第76話
身体が動かない。
目も見えない。
肌に何も感じない。
早く起きなければならないのに。
必死にもがこうとしても、筋の一つでさえ凍りついたように動かせなかった。
いや、それよりも、自分は今一体どこにいるのだろう?
何をそんなに急いで起きなければならないのだろう?
ここに来る前は、どこにいたんだっけ?
ぼんやりと浮かんできた疑問はまだ暗く、何も感じない世界にいる未来を、闇以外の何かがあるところへ連れて行ってくれそうだった。
しかし、辺りを囲んでいる黒いモノは手足と心をがっちりと絡め取り、離してくれそうにない。
ひたすらに四肢はだるくて重く、身体の中が鉛にでもなったかのようだった。
そして、ただただ眠かった。
だんだん考えるのが面倒になってくる。
……別に、無理をして起きることもない気がする。
もう暫く眠っていよう。
未来が再び真っ暗な空間に身を委ね、思考も沈めようとしたときだった。
『……私は、最後にお前に救われた。心から感謝する……』
聞き覚えがある音が、微かに頭の中を刺激した。
低く、強く、心地よい男の声。
誰だろう?
ごく最近聞いたような気がするが、脳がうまく働かないようで思い出せない。
そういえば、自分は感覚をも自在に操れるサイボーグではないか。聴力レベルを上げれば、もう少しきちんと聞こえるかも知れない。
未来は今更のように思い出し、眠さに負けそうな意識を耳に送った。
最初はくぐもって響き、次第にはっきりと届いてきた声は、先に聞こえたのとは違う男女の話し声だった。
「……それにしても、本当に悪運が強い子ね。あれだけの機銃掃射を浴びながら、弾が一発も当たっていなかったなんて」
「まるで、未来に死んで欲しかったような言い方だな」
「そんなわけないでしょう。それなら、お見舞いに花なんて持って来ないわよ」
じろりと睨んできたスーツ姿の大月の言葉を胡散臭げな表情で受け止めて、生沢は病室の小さな机に置いてある蘭の鉢植えを見やった。
わざわざ高価な花を選んだようだが、鉢植えは「根つく」ことから見舞いとして昔から嫌われていることを、この女取締役は知らないのだろうか。
「激しい戦闘だったが、右腕の切断以外は命に別状はない怪我だった。その右腕も、クローンの移植を即時でやったからな。手術からある程度の日数も経過してるし、未来の目が覚める頃には術後の痛みもかなり軽くなってるだろう」
未来の定時回診を終えた生沢が、ノート大のタブレット画面に表示された電子カルテに所見を手早く書き込んでいく。
「ずっと目を覚まさないままでいるの?随分と長く眠ってるのね」
いつもと変わらず着古した私服に白衣を重ねた生沢の様子を見つつ、大月はベッドで眠り続けている未来にも横目で視線を流した。
静かに横たわる未来は移植された右腕がギブスで固定され、何種類かのチューブと点滴がまだ繋がれている。しかし基本的な身体機能に大きな異常はなく、ただ疲労の極致にあって意識が戻らないだけなのだ。深かった眠りも浅くなってきているようで、夢でも見ているらしく時折睫が細かく震えるときがある。
「未来は心も体もぼろぼろになってたんだ。こんな時ぐらい、邪魔を入れずにゆっくり休ませてやらんとな」
と、生沢が大月から未来を隠すように彼女の前に立った。
P2との死闘を終えてから、既に五日が経っている。
敵の体内に仕込まれたプラスチック爆弾の爆発に巻き込まれて右腕を失った未来は、その後更に武装ヘリからの機銃掃射に晒されたのだ。
P2の下敷きになるように倒れていた彼女は、幸い一発の弾丸も命中することなく終わっていた。その後ただちに回収班によって救助され、スコーピオンのオペ室で腕の移植手術を施した後、C-SOLにて治療を継続しているのである。
その際の不可解な出来事を、生沢は「たまたま」見舞いに来た大月に問い質すことにした。
「そんなことより、誰があんな武装ヘリなんぞ寄越してきたんだ?どう考えても、あのタイミングで機銃掃射は全く必要なかったはずだ。未来はP2を、完全に圧倒したんだからな。リューの部下二人も、全く知らないと言ってたし。仮にもあいつら、軍の連中だろ?何か知っていてもおかしくはないよな?」
わざと言葉尻を疑問形にしつつ、生沢は大月の表情を探った。
実は国防軍時代のリューの部下たちは、生沢がリューに拝み倒して連れてきてもらった人材だった。
