硬直させた。
「……ちょっと、未来ちゃん?何のつもりなの?」
室内灯の下で鈍く輝く拳銃と娘の顔とを見比べ、恵美子は顎をがくがくと震わせていた。
「ま……さか……それを、撃つの?お母さんに?」
母は顎の揺れに合わせて、声も情けないほどに安定していない。早く浅い呼吸を繰り返し、思うように喋れないようだ。
しかし未来は、肩で息をし泣き出す寸前になった恵美子のていたらくも、至近距離にあるにも拘わらず意識の内側へ入れていなかった。
「出来が悪くても、姿が変わっても、私はお母さんの娘なんだって……私のことを愛してるって。そう、言ってくれるだけで良かったのに」
これでトリガーを引けば、全てが終わる。
自分が持っていた一番の希望を、無償の愛情というものをいつかくれるという、恐らく誰かの子どもであれば当たり前に抱いている期待を裏切られた。
母は、娘である自分を見捨てたのだ。
拒絶されることへの恐怖は、そう実感した瞬間から怒りへと転じた。
子どもの悪い面を認めない母が許せない。
そして母に対してこんな恨みがましい気持ちを持つ、汚れた自分も許せない。
何もかもなくなって、自由になりたかった。
苦しみでがんじがらめにされている自分の心を、もう開放したかったのだ。
さようなら、お母さん。
私は貴女と一緒に、自分の心も殺すよ。
声に出さずに未来が呟き、トリガーに置いた指を引こうとしたときだった。
「……未来!」
母の背後に、杉田医師が姿を現した。
「杉田先生?」
最も意外な人物が居合わせたことに、未来は驚いて動きを止めた。
杉田は恵美子が戻ってくるのが遅いことを不審に思ったが、廊下に様子を見に行った彼は二階奥の部屋から聞こえてくる話し声に気づいていた。
恵美子の会話の相手が未来であることはすぐに判断がつき、下手に刺激しないように廊下で様子を伺っていたのだ。二人の語調が激しくなったことから、危険な状況だと判断して飛び込むことを決意した。
緊張した面持ちの杉田に、未来が首を傾げる。
「何で、先生がここにいるの?」
驚いて出た言葉とは裏腹に、表情はあまり変わらない。
戦闘後に目覚めてから、未来が誰よりも会いたいと願った人物。
その杉田とようやく会えたというのに、何故か嬉しいとか、感激したとか、心の底から突き上げてくる衝動らしきものは感じられなかった。
自分もどう反応していいかわからず、疑問を投げることぐらいしか思いつかないのだ。
杉田は戸惑っているらしい未来の顔から視線を離さずに、じりじりと恵美子の前に出た。
「君の今後のことを決めるのに、どうしてもお母さんと話さなきゃならなかったんだ。大月専務が、偏った情報を伝える前に」
彼は、未来が安全装置を外した拳銃を持っていることは最初に気づいていた。
しかしながら、最早そんなことを恐れている場合ではない。ここで何としても未来の暴走を止めなければ、この地区全体を巻き込んだ取り返しがつかない惨事を招くことは明らかだった。
「私を止めに来たんだね。でも、もう遅いよ。私、大月さんを……」
「そのことは言わなくていい。大事なのは何をしたかじゃなくて、これからどうするか……君がどうしたいかだよ」
ぽつりと小さく言った未来の言葉に、青年医師が自らのそれを重ねた。
緊張を隠し切れない杉田は慎重に言葉を選び、未来に語りかける口調を保っている。
彼女は、巧みに自分が大月を死へ追いやったことを覚えているようであったが、それを思い起こさせれば余計に自暴自棄になる危険が高い。
杉田は自分の役目を心得ていた。
未来が渇望している望みを叶えてやること。
彼女という存在を認め、受け入れてやること。
それだけが、精神がぼろぼろに朽ちかけたこの娘を救う唯一の方法なのだ。
最も重要な鍵となるのは、杉田が今までの人生で最も苦手としていた、相手の内面の奥底にまで踏み込むということだ。
しっかりしろ。
逃げるな。
恐れるな。
未来を救えるのは僕だけだ。
今ここで勇気を出さなければ、一生後悔してもし切れないだろう。
必ず未来を助けてみせる!
