第86話
「二年前の五月頃ですが、未来さんが急に海外留学へ行くと言って、全く姿を見せなかった次期があったかと思います」
「ええ……確か、カナダに行くとかで。あんまり急だったので、驚いたことは覚えてます。北米圏に行くなら、私の学生時代のホストファミリーにも伝えておいたのに。一言も私に……」
「実は、その時彼女は車両事故に遭っていたんです」
「え?」
また言葉を続けようとしたのを遮られた恵美子は、杉田の意外な話に怪訝そうだった。
「未来さんは、僕の所属するプロジェクトの一環として行われたある実験に参加していました。新製品の免疫抑制剤の臨床実験で、所謂治験という奴です。未来さんが丁度事務所の経営に困っていた頃で、高額の報酬が見込める治験に参加したんですよ。その帰りのことでした。彼女が乗っていたバンが自動運転システムのミスで、高速道路の高架から転落したんです」
杉田が一旦コーヒーで口を湿らせたが、これにはさしもの恵美子も二の句を継げず、杉田の顔をただ見つめるだけになっていた。
コーヒーカップをソーサーに置いてから、彼は静かに先を続けていく。
「未来さん以外の同乗者は、全員死亡するほどの酷い事故でした。彼女だけは奇跡的に即死を免れましたが、手足も内臓もめちゃくちゃになっていて、虫の息で病院に担ぎ込まれました。唯一の助かる方法は、損傷した部分を全て手術で人工のパーツに取り替えることだったんです」
「ちょっと……待って下さらない?そんな話が、どうして今につながって……娘がそんな事故に遭ったなんて、聞いたことありません。未来はぴんぴんしてるじゃありませんか」
杉田の言うことを硬直した顔と身体で聞いていた恵美子は、混乱しているようだった。
無理もない。いきなりこんな話をされて、信じられるほうがどうかしているだろう。
カップのコーヒーに映った天井のライトに視線を落とし、杉田は重々しく言った。
「仰りたいことはわかります。しかし実際に、未来さんの身体の半分以上は機械か、クローンで人工的に複製されたものになっているんです。それに、僕たちも無償で彼女を助けたわけではない。命を助ける代わりに、未来さんは僕たちのプロジェクトに一生参加し続けなければならなくなった」
「それが、つい最近大月さんの言っていたプロジェクトだと言うことなのかしら?」
こめかみを押さえて顔をしかめ、まだ杉田の話を整理し切れていない様子の恵美子だったが、何とか話の内容にはついてきている。
「大月専務が何か?」
天敵とも言える上司の名前が飛び出したことにぎょっとして、杉田が思わず前に身を乗り出した。
「ええ。一週間以上は前かと思いますけど、メールと電話で連絡を頂いて。未来が大型プロジェクトの主要メンバーに抜擢されたけれど、どうも調子が悪いようだから一度連絡が欲しいと。それで、彼女に取り次いでもらって娘と電話で少し話をしたんです。あの子、いつもに増して無愛想でした」
「大月専務から、何か聞いていらっしゃるんですか?」
無意識に眼鏡を指で押し上げ、若い医師は間髪入れずに呆然としている恵美子へ尋ねた。
「将来的に実用化が期待されている大がかりな医療関係のプロジェクトで、メンバーは大変でもやりがいがある仕事だとは聞いていますけど。企業秘密だそうで、具体的な内容は知りません」
恵美子は心ここにあらずと見える状態で、事実関係の把握に苦労しているようだ。
杉田は次の言葉を発するかどうか、一瞬戸惑った。
既に大月が恵美子に接触し、未来にまで話をさせていたとは思わなかったのだ。
が、今日自分が恵美子のところへ出向いたのは、未来にとっての最善策を施すためだ。
最初は事実を全て話すとしながらも未来が軍事用サイボーグであること、これまでの戦闘を経て敵を殺していることは伏せようと思っていた。
しかしこの状況となると、この先の話で必ず矛盾が生じて話がもつれ、最悪こちらが信用されなくなりかねない。今の恵美子は突飛な話をする杉田よりも大月の方を信じるだろうし、説得力がある話をするには、隠しごとをしたままでは駄目だ。
覚悟を決めて、杉田はこれまで触れていなかった事実を口にした。
「……未来さんや僕たちの所属するプロジェクトは、通称AWP。もう十年以上続いているものです」
「AWP?どこかで聞いたことがあるわ」
「未来さんが話してくれましたよ。以前、貴女も関係者だったと」
淡々と言葉を紡ぐ杉田の発言に、恵美子は記憶の糸をたぐり寄せた。
そして未来と最後に食事をした夜、喧嘩のきっかけとなった会話に思い当たった。
「……まさか、正式名称は……」
驚愕に彩られ、顔色を失いながらも呟いた恵美子の先を、息を短く吸った杉田が継ぐ。
「Advanced Worrior Project。ご存知の通り軍事用サイボーグを生み出すプロジェクトであり、未来さんはその被験者です」
言い切った杉田ととっさには返事が出ない恵美子との間に、重苦しい沈黙がたゆたう。
家の外を囲んでいる晩秋の空気は降り出した雨の水気を抱え、薄白いヴェールと共に宵の頃を迎えようとしていた。
冬の頭という時期にしては強い雨が、叩きつけるように降っていた。
小さな水の粒は長い髪を濡らして肌にまとわりつかせ、睫に水滴を宿らせ、身体を覆う蒼いチタンの鎧に透明な筋を作り、流れ落ちてくる。
ヘルメットを外したパワードスーツ姿の未来は、激しい雨が頬を打つに任せて鈍色の空を振り仰いだ。天から注がれる水は容赦がなく、重く水を含んだ前髪から伝う滴に目を細めざるを得ない。
しかし未来は、肌の露出した顔にも凍えるような冷たさを感じていなかった。
眼下に広がる街並みは未来が住む新宿区と違って全体的に低く、今立っているのは高所得者特別居住地区の一角にあるビルの屋上らしいと、すぐ側にそそり立つコンクリートの壁でわかる。が、いずれの区なのかまではわからなかった。
自分はどうやって、何のためにここへ来たのだろう?
