第81話
大月が軍の幹部を共同研究室に連れてきて以来、同じく軍属と思しき男たちの姿がAWP棟に絶えることがなくなってきたような気がする。プロジェクトの性質上、以前から軍関係者の出入りはあった。が、この数日はそれが特に多いのだ。
これまでは地下訓練場やパワードスーツの開発室にしか来なかったのに、今は共同研究室や診察室、培養室、手術室などの医療設備にまで、彼らはずかずかと入り込んでくる。
医療設備は生沢の仕事場であり、医療関係者以外の立入は通常なら厳しく制限される筈だった。
それがどうも最高責任者である大月が許可を出しているらしく、生沢が異論を唱えても睨まれておしまいのことが多々ある。
聖域を侵されたような気がして、最近の生沢は虫の居所が悪かった。
それに未来の回診についても、ここ数日で半分ほどを大月が別の医師に担当させるようになったのも気に食わない。
未来のプロジェクト全体について、P2との戦闘後は変更が多かった。殊更に目立つのは人員配置の転換と権限設定で、リューなどは未来の病室に入れなくなったほどだ。
ここまであからさまにやられると、あまり動じることがない生沢も気分が悪い。その苛立ちは、日々の酒量に如実に表れていた。
「いらっしゃいませぇ!」
生沢が古い雑居ビルの狭く、暗い階段の奥にあったくたびれた紺色の暖簾をくぐり、木の引き戸を開ける。
若い店員の威勢がいい声は、ささくれ立っていた心に気持ちよく響いた。新橋の裏通りにある行きつけの居酒屋は、雑多な雰囲気が飲んだくれるのに持ってこいだ。
「焼酎くれるか」
髭面の大柄な常連が木製の四人掛け席につくなり、注文を出す。
小鉢に盛った烏賊の塩辛を突き出しとして彼の目の前に置いた馴染みの店員が、意外そうな顔をした。
「あれ。ビールじゃないんですか?先生」
「今日は酔いに来たんだよ。ボトルは、同じ奴をもう一本キープしといてくれ。それと、適当に串焼きも五本くらい頼む。塩で」
ポケットに入れた端末に生沢の音声で注文が入ったことを確認して頷き、若い店員は厨房へ下がっていく。壁の振り子時計に目をやると、午後七時を回ったところだった。まだ時間が早いためか、他の客はまばらな状態だ。
「いらっしゃい!」
と思っていると、新たな客が暖簾をくぐってきた。
生沢が無意識に顔を上げると、丁度引き戸の前に立ったその男と目が合う形となる。
「……杉田?」
「お疲れ様です。ここに来れば、生沢先生がいるかと思って」
つい数週間前は殆ど寝食を共にしていたと言っていい人物、杉田の姿がそこにあった。
下戸の青年医師に珍しい場所で鉢合わせしたかと思ったが、言われてみればここは以前リューと杉田を連れてきたことがある店だった。
「こいつには生をくれ」
杉田が黒い冬物のジャケットをハンガーにかける様子をー見つつ、生沢は寄ってきた店員に注文した。
「それにしてもお久しぶりです。AWP棟では、僕がもう研究室に入れなくなってますし」
「つい何週間か前までは、同じ釜の飯を食ってたってのにな」
レトロな店構えに似合わないポップスがかなりの音量で流れる中、生沢が苦笑を交えて後輩医師の顔を横目で見た。
作戦が終了して十日は経つが、暫く会わないうちに杉田は少しやつれたように見えた。
一人プロジェクトから外され、嘗ての仲間との接触も断たれ、未来の様子もまるで情報が入ってこないのだから、彼の生真面目さから言えば当然と言えばそうだろう。杉田は、誰よりも未来のことを心配していたはずだ。
互いの酒が運ばれてきてから軽く乾杯し、二人は軽く息をついた。
「お前はどんな感じなんだ?」
「散々ですよ。まだ新プロジェクトの全貌も見えないのに、メンバーだけ集めてきてるって感じで。研究室も全然片づかないし、中心の筈の大月さんがなかなか来ないもんですから」
生沢に答えた杉田は顔は笑っていても、疲れの色が濃いのは隠し切れていない。もう一口ビールのジョッキをあおってから、彼は続けた。
「もっとも、僕に新プロジェクトに協力する気はありませんけどね。何とかしたいとは思ってるんですが、周りは知らない人間しかいなくて。動きが取れないんですよ」