腹に力を入れて未来と向かい合う杉田が、ありったけの精神力を奮い立たせる。
どんな言葉を浴びせられても、何をされても、決して退かないと自分に誓った。
しかし未来はそんな杉田の想いをよそに、首を横に振った。
「ホントにもう遅いの。私はお母さんを殺して、自由になりたいんだ」
彼女の思いつめた瞳には、悲しみと怒りにくすむ炎が揺らめいていた。
「自分の思うように生きたかったけど、お母さんのことばっかり気にして……そんな自分が本当に嫌だった。それに、お母さんに身体のことを知られちゃったから」
「だから……君がサイボーグだと知られたから、お母さんを殺すのか?」
睨まれた者を怯ませる不気味さがある未来の目を敢えて正面から見つめて、杉田はまた一歩、未来の方へと踏み出した。
未来は虚ろな視界に彼と母とを捉え、それでも焦点を合わせないまま頷いた。
「先生にはわからないんだよ。親からいい子しかいらない、ってずっと言われて……大人になっても、成長したことを受け入れられない辛さなんて。私は一人の人間なんだよ?それなのに私は、自分としてここにいることも許されないのかって」
何度も言葉に詰まる未来の、拳銃を構えた右手が震える。
「今の私は、お母さんの欲しかった私じゃないから……お母さんが私をいらないって言うんなら、私だってお母さんなんかいらないんだよ!」
最後には長い髪を振り乱して大声を上げた未来の双眸に、顔を濡らす雨に混ざった涙が溢れて頬を伝い落ちていた。
「僕たちがいるじゃないか!」
叫び返した杉田が思わずまた一歩、未来に近寄った。
一瞬二人から顔を背ける形となった未来が、はっと顔を上げる。
「君は僕たちの大切な仲間だ。リューや生沢先生や、AWPのスタッフのみんなだって、君のことを心配してる。だから、もう何もかも壊そうとしたりするな」
彼はそのままゆっくりと横へ歩き、未来がその姿を目で追う。杉田は細心の注意を払い、未来の意識が自分だけに向くようにしていた。
「ふん、よく言うよ」
入口から少し離れた場所へ移った杉田に身体を向けつつも、未来は一度彼の顔から視線を逸らし、自嘲気味に笑って吐き捨てた。
「AWPで私を心配してるのは、私が実験体だからでしょ。どうせ価値がなくなれば掌返して、殺すんだよね?みんな一緒だよ。必要じゃなくなれば切り捨てるっていうのは」
「違う!少なくとも僕たちは、君を仲間として……」
「嘘だよ!そう言っておけば、私が逃げないと思ってただけじゃない」
眉を吊り上げて杉田のことを否定する未来の顔には、憎しみすら伺える。
あれほどまでに望んでいたはずの暖かい言葉さえ、未来は最早受け入れようとしないということか。
本当に、もう遅いのか?
未来は全てを敵と見なし、やり場のない感情を力に置き換えて破壊するつもりなのか?
杉田の心に、絶望の二文字が過ぎりかける。
一体どうすれば、頑なに他者を拒み、自分を守ろうとするこの娘の本質に触れられるのだろう。
深く傷ついた心を、癒してやることができるのだろう。
ここまで頭ごなしに否定されては、皆目見当がつかなかった。
が、それでもやはり未来を救いたい気持ちに変わりはない。
それにここで諦めたら、生沢やリューにどの面を下げて会えるというのか。
未来を救いたいのは、自分一人だけではない。
仲間みんなの願いだ。
そして何より、決して退かないと誓った自分との戦いに負けることにもなる。
未来のためにも、自分のためにも、ここで敗北を認めるわけにはいかない。
「そんなことはない!ただ、僕は……」
「そうじゃないって言うんなら!」
続けようとする杉田を遮り、再び未来が声を張り上げる。
「……そんなに私のことが大事だって言うんなら……どうして、私がこうなる前に会いに来てくれなかったの?」
まだ銃を構えた右手を下ろさずに、未来は俯いて漏らした。
続けて叫びたかったのが、深い悲しみに負けたのだろう。涙をこれ以上流すまいとして、必死に感情を抑えていることがわかる。
その姿は未来が嘗て病室で一人、改造過程を経て人ならざる身となる恐怖に怯え、泣いていた頃を思い起こさせた。
「……済まない」
杉田もまた低い声で呟くように言い、続けた。
「君がどれほど苦しんでるのか、生沢先生から聞いてたよ。君をここまで傷つけたのは、僕たちなんだから……だから、必ず君を助けようと思って……」
「やめてよ。同情とか責任感で言ってくることなんか……私、いらないよ!」
顔を上げた未来は、悲しみに怒りを混ぜた表情に彩られていた。
少なくとも杉田が本心から詫びていることは、伝わってきていた。
しかしそれが果たして医者として背負った患者への義理、つまり仕事上の責任感に基づくものなのか、純粋な人としての想いから湧き上がってきたものなのか。
心地よく、暖かい筈のものでさえ、冷たく胸を貫き通す気がしてならない。これ以上不確かなものに振り回されたくないという願いが、未来の精神に透明な壁を築いていた。
杉田にまだ何か言われたら、頭の中がおかしくなりそうなのだ。
「未来ちゃん、いい加減にしなさい!杉田先生がどれほど貴女のために……」
「黙れ!」
突如として割り込んできた、母の声。
不快なモノを片付けようとした動物的な反射を、未来は抑えられなかった。
身体ごと声のしたほうへ向き、右手に握った銃のトリガーを引く。
パン、という軽い、あまりにも軽い火薬の破裂音が湿った部屋の中に篭もる。
未来と恵美子、二人の間に走り込んだ杉田が、その真ん中にいた。
彼の細い身体に、一輪の赤い花が咲いたように見えた。




