第82話
「どうかしたんですか、突然……」
先に外の暗い路地へ降り立った生沢の背へ、杉田が躊躇いがちに声をかける。
生沢が振り向きざまに杉田へ飛ばしたのは、固く握りしめた右の拳だった。
無防備な杉田は顔面でまともにその一撃を喰らい、仰向けで路地の隅に吹き飛ばされる格好となった。
アスファルトの道路を革靴の底が擦って、バランスを失った細い身体が投げ出される。不意の衝撃に襲われた杉田の視界には一瞬白い星が散り、聴覚は自分が仰向けに倒れ、眼鏡が弾き飛ばされた音を捉えた。
自分の身に何が起きたか瞬時には理解できなかった杉田は、一瞬の間だけ呆然とした。
反射的に起き上がったところで、左の頬に痛みと腫れがじわりと広がってくる。
「ちょ……いきなり、何を!」
「ふざけるのもいい加減にしろ、馬鹿野郎!」
生沢が轟かせた雷鳴の如き怒声に打たれ、尻餅をついている杉田の動きが固まった。
「未来は壊れかけた心で、それでも自分を失うまいと必死に踏ん張ってるんだぞ。なのにお前ときたら、人をあてにしてばかりじゃねえか。惚れた女を自分で助けようともしないで、お前はどこまで他力本願のお坊っちゃんなんだ!」
「ですから、僕は!」
核心を突かれてかっと頭に血を上らせた杉田が、顔を上げて怒鳴り返そうとする。
「だから何だ、言ってみろ」
生沢は左頬を押さえてまだ立ち上がってこない後輩に、喧嘩腰な態度を崩さない。
「……僕は、そもそも未来を好きかどうか自信がないし、彼女の想いに応える資格がないと」
「資格だぁ?そんなもん、未来が決めることだろ!繰り返すがな。未来を助けられるのは、あいつが誰よりも信頼してるお前だけだ。自信があろうがなかろうが、んなこたぁ関係ねえ。俺やリューじゃ、お前の代わりにはならねえんだよ」
尻すぼみに言葉を繋いで俯いた杉田を睨みつけ、生沢は再び叱責口調となる。
「もし未来の信頼が重すぎて応えられないってんなら、お前の器は所詮その程度だってことだ。自分の存在を支えにしてる女を守るために強くなろうともせず、ただ逃げるだけなのか?相手の気持ちにはもっと大きな気持ちで応えてやる、それが男ってもんだろうが!」
少量の焼酎でも酔ったのか、生沢は普段決して口にしないことを杉田に叩きつけてくる。
生沢は、相手を傷つけることで自分までが傷つくことを恐れ、人と正面から向き合わないでいる杉田に常々苛立ちを感じていた。それが、今の状況とアルコールの相乗効果で派手に表に出てきたのだ。
上気して荒くなった呼吸を落ち着けた生沢は、一言残して後輩に背を向けた。
「どの道、今のままじゃ未来を助けることはできん。覚悟ができたら戻ってこい。そうじゃなければ帰れ」
杉田がふらつきつつ立ち上がるが、生沢は構わずに店へ続く暗い階段へと消えていく。
「覚悟か……」
まだ疼く左の頬に手を当て、杉田が夜のネオン街に零した。
奇跡的に壊れず落ちていた眼鏡を拾い上げ、無意識のうちにかけ直す。
生沢が言う覚悟とは、自分の弱さと対決するための覚悟だ。
幼き日に友を失い、誰かを深く知ることを拒み続けてきた、自分の壁。
少しだけ触れながらも、遠ざかった未来の心。
その二つが重なったとき、多分過去の傷を乗り越えられるのだろう。
もちろんそのためにどうすればいいかなど、よくわからない。
しかし一つだけはっきりしているのは、このまま何もしなければ、未来という存在が消えるということだった。
彼女が自分にだけ見せていたのだろう、元気だった頃の姿が心によみがえってくる。
研究室で交わした何気ない会話や、訓練の合間に見せていた、生き生きと輝いていた笑顔。そんなときにも印象に残った、溌剌と澄んだ声。
自分の弱さのために未来を失うなど、あっていいことではない。
あの笑顔にまた会いたくはないのか?
