第77話
生沢が再び未来の病室に戻ったのは、それから数時間が経過した夕方六時を過ぎた頃だった。HARからのコールが、彼女の意識が戻ったことを告げてくれたのだ。
「どこか痛いところや苦しいところはないか?」
ベッド脇から聴診や血圧測定、検温等の基本的な診察をしながら、生沢はゆっくりした調子で尋ねた。
「うん、右腕が少し……でも、大丈夫。指先がちゃんと動かせるし、感覚もあるよ。それから、頭痛がちょっとするかな」
「何せ、五日も眠ったままだったからな。まだ無理に起きようとはしないで、安静にしてた方がいい」
「……そんなに長いこと寝たままだったの?」
「ああ。でも、身体的な機能にもう殆ど問題はないから安心して大丈夫だ。あとは旨いもんを腹いっぱい食べて、ゆっくり休めばいい。酒はご法度だけどな」
未来は、まだ顔色が優れずも生沢との受け答えははっきりとしている。
生沢の看護士を伴っての診察開始時はまだ夢うつつのようだったが、それが終わろうとしている今は記憶も鮮明になってきていたようだった。
気を失う直前のことまで思い出したのか、未来はギブスの巻かれた右腕に左手を当て、掌をゆっくりと握っては開くことを繰り返している。失ったはずの腕が何事もなかったかのようにあることに驚いているようで、感触を確かめているのだろう。
未来の身体は数箇所の擦過傷と打撲の他、まだ安定しない右腕以外にこれといった異常はない。点滴を除いた身体の管も取り除かれ、ようやく一安心といったところだろう。身体に巻かれた包帯や絆創膏は目立つものの、若いだけに早い回復も期待できる。本人が望めば、明日にでもベッドから起き上がる許可を出せそうだった。
「ねえ、生沢先生……あの時、何があったの?」
診察を終えた未来が入院着の前を閉じながら、掠れ声で呟くように生沢に疑問を投げかけた。無事だった左手で支えつつ半身を起こし、改めて生沢の顔を見つめてくる。
「あの時?」
「P2と私が戦った、一番最後の時のこと」
起き上がるのはまだ辛かったのか、彼女は小さなリモコンで電動ベッドの上半分を起こした。気を遣ったらしいHARが水差しから汲んでくれた紙コップ入りの水も受け取り、ゆっくりと口をつける。
未来の記憶はP2を助け起こそうとした時に突然押し倒され、正体不明の轟音と大量の埃に空間と感覚を支配されたところでぶっつりと途絶えていたのだ。
生沢が目配せすると、診察を手伝ってくれていた若い女性の看護士が頷いて退出する。人払いが済んでから、生沢が改めて未来の方を向いた。
「……聞きたいか?」
「だって、そりゃ……P2に飛びつかれて気絶したかなって思ったら、いきなりC-SOLに戻って自分の病室にいるんだもん。何がどうなったのか教えてよ。P2が最後に言ったことは覚えてるんだけど」
「あいつは何か言ってたのか?」
胡散臭そうな生沢の態度だったが、未来は頷いた。
「うん。未来、お前は生きろ、って……」
「そんなことを言ってたのか?ちょっと前まで殺し合った相手だってのに」
「だから、よく覚えてるんだよ」
「そうか……」
髭面を驚きに染めていた生沢だったが、声の調子が落とされる。
「だから、教えてってば」
生沢の沈んだ口調から良くないことであろうと予測はついたが、未来は聞かずにいられなかった。
「まず、お前たち二人が最初に吹き飛ばされたときのことだが。あれは、P2の脚に仕掛けられていた爆弾が爆発したせいだ」
「爆弾?どうしてそんなものが?」
未来が眉を顰めるが、生沢は首を横に振った。
「理由まではわからんが、そんなことができるのはP2のメンテナンスをやっていた若松くらいだろう。少なくとも、AWPではそんなものを仕込むことはなかったらしいしな。それに、若松ももう死んだ。今更確かめる方法もない」
やはり若松は、カシオペアの救援部隊が駆けつけたときには事切れていたのだ。いくら彼が私利私欲を優先する虫唾が走るタイプの敵だったとは言え、人が死ぬ話を聞くのは気持ちのいいことではない。
表情を曇らせる未来を尻目に、生沢がもう一つの質問に答えるべく先を続ける。
「それから、あのときに来たヘリのことは覚えてるか?」
「……ああ、確かP2が武装ヘリだとかって言ってたかな」
「あれは軍から派遣された武装ヘリだ。そしてお前たち二人は、その武装ヘリから機銃掃射を浴びせられた」
短く息を飲む音が、静かな病室に響いた。