ガラスの壁を隔てて外を見ているような感触は続いていて、未来はぼやけた意識の中で思い返そうとした。
C-SOLで訓練後に撃ってきた大月を撃退し、リューの制止を無視し、指令室の機器を全て破壊したことは記憶の片隅にあるが、よく覚えていない。
ふと肘を曲げて右手を上げてみると、見慣れない拳銃が握られていた。
大月が護身用として持っていた、ベレッタM92だった。安全装置がかかっているのを確認してからマガジンを抜いてみると、まだ何発分か弾が残っていることがわかる。
いつの間に拾ったのだろう?
『そんな恐ろしいものは置いてきなさいって何度も言ってるでしょう。お母さん、銃なんか見たくないわよ』
『確か、人間を遥かに凌ぐ戦闘能力を持つ化物を作り出すって言ってたわよ……本当に恐ろしい。どうして、自分から人間をやめてしまうのか。お母さんにはとても理解できないけど、そういう神経だから化物になろうと考えるのかしらね』
そこへ、母の声が響いてきた。
もちろん夕闇が迫りつつあるビルの屋上に、未来以外は誰もいる気配などない。
なのに、彼女の耳には頭に響くほどの重さが運ばれていた。最後に母に会った日、喧嘩の原因となった話が勝手にリピートされているのだ。
未来は無表情なままでその場面を思い描いていた。次々と、あの時はかっとなった母の言葉が蘇ってくる。
『どこかで育て方を間違えたのかしらね。お母さん、未来ちゃんはもっと正しくものがわかる子だと思ってたんだけど』
『親を馬鹿にするようなこと言うからでしょう!そんな子に育てた覚えはありませんよ』
『だいたい貴女がそんな野蛮な仕事なんかしてるから、相手に対していつでも喧嘩口調になるんじゃないの。昔はあんなに大人しい、いい子だったのに』
--私は一体、何のために生まれてきたんだろう?
お母さんの言うことを聞くため?
お母さんの言うことを聞かない私が必要ないんなら、産まなきゃ良かったのに。
お母さんが思う通りの人生を歩まなかった私が気に入らないなら、こっちを見ないで欲しいのに。
根源的な疑問。
この何日かで何度も何度も繰り返し、しつこいぐらいに湧き上がってきた問いだ。もう答えを考えるのにも疲れて、今はどこにも怒りや苛立ちというものは引っかからない。
代わりに不意の軽い頭痛とめまい、吐き気が襲ってくる。そのせいでずっと身体も心も重く、気が休まる時はなかった。
軽く頭を振ると、隣のビルの窓に映った自分が目に入る。
鏡のように磨かれたガラスの中に見えた顔は青ざめていても、母と喧嘩をした時とさして印象が変わらない。
だが、首から下のパワードスーツに包まれた身体は、とても人間に見えなかった。
こんな今の自分を母が受け入れてくれるとは思えない。
母の望んだ人生から大きく外れた娘を、親から授かった身体を作り変え、戦うために生きるしかない未来を、認めてはくれないだろう。
大月が母にどこまで今のAWPについて説明していたかはわからないが、被験者の母親なのだ。自分の正体が知られる日も、そう遠くはなかったはずだ。
しかしもう母に認められたいという気持ちに縛られたくない、と自分では思っているのだろう。
心が完全な自由を欲していることを、未来はどこか突き放した気持ちで自覚していた。
認めてくれないのなら、否定するのなら殺すしかない。
母が、そんな娘ならいらないと思うのと同じように。
そんな母など、生きていくのに邪魔になるだけだ。
別段母に強い殺意を感じているわけではないが、何故かそうしなければならないという衝動に逆らう気力もなかった。
それに、自分はこの銃で大月専務を自滅させた。
半ば偶発的だったとは言え、身近な人間の命を奪ってしまったのだ。
もう後戻りするには遅すぎる。
だから、彼女は動いた。
未来の手がベレッタを腿の隠しホルスターに納め、足元の水飛沫を跳ね上げて走り出す。
暗くなり始めた空に飛び出した金属の人影が建物の上を飛び移っていく様は、視力の優れた人間でも捉えられるものではなかった。