加えて、生沢は彼らにある依頼をかけていた。
作戦当日に国防省へ出向いていた大月の動向を、彼らの手配した内通者を使い監視していたのだ。彼女がもし軍を扇動して無理な命令を下すようだったら、生沢がその矢面に立つつもりでいた。
榎本と大橋が、大月の動きを知らないわけがない。ということは、もっと上のレベルで情報が操作されたのか、内通者が買収されたか、もしくは脅迫でもされた可能性が高いということだ。
「……貴方は、よく気が回る部下に恵まれてるようだから」
含み笑いを漏らした大月は、軽く首を振って肩にかかる黒髪を揺らした。きつめの香水の香りが、彼女を取り巻く空気に振りまかれる。
生沢の疑念を孕んだ視線は、その強い香りに遮られたかのように大月の本心へ刺さり損ねていた。
「お前、作戦当日はずっと国防省にいたんだろ。何も聞いてないのか」
「ええ。作戦協力と言えば聞こえはいいけど、実際は一室に押し込められて、殆ど軟禁状態よ。国家の重要機密を一般人には見せるわけにいかないからって。疑うなら、入室記録を出して差し上げてもいいわよ」
今度はストレートに聞いてきた生沢に、大月は皮肉つきでストレートに返してきた。
「いや。データの改竄ができるようなものなんざ、別に証拠にゃならんからな」
鼻で軽く笑って肩をすくめた生沢に、彼女は態度を変えることはない。
「あら、また私を疑ってるの?だとしたら、残念だけど取り越し苦労よ。他の関係者にでも聞いてみることね」
「俺は自分の目で見るか、一緒に飲み屋に行けるくらいの奴が言うことしか信用しない性質なんでね。特に、一度臭うと感じたことにはな」
とぼけた口調でいながら、生沢の纏う空気からは徐々に普段の暖かさが失せていくようだった。次第に眼光が鋭さを増し、命の修羅場に幾度も遭遇した者ならではの迫力が、代わりに彼を支配し始めていく。
「とにかくこのプロジェクトの第三段階、人間寄りのサイボーグにパワードスーツと重火器を装備させ、同等かそれ以上の戦闘力にぶつけたらどうなるのか。その明確な結果は得られたわけだな」
「そうなるわね。皮肉にもP2、それにP1が生きてくれていたお陰で、こそこそと二人目のP3を作る必要もなくなったのよ。そこは感謝するべきかも知れないわね」
その生沢に気づかないふりをしているのか、ブランド物のスーツで武装した女の表情は冷笑を浮かべた。
初期のAWPでは、段階を踏んだ目標が設定されていた。
第一段階は、薬物投与による最も効果が早い改造。
第二段階は、身体の八割を機械化するロボット寄りの改造。
第三段階は、人間に極めて近い外見を残した中度の改造。
そのいずれにも、被験者と同等の能力と武装を持つ個体同士の戦闘データの収集が最終目標として掲げられていた。が、第一段階及び第二段階においては改造自体が失敗であり、同等の能力を持つ別個の個体の製作にすら至らず、頓挫していた目標だった。
プロジェクトの関係者であれば話をすれば思い出すが、その程度の認識でしかなくもう誰も取り組もうとは思わないもの。AWPが発足して以来十年それは実現不可能なものとして、企画書のみにでかでかと記載があるだけの飾りとなり果てていた。
そこで取締役に就任し、プロジェクト最高責任者の地位に就いた大月がプロジェクト活性化のため利用するに思い至ったのが、この絵に描いた餅を現実とすることだったのだ。
P3である未来の改造が成功する可能性が高まったとき、彼女はこの計画を言葉少なく語ったことがある。
「生沢くんも知ってるとは思うけど、AWPの目標が達成できたら……凄いわよね」
と。
大月の野心を知ってから常に、生沢は彼女の行動の裏を読むように心がけた。
実際に彼女は廃棄処分されたP1とP2を巧みに使い、プロジェクト全体で誰も辿り着けなかったゴールに達したのだ。
もちろん彼女はこのことについて、C-SOLメンバーの前で公言したことはない。責任者クラスの僅かな者のみが知っている事実であり、非人道的な目標であるだけに、進捗は意識的に伏せられていたことでもある。
そしてプロジェクト現段階において最大の成果がもたらされた以上、問題になるのは未来の今後の扱いである。
当面戦うべき敵はおらず、かと言って日々のメンテナンス作業を打ち切るわけにもいかない。大月にとっては、維持費を食うだけの邪魔な存在になっているはずなのだ。