未来は暫し言葉を失った後、喉から低い声を搾り出して続けた。
「うそ……何で?そんなもの、必要なかったじゃない!だって、P2はもう武器も持ってなくて、立ち上がることだってできなかったんだよ。それなのに……」
「今回の作戦目的がP2の破壊だったことは、軍にも伝わってたんだろう。ヘリのパイロットは、P2への射撃とお前の援護の命令を受けてたらしい。しかし……」
一呼吸置いて、生沢は窓越しに見え始めた夜景に目をやった。
「P2は身体を盾にして、巻き込まれたお前を庇っていた。だから、お前はただの一発も撃たれてなかったよ」
「あいつは?P2は、どうなったの?」
生沢が複合リモコンで窓のブラインドを下ろし、目を伏せる。そこに既に答えはあったが、敢えて生沢は口を開くことにした。
「……満足そうな死に顔だった。戦うために改造されてた奴にあんな穏やかな顔ができるなんて、考えてみたこともなかったよ」
ずきん、と未来の胸に毒の弓矢が突き立てられたような痛みが走った。
咄嗟には言葉が出ない。
身体の奥から湧き出てくる苦さに、肩が震える。
耐え切れずに下を向き、左手で毛布を固く握り締めるのがやっとだった。
「そっか……だから、私に生きろって……言ったんだ」
未来は呻くように呟いて、呼吸も荒く喘いでいるようだ。苦しげな様子に、心配した生沢が駆け寄っていく。
「大丈夫か?」
「触んないで!」
肩に手を置こうとした生沢は、未来に強く拒絶されて思わず腕を引っ込めた。
「……ごめん、先生。悪いけど……暫く、一人にしてもらっていい?」
まだ顔を上げられないでいる未来の頼みに、生沢は頷いた。
「今日は俺が当直だから、遠慮なく呼んでくれ。大概のことなら何でも聞けるからな」
外見はごついが限りなく優しい医師の言葉には心遣いがあり、そして暖かな人柄を感じることができる。
彼が静かに病室から退くと、未来はゆっくりと顔を上げた。
「お前は生きろ、か……」
呟いた彼女は、胸の鈍く重い痛みが瞳を熱くし、大粒の涙が視界を歪めていることに気がついた。
最強にして最大の敵だった旧型サイボーグ、P2は死んだ。
しかし激闘の末に未来が殺したのではなく、あろうことか機銃掃射から彼女を庇って生命を落としたのだ。
彼は幾度も未来を苦しめた、最も憎むべき敵だったはずだ。
なのに、心臓の一部を無理やり引きちぎられて激しく血を流しているような、この苦しさは何だろう。
親しい友人を失ったときに似た、心の底にぽっかりと穴が開いた喪失感。
それほどにまで、P2の言葉や行動は未来の本質に響くものを残していたのだ。
同じ境遇にあって、鏡の向こうにいた自分自身の姿を互いの中に見つけていた相手。
他人には決してわからない悩みや苦しみを知る、恐らくこの世界でたった一人の存在。
彼が笑顔を見せてくれたとき、そして最後に自らを命を犠牲にして守ってくれたとき。
未来はP2が本来持っていた人間性に、死の直前になって触れることができたのだ。
彼は一度心を捨てた者であり、最も手強い敵だった。
そして多分、サイボーグである自分の最大の理解者にして、良き友にもなりえた唯一の人だった。
未来の左手が自然にこめかみへ上がり、敬礼の形を取る。
リューから座学のときに教わった儀礼だったが、彼女は無意識のうちにP2へ弔いの意思を行動に表したのだ。
「……貴方の心は、私と共に……」
低い言葉と同時にゆっくり閉じられた未来の瞳から、涙が溢れ落ちた。
『私は最後にお前に救われた。心から感謝する』
彼女が目覚める前に闇の中から聞こえた声は、やはりP2の最後の挨拶だったに違いない。
礼を言わなければならないのはむしろこちらなのに、勝手に別れを告げていなくなるなど許せない。
そんな気持ちもあったが、彼は我儘を聞いてくれるほど甘い男ではないだろう。その人らしい死に様だと言われれば、そうかも知れなかった。
許せないと言えば杉田医師も同じようなことを叫んで、最後の戦闘で立ち上がる気力も失っていた未来に喝を入れてくれた。
「杉田先生?」
未来がはっと敬礼の手を下ろし、涙を拭った。
そう言えば、彼は生沢と同じ担当医のはずが回診に来ていなかった。本当なら無事に目覚めたことを真っ先に伝えたい相手なのに、どうして今まで頭から抜け落ちていたのだろう。
「HAR、生沢先生を呼んでもらえる?」
「かしこまりました」
未来が慌ててベッドの脇に控えている汎用型ヒューマノイドに声をかけると、流暢な返事が返ってくる。