「……そうか。俺もお前に連絡を取りたかったんだが、個人携帯やアドレスをお互いに教えてなかったのは失敗だったよな」
生沢もストレートの焼酎に口をつけつつ頷いた。
個人携帯番号やアドレスを互いに交換しているのは、杉田と未来くらいだろう。普段は会社の支給携帯で充分だったことから、プライベートな番号まではやりとりがなかったのだ。
生沢が古びた携帯をパンツのポケットから引っ張り出し、手元に置く。
「その新プロジェクトについては、リューが来たらゆっくり聞かせてもらうことにするか」
偶然にも、生沢はリューとこれからこの店で会う約束をつけていた。可能なら杉田も呼びたかったところだったため、丁度いいタイミングと言えるだろう。
「はい……ところで」
杉田が躊躇いがちに言い淀んで、生沢の顔を見やった。
「未来の具合いはどうですか?」
「術後の経過は良好だ。もうリハビリのプログラムにも入ってるが、来週には右腕がほぼ元通りになってると言っていいだろう。強化の対象が身体の頑丈さだけじゃなく、回復力まで入ってたことを忘れてたけどな」
普通の人間はちぎれた腕を手術ですぐに繋いでも、治るまで二ヶ月はかかるところだ。それが四分の一程度に縮まっているのだから、ここでも未来が純粋な戦闘用強化人間たる能力が伺える。
しかしこれは、身体が傷つく課程で被る心の痛みを無視した早さでもあった。
生沢の声に強烈な皮肉が込められている。
杉田がジョッキに手をかけたまま、表情を悲しげに歪めた。
溜め息をついた生沢は、乱暴にグラスの焼酎を煽った。
「あいつ、お前が担当から外されたことを聞いてかなりショックを受けたみたいだぞ。何日かは誰が話しかけても何も言わないし、にこりともしない。かと言って寝てるのかと思えば、そうじゃない。逆に、昼も夜も一睡もできてないみたいだっだ。食事にも一切手をつけないし、一時はあのまま餓死するつもりなのかと思ったぐらいだ」
「……今もまだそんな状態なんですか?」
「いや。幸いなことに、三日ぐらい前から少しずつ回復する傾向にある。点滴は外して経口食に移ってるし、表情も戻ってはきてるからな。ただなぁ……」
そこで生沢が無精髭に覆われた顎を指先で撫で、腕を組んだ。
「ただ、何ですか?」
「どうも、戦う前の未来とは様子が違うと言うか。妙にそわそわして落ち着いてない気がしてな。何かに焦ってるのか、とにかく変に思いつめてるような感じがある。まあ、あいつもお前になら正直に話をしてるのかも知らんが……俺じゃ、未来の細かい様子まで感じ取ることは無理なんだよ」
不安そうに尋ねた杉田が、煙草の煙がしみた卓に乗り出して生沢に更に突っ込んだ。
「どうしてです?現場経験が長い生沢先生なら、わかるんじゃ……」
「あのなあ。いくら俺が病院に長くいたって言っても、エスパーになったわけじゃねえんだぞ。患者が心に壁を作ってたら、何も言わずに気持ちを察するなんざ、できるわけねえだろ」
呆れたように返して、生沢が卓に置いてあったタバコの箱に手を伸ばす。
「それに、俺は回診の時以外は未来の側にいられるわけじゃない。何日か前から、その回診さえ別の奴がやるようになってきた。リューなんかは未来の病室にさえ入れねえんだよ」
「え?」
「お前と同じで、リューに病室の入室権限がなくなったんだ。無理に入ろうとすれば警備員が飛んでくるし……あいつも未来とは作戦以来、顔を合わせてないってことになる」
「……どうしてそんなことが?」
不審そうに眉をひそめた杉田を見ながら、生沢はくわえタバコにライターで火をつけた。
「大月が、作戦終了後に人員配置と権限設定の変更を一斉にかけたせいだ。未来と仲が深かった奴を引き離そうとしてるのがあからさま過ぎて、呆れるぐらいだがな。そのくせ、病室に大月が頻繁に出入りしてるのも分からん。今更あいつが未来を心配するとも思えないが、かと言って何かこっそりと薬剤を投与しているようなこともないし、未来自身も何も言ってこない」
思案しつつ、生沢はまた顎の髭に指を当てている。
それでは、またあの時と同じことが起きるのではないか。