彼女の小柄な身体を強く抱きしめて、生きている温もりを感じたくはないのか?
再び、他愛もない小さな出来事で笑い合う日を望まないのか?
しっかりしろ。
勇気を持て。
自分から逃げるな。
お前は彼女を見捨てられるほど、冷たい男じゃない。
強くなれ!
自分のために。
かけがえのない、一人の女のために!
「……くそっ!」
両足を黒いアスファルトに叩きつけ、杉田は駆け出した。勢いをつけて、先の居酒屋へと続く階段の暗がりへ走り込む。
しかしその階段の途中に、黒いものが横たわっていた。人がうつ伏せに倒れているのだ。
目を凝らすと、唸り声を上げた生沢が這いつくばっているのがわかった。
「生沢先生?どうしたんです!」
もぞもぞと暗がりで動いている生沢に、慌てて杉田が声をかける。
「杉田か……済まん、腰が……」
「は?」
「さっきお前を殴ったときに、腰をやっちまったようだ。手を貸してくれ」
後輩へ申し訳なさそうに告げた生沢は、とことん情けない。
杉田は苦笑した。
「慣れないことするからですよ。あのまま戻って飲み続ければ、格好よく決まったのに」
「そりゃあわかってるんだが……いてて」
杉田が生沢に肩を貸すと、大柄な身体が腰を庇いつつ立ち上がった。
「ま、戻ってきたってことは大丈夫そうだな」
壁にある手すりを掴んで階段を上がる杉田に体重を預けて、生沢がほっとしたように呟いた。
杉田が穏やかに頷いたのを察し、大柄な男がやや呂律の怪しい口調で続ける。
「お前は誰が見たって、ちゃんと未来に惚れてるんだ。心配するな、もっと自分の感情に自信を持てよ」
「……はい」
杉田は返事を返しはしたが、冷静になって考えてみると、外でのやりとりはかなり恥ずかしい内容だ。通行人がいなかったのがせめてもの救いだろうか。
ところが、席に戻ってみると見慣れた人物が日本酒を一人あおっていた。
どう見ても同じ人種ではないその人物を目にした杉田が、驚いてニックネームを口にする。
「リュー。いつの間に?」
「ついさっきです。馴染みの店だからと言って、荷物を放置するのは感心しませんね」
リューが涼しい表情で冷や酒に口をつけ、既に運ばれてきていた串焼きに手を伸ばす。やはり見た目が欧米人の彼が小汚い居酒屋で一人呑む姿は、いつ見ても違和感があった。
「しかしまあ、面白いものを見せてもらいましたよ。大人の男二人の青春劇とは、なかなかに暑苦しいもので」
「何だ、見てたのかよ」
杉田の肩から椅子に体重を移した生沢が、場都が悪そうに頭を掻く。
「私が横を通ったのに気づかないほど熱中してたようでしたから、とりあえず荷物番でもしていようかと。追加の料理も頼んでおきました。腹が減っては戦はできませんからね」
「そう言えば、まだ僕は何も食べてなかったな。ありがとう、リュー」
杉田は照れ笑いを浮かべ、涼しげな顔のリューに礼を言った。
平常運転のハーフ青年が、にっこり笑って白い歯を見せる。
「いえいえ。それより生沢先生、あんな殴り方では腰に来て当たり前ですよ。今度もっといいやり方を教えましょうか?」
「いや、遠慮する。本社連中とやり合うときは、口の方が役に立つからな。腰は明日にでも、新入りの整形外科に診せることにするさ」
「やり合うって……何か騒ぎでも起こすつもりでいるんですか?」
生沢とリューの物騒な物言いに、杉田が思わず声を潜めた。
「人聞きの悪いこと言うな。未来の件で、本社に申し立てをしただけだ。お前をプロジェクトに戻すためにな」
「え?」
杉田が意外な生沢の予定行動に目を丸くすると、リューが頷いた。
「やはり、未来のことを一番よく知っているのは杉田先生ですからね。この状況でプロジェクトから外されるなんて、本来ならありえませんよ。私は直接未来とは会えませんが、生沢先生から話は聞いてたんです。今の未来は無気力な上に判断力も鈍っていて、他人からの要求は何も考えずに受け入れてしまう状態でしょう」