HARがシステムに搭載されたドクターコールで研究室に連絡を取ってから数分後、生沢が病室へ現れた。
「どうした。どこか痛むのか?」
「あ……ううん、大したことじゃないんだけど」
自動ドアをのっそりとくぐってきた生沢の表情も雰囲気もさっきと全く変わらないが、未来は何故か本題をすぐに口には出せなかった。
「えっと、あの蘭は誰が持ってきてくれたのかなって」
「あれか?杉田が何日か前に持ってきた奴だが」
ちらっと部屋の隅に鎮座するピンクの鉢植えを見やった生沢に、未来の表情が僅かな強張りを見せた。
「そうなの?蘭の鉢植えなんて、あんまり先生らしくないなって思っちゃって。ほら、杉田先生って華道やってるでしょ?いつもは、自分で活けた花を持ってきてくれてたから」
職業柄で鋭い観察眼を持つ未来は、この病室に愛しい男性の気配がないことを悟っていた。当然、蘭は杉田が持ってきたものではないことも気がついている。
なのに、どうしてそのことをわざわざ訊いてしまったのか。
明らかな動揺を隠し切れない未来に生沢もまた、気づいた。
重い沈黙が病室を支配しようとする。
「……杉田先生はどうしたの?」
自分の心臓の鼓動が嫌なリズムで刻まれ始めたことを、未来は意識させられた。
すぐには何も言わなかった生沢が軽く溜息をつき、観念したかのように唇を開く。
「あいつは……」
「あら、杉田くん?こんなところで何をやってるの?」
AWP棟五階にある虹彩と声紋認証のドアをくぐった先に伸びる静かな廊下に、見慣れた青年の姿を認めた大月が訝しげに声をかけた。
時刻が午後七時を回り、彼女が自分の研究室から私物を引き上げて帰宅しようとしていたところに、杉田がドアを塞ぐ格好で佇んでいた。
「専務、お話したいことがあります」
抑えた声で返した杉田の表情は酷く疲れ、もともと細い顔なだけにやつれて見えた。
「明日じゃだめかしら?急いでるのよ」
「……どうしてこんな時に、僕を未来の担当医から外したんです?」
ハイヒールの踵を鳴らし横をさらりと抜けようとした大月に、杉田は食い下がる。
「前にも言ったはずよ。貴方は、次期サイボーグ製作プロジェクトのメインメンバーになる。でも、次のプロジェクトで扱う内容はP3のものよりも更に重要度が高い、Sランクの機密情報になるの。国家機密に匹敵するクラスよ。その場合は責任者が許可したもの以外の一切の情報持出と、社内でも関係者以外との接触が禁止されることぐらい、貴方も知ってるでしょう?」
杉田に行く手を阻まれて立ち止まった大月は、さも当然と言った様子で返してくる。
P2との死闘から皆が生還し、未来の右腕の移植が成功して一息ついた四日前のことだ。
杉田は突然未来がいる病室へ通じる最後のセキュリティ認証全てが拒否されるようになり、五階の自室を引き払って、四階にある新しいセキュリティエリアの研究室へ移動するよう命令されたのだ。
驚いた杉田が大月に説明を求めたところ、先ほどと同じ話を一方的にメールでされた。
それ以降は本社に行った切りの大月と連絡が取れず、生沢やリューたちとも社内で話ができず、やっと今責任者たる彼女を直接捕まえたところだったのだ。
旧プロジェクトメンバーたちの社内用携帯も会社側から着信拒否にされ、社内SNSのプロジェクトページのログイン、メールも当然送受信不可になっている。
杉田には今、未来がどんな状態でいるのかが全く情報がない。
彼は未来が目覚めたときにすぐ側にいて、真っ先に労いの言葉をかけるつもりでいた。
未来は心身ともに傷つき、疲れ果てている。信頼する者の支えが一番必要な時期のはずなのに、彼女が一番頼りにしている自分がメンバーから外されるなど、普通に考えればありえなかった。
「……そんなのは、納得が行きません」
「貴方はもう前のプロジェクトから外れることになるかも知れないと、前からわかってたことでしょう?急過ぎるのは悪かったと思ってるけど、所詮早いか遅いかだけの違いなのよ。ただ、その分の埋め合わせは待遇に反映するわ。だから、大いに頑張ってちょうだい」
「未来には、信頼できる人からの支えが必要なんです!」
早々に話を逸らそうとする大月に、杉田はつい大声を上げた。
「それが生沢くんや田原くんじゃ役立たずだ、自分じゃなければ駄目だとでも言うの?大した自信ね。それに貴方みたいな女嫌いに、あの子のことがわかってるとは思えないけど」