早いペースでタバコを吸い続ける生沢の言葉で杉田の頭に浮かんだのは、未来がサイボーグとなった本当の理由を知ったときのことだった。
孤独の底に投げ出され、誰かを素直に頼ることも、やりきれない想いを感情に任せて爆発させることもできない未来は、再び自虐傾向に走って自身を追いつめる可能性が高い。
そうなれば、カウンセリングを担当した田代が言っていた、今まで抑えていた他殺衝動が表出する危険もある。
大月が密室状態の病室で未来と頻繁に会っているのなら尚更で、何かの拍子に自分をコントロールできなくなり大月を殺すかも知れない。
しかし大月はそこまで未来を追いつめて、一体何をするつもりでいるのか。
作戦のことについてマスコミに一部情報を出したことと言い、彼女の目的が何なのかがはっきりと見えてこない。
杉田は当面の疑問を口にした。
「新しい担当者が、未来の回診をやってるんですよね。何人です?精神科医はいますか?」
「今は外科医が一人だけだ。歳は俺と同じくらいで、確か整形外科が専門だったな」
後輩の問いに生沢は怪訝そうに答え、煙をゆっくり吐き出した。
杉田は以前未来の脳内物質バランスが崩れていることを大月に告げ、その際に彼女は適宜対処することを明言した。が、やはり大月は、精神科医を未来につけていないのだ。
「それと、最近わかったことなんだが。P3プロジェクトの予算が、今期以降は三割削減される」
生沢が吸い殻を銀色の灰皿に押しつけ、二本目のタバコをくわえる。
「大月の人員配置転換なんかは、どうもこのプロジェクトを終息に向かわせるための布石に思えてならん。空いたお前の研究室にも、誰も入ってくる様子がないし」
杉田はただ生沢がタバコをふかすのを黙って見ていたが、ビールではずみをつけて重い口を開いた。
「……じゃあ、未来は」
生沢が深くまでタバコを吸い込んで吐き出した紫色の煙が、一瞬二人を薄く覆う。
「恐らくだが、大月は未来を軍に売ろうと考えてるんだろう」
若い医師が予想もしていなかったことが、生沢の口から紡ぎ出された。
ジョッキのビールに持ち手の動揺が伝わり、白い泡が揺らぐ。
「それには医療設備とメンテナンス施設を移設しなきゃならんが、軍の連中が最近あちこち見て回ってるのも、そういうことなら辻褄が合う。それに、未来を戦いの道具と見てる大月のことだ。あいつにひどい孤独を味わわせて、自分を失わせようとしてるんじゃないか。それで逆らう気力を奪うつもりなんだろう。何せ、戦いで傷ついた心だ。簡単に壊すことができるだろうしな」
生沢は、話の後半へ行くにつれて投げやりな態度になってきている。
彼が未来の心情を無視しているような気がして、杉田は思わず詰問調になった。
「そんな……どうして黙って見てるだけなんですか!」
「俺も何とかしようとしてはいる。だが、肝心の未来が本心から話をしない」
杉田が荒れ始めたのを察し、生沢は吐き捨てたかったのを抑えた語調に落とし込んだ。
「どんなに俺が話すように言っても、あいつはただ大丈夫だと答えるだけで、何も教えてこようとはしない。しかし、ちょっと前にあんな酷いやつれ方をしてたんだ。それが急に様子が変わるなんてことは考えられん。大月が影で動いてるんだろうが、俺の行動範囲も狭められてきてて、未来から遠ざかりつつある。だからあいつは、余計にこっちを信用できなくなっているんだろう」
「未来はまだ脳内物質のバランスがちゃんと戻っていない筈で、器質的疾患を抱えたのと同じ状態なんです。それなのに、適切な治療もせず強いストレスを与え続けたりしたら……」
杉田はそこで二の句を継ぐことを躊躇った。
未来が抱える殺人衝動という心の爆弾について、ここで他人に話すべきではない。
勿論社会的な常識に照らし合わせれば、仲間内だけでなく会社という組織全体でそのことを認識し、対処するべきであろう。
しかしここでそんなことをすれば、未来の負い目を皆に知らしめることになり、余計に彼女を傷つけることになるのではないか。
そして、杉田に裏切られたと感じるのではないか。
先を続けることを迷い口を閉ざしたかに見える後輩医師を、生沢が促そうとする。