お猪口に残っていた酒を喉に流し込みつつ、リューは思考を巡らせているようだった。
「未来が普通の精神状態ではないのは、誰の目にも明らかです。なのに、大月専務は何の対策も講じようとしないどころか、それに乗じて未来を人形に仕立てようとしているようですし。大月専務が未来を軍属にしようとしているのは、高い確率でビンゴです。作戦の情報を一部マスコミに流したのも、世間にヒューマノイド保有を匂わせるための布石なんでしょう」
言いながらリューは手酌で新しい酒を注いで口に運び、先を続けた。
「しかしそこで問題になるのが、プロジェクトの最上部がこのことを把握しているかどうか、と言うことです」
「つまり、未来を軍に売り飛ばすという大月の独断を、もっと上の連中が知っているかどうかが鍵になる。もしまだ連中が大月の行動を受け入れていないのなら、人員配置転換についても何らかの動きを示すだろう。で、もう本社連中が大月の陰謀を良しとして見てるなら、もっと別の手を考えにゃならんわけだ」
生沢も頷いて、自分の意見を口に出した。
「それで、手始めに僕を元に戻そうと……」
軽い興奮のためか、杉田の声がやや熱を帯びてくる。
「はい。杉田先生と会うことができれば、未来は確実に落ち着きを取り戻せるでしょう。そうなれば、大月専務も未来を思い通りに操ることは難しくなる。まずはそこからです」
リューの口調は穏やかではあったが、瞳からは厳しい光が消えていない。
万事うまくいけばいいが、何しろ狡猾な大月のことだ。どんな変化球を投げ返してくるか予測がつかないのだ。
「未来は二年間、ずっと一緒にやってきた仲間だ。黙って見捨てるわけにはいかん。しかし、場合によってはセラフィムグループ全体を敵に回すことになるかも知れない。俺が覚悟を決めろと言ったのは、そういう意味もあったんだよ」
「大丈夫ですよ。僕一人でやらなきゃならないならともかく、生沢先生やリューが一緒なんですから。何とかなると思います」
生沢が警告を含んだ自らの言葉を焼酎で飲み込むと、杉田が落ち着いた調子で返した。
「他力本願なとこはそのまんまじゃねえか。ちっとは自分でも動けよ」
「まあ、杉田先生が逃げ腰ではなくなったことは収穫ですよ。私も生沢先生も、そこを一番心配していましたから」
呆れ半分に杉田を横目で見て新しい焼酎をグラスに追加しようとした生沢から、リューが黒っぽいボトルを取り上げ代わりに注ぐ。無色透明の焼酎は、ストレートで飲むにはかなり多い量だった。
「当面の目標は何とかお前をプロジェクトに戻すことだが、同時に味方を増やさないとな」
「でも、杉田先生以外の古いメンバーの多くも、連携を取るのが難しい部署に飛ばされてます。大月専務のこういう手腕には、毎度のことながら舌を巻きますよ」
そこで生沢とリューが同時に各々の酒をあおり、息を吐き出す。
「……そう言えば、まだ杉田先生が入れられたプロジェクトについては聞いてませんでしたね。P3プロジェクトとは全くの無関係ではなさそうな匂いがしますけど」
まだ焼酎の余韻に浸っている生沢を後目に、リューが杉田へ話を振った。
「ああ。未来と直接は関係ないけど、間接的には大いに関わりがあるよ」
「まどろっこしい言い方だな。さっさと話せ」
「わかりました。あまり大きい声では話せない内容なんですが……」
顔を寄せてきた生沢へ耳打ちするくらいに声を潜めた杉田へ、リューも上半身を乗り出してくる。
そのとき、杉田のワイシャツの胸ポケットにあった個人携帯電話が震えて着信を告げた。ネクタイと揃えたブランドのストラップを引っ張り、折り畳んだそれの小さなディスプレイを確認する。
そこには未来のカウンセラーであり自分の恩師でもある、元精神科医の田代の名が光と共に表示されていた。