「そんなつもりはありません。でも僕は……」
一瞬だけ言葉に詰まった杉田に冷たい一瞥をくれると、大月は正面から言い放った。
「もし貴方が義務感や同情から彼女のことを気にかけてるなら、それは余計に本人を傷つけるだけよ。それに貴方も研究者なんだから、たくさんいるサンプルの一個体に気を回す必要なんてないでしょう。もっと割り切って考えないと……」
「違います!」
大月が言い終えないうちに杉田が邪魔を入れると、彼女の細い眉が僅かにしかめられた。
「何が?」
「いえ……彼女の脳にあるSNSAは、僕が直したんです。あれは、まだ検証も何もやっていない状態での荒療治でした。痙攣が再発しないかどうか経過を見ないことには、僕の気が収まらないんです」
まさか、未来に対して特別な想いがあるなどとは言えない。
未来が本来望んでいなかった改造を施した負い目から生じる責任感を発端に出た感情を大月に指摘され、杉田は動揺を煽られていた。
部下の苦しい言い訳に、美貌の上司は軽く頷いた。
「なら、私から経過をメールで送るようにするわ。それなら、文句ないでしょう?」
「いいえ。あの装置には、脳内物質のバランスに悪影響を与える誤作動があったことも明らかになったんです。それも一応直しはしましたが、こいつは未来の普段の状態を知っている者でなければ、経過を正確に見ることはできないかと思います。だから……」
「じゃあそれには、提携病院から新しい精神科医を連れてきて対処することにしましょう。専門の人間がサポートするほうが、貴方にも安心でしょう?これも、経過は合わせて送るようにするわ」
まだ何とかしようとする杉田を滑稽そうに横目で見た大月だったが、ことごとく彼を言い負かす口の達者さには隙が見えない。
「もういいかしら?私、今日はこれから予定があるから」
「いえ、まだあともう一点あります」
「今度は何?」
話を切り上げようとしてもまだ懲りずに立ち塞がる杉田へ、流石に大月もしかめた顔と荒い声の調子を隠さなくなってきた。
「これです」
杉田が抱えていた書類の束から抜き出し、差し出して見せたのは、創刊五十年以上の歴史を誇るゴシップ週刊誌だった。けばけばしい太い赤のゴシック体が、その号のメイン写真よりも自己主張するべく表紙を飾っている。
『危険物除去作業の真相 都内複数のテロ組織アジトを武力で強襲!主戦力は国防軍秘蔵の新型ヒューマノイドか』
そこには、先日AWPによって展開された作戦のことが大きく取り上げられていた。杉田がざっと目を通したところでは、都心の複数箇所で大型火器による銃撃戦の生々しい痕が残り、ある大学構内では爆発物が使用された形跡があった旨の記事が、主たる内容だった。
そしてそれは、軍と警察が共同で都内にあった外国人テロ組織のアジト殲滅作戦を強行したのではないか、ということ。更には数キロ離れた場所から超望遠レンズで捉えられた、P2らしい人影が写り込んだ写真まで掲載されていたのだ。
「どういうことなんですか?これじゃ、このC-SOLにまでマスコミが押し掛けてくるのも時間の問題ですよ。情報を統制して、今回の作戦が表に出ないようにするのは……」
「そう、私の役目よ。その記事がまさにそれ。必要な情報を出すってことも含まれるから」
糾弾するつもりが予想外の発言に遮られ、杉田はとっさに二の句が継げなかった。
「……必要な情報?一体どういう……」
「貴方はもうP3開発プロジェクトの関係者じゃないのよ。これ以上知る必要はないわね」
再び言葉を遮った大月のダーク系スーツに包まれた細い腕が、杉田の身体を押し退ける。
「とにかく、貴方はもう未来に会うこともないの。仕事は山ほどあるんだから、早く気持ちを切り換えること」
「逃げるんですね、専務」
冷徹に投げつけられたとどめの一言に対して皮肉で応えた杉田を、大月はむしろ意外そうに振り返って見やった。
「貴方も言いたいことを言うようになってきたのね。でも、私にあまり楯突かない方がいいわよ。でないと、貴方の一番大切なものを失うことになるかも知れないから」
その程度の悪意は受け慣れていると、彼女の余裕ある態度が語っている。
何もしなくても、結局同じ結果にするつもりではないのか。
大月がまた未来に対して何事かを企んでいることは、嫌でも予想がつく。
静かな怒りを厳しい表情に湛え、若い医師は自動ドアの向こうに消えた上司の背を、突き刺すような眼差しで睨んだ。