「どうかしたか?」
「いえ……ちょっと、考えがまとまらなくなって」
ベテラン医師の気遣わしげな視線を受け、杉田は言葉をビールで喉の奥へと流し込んだ。
「とにかく、俺は未来を助けてやりたい気持ちは変わっていない。しかし今の状況では、動きたくても難しい」
生沢も吊られたように焼酎をすすってから口を開くと、杉田も同調して頷く。
「そこで、何とか未来に救いの手を差し伸べられる方法があるとしたら……」
「少しでも未来に味方が多いことを教えて、安心させることでしょうか」
「それも方法の一つとしていいとは思う。だが、もっと簡単で時間もかからないのは」
座り直してグラスを置き、卓の正面を向いた生沢のほうへ、杉田が身を乗り出してくる。
その鼻先に、生沢は指を突きつけた。
「お前だよ」
先輩医師の指先を追っていた杉田の目が顔の真ん中に寄って、焦点が合わなくなる。
「え?」
視点の目標を生沢の髭面に切り換えるが、今度はその言葉に思わず疑問符が出た。
眼鏡の奥で白黒している後輩の目の奥を捉え、生沢は続ける。
「何とかして、未来とお前が会って話ができるようにする。それだけでも、あいつの精神は落ち着くだろう。そうなれば、恐らく大月が未来に対して企んでることは遅らせることができる。未来に気力が戻れば、大月も思う通りに進められなくなるはずだ」
「僕が未来と……」
驚きの色を顔に表していた杉田だったが、その視線が生沢の顔から外れ、ワックスがかかった黒いタイルの床へと落ちていく。
「……無理ですよ。僕には」
意外な杉田の反応に、生沢は片方の眉根を寄せた。
「どうしてそう思う?」
「僕は多分、彼女の意志に反して改造手術を施した、という負い目があるから……哀れんで優しくしてただけなんです。それを好意なんだと勘違いしてただけで。未来を心の底から思いやれない僕には、その気持ちに応える資格なんかないんですよ」
「でも未来は、どんなにお前に会いたがってるかわからないんだぞ。あいつは口にこそ出さないが、味方から引き離された上に独りぼっちにされて、死ぬほど辛い思いをしてる筈だ。助けてやろうと思わないのか」
生沢の声が重みを孕むが、杉田の視線は床を這うばかりだ。
「ですから、助けたくても僕にはそんなことはできないんです。未来の信頼に応える自信もない。重症患者や兵士たちの相手に慣れてて、頼りがいがある生沢先生やリューのほうが、僕なんかよりもずっと適任です。僕には、勇気も力もないんですから」
低く呟いた杉田は、自嘲の笑みさえ浮かべていた。
彼の胸には、大月専務から投げつけられた言葉が突き刺さったままだった。
『もし貴方が義務感や同情から彼女のことを気にかけてるなら、それは余計に本人を傷つけるだけよ。それに貴方も研究者なんだから、たくさんいるサンプルの一個体に気を回す必要なんてないでしょう』
今まで考えもしなかったことだった。
自分のせいで困難な状況に陥った誰かに救いの手を差し伸べるのは、当然のことだと思っていた。
しかし、罪滅ぼしのために情けをかけ、見せかけの愛情を与え、偽りの心で相手を包む。
それを特別な愛情と思い込み、壊れものを扱うように丁重に、大袈裟に扱う。
杉田には、未来に対する想いがそんなものとは違うと言い切るだけの確信はなかった。
自分の心に疑いが生じ、綻びた信念を繕うことができなかったのだ。
これでは自分が側にいても、余計に未来を傷つけてしまうだけだ。
それが一番怖かったのだ。
杉田は心にこもった灰色の重みを少しでも軽くするべく、俯いたままで溜息をついた。
「……ちょっとタバコ買ってくるからな。杉田、お前もつき合え」
やおら立ち上がった生沢がタバコの箱とライターを片手で乱暴に掴み、空いた手で杉田の肩を掴む。
「え?でも、まだそのタバコも開けたばっかりですよ」
「いいから来い」
声を押し殺して睨みつけてくる生沢は、殺気さえ感じられるほどだった。臨戦態勢になった熊のような迫力に押されて、言われたままに杉田が木の椅子から立ち上がる。
杉田は先輩医師のごつい手に引きずられて店の引き戸と暖簾をくぐり、階段を下りた。