核心を突くつもりで、生沢がストレートな単語を用いて大月に攻撃を仕掛けにいく。
「まあ、旧型をまとめて始末するにはいい機会だったってことだよな。情報は逐一入り、二人が互いにダメージを与えて弱りきったところへ上空から撃つ、ってのは」
「ヘリはP2だけを狙ったつもりだったそうよ。未来は運が悪かったのね」
始末する、という自分らしからぬ表現に生沢は顔をしかめたい思いだったが、大月は自身の持ってきた蘭の鉢植えに近寄り濃いピンクの花にそっと指先を触れて、同僚の顔など見てはいなかった。
確かピンクの蘭の花言葉は「美人」のはずだったが、「変わりやすい愛情」という意味もある。どちらにしても、こういう小さなところでも自己主張は欠かさない、といったところだろうか。
肝腎な質問の答えをはぐらかした大月の細かい行動も見逃さずに、生沢が低く漏らした。
「ふうん……本当かねえ」
彼がちくちくと攻撃する手を緩めずにいても、その対象たる大月が何食わぬ顔なのは変わらない。今一度答えの方向を逸らすためか、女は微妙に話を変えようとしていた。
「それにまさか、P2があんなことをするなんて。未来は更に運が悪ければ、P2と一緒に身体がばらばらになっていたところよ」
「ほーう。そりゃ、何でまた?」
「だって、P2の身体の下に未来はいたのよ。弾の種類によっては、上にいるP2の身体を突き抜けて弾丸が当たってたかも知れないわ」
生沢の馬鹿にするような態度に苛ついたらしく、大月の語調が荒くなる。
が、生沢はのほほんとした調子ながらも鋭く突っ込んでいた。
「どうしてそこまで知ってるんだ?報告書には、そこまで細かく書いてなかったと思うが」
「あら。貴方が報告書を書いたんじゃないんでしょ。私が見たのは、軍とAWPが作った報告書を纏めてフィックスしたものよ」
一瞬の間が空く。
この女専務に最早回りくどい言い回しは不要と判断し、生沢はストレートに言い放った。
「……大月。お前が二人の処分を命令したな」
揺さぶりをかけるために大月を睨みつけ、生沢は彼女に一歩詰め寄った。
「したわよ。ただし処分命令ではないわ。P2は射殺、P3は援護を上空からするようにという内容で命令したの。私が軍を直接動かしたことは伏せておきたかったのに、詮索好きな男は嫌われるわよ?」
「大事なことをとぼける女にゃ、興味ねえよ。残念だな」
熊のような外見を持つ同僚の鋭く突き刺さるような話を、大月は難なく正面から受け止めていた。悠然と、目の前の図体の大きな男の顔を見返すほどだ。
大月の度胸の座りようには正直頭が下がるが、それが陰謀とともに使われるのだから始末が悪い。どんな理由があるにしろ自分の悪事をずばりと言い当てられても平然と開き直り、真実味がある大ぼらを吹けるのは、恐ろしい才能の一つだとも言えるだろう。
短く答えていた生沢ではあったが、それ以上の追及にあまり意味がないことを思い知らされて、 微妙に話を軽くすることくらいしかできないでいた。
何しろ、大月が武装ヘリで二人の抹殺を狙ったと言う確たる証拠はないのだ。
大月の視線が、再びベッドの未来へと向けられる。
「この子はもてるのね。杉田くんとP2、敵と味方両方の男から守られて」
「未来は何とかしてやりたい、と思わせる魅力の持ち主だからな」
「でも二人のナイトを失って、どうなるかしらね。果たして、残りの駒だけでクイーンを守れるかしら?」
大月の言う二人のナイトは、杉田とP2のことだ。今のAWPをチェスに例えたクイーンとは、紛れもなく未来のことを指す。
生沢の口許が、皮肉っぽく歪められた。
「片方のナイトは、お前が自分の駒として盤から外したんだろうが」
「使えるものは使うわよ、優秀な私の部下としてね。もう当分戦闘も起こりそうにないし、業務量は減ってるんだから文句はないはずよ。ナイトがいなくても、ビショップやルークが残っていればゲームは続けられるわ」
ビショップは生沢、ルークはリューのことを示しているのだろう。だとすれば、キングはプロジェクトの頂点にある大月となる。
生沢はチェスの盤を思い描き、容赦のない言葉の攻撃を繰り出した。
「ナイトの役割はナイトにしかできん。白のキングも黒くなりつつある」
口調は静かでも、込められた怒りの強さは滲み出る。
生沢は自身を鎮めるため軽く息を吐き肩の力を抜いたが、言葉に託す感情は強いままだ。
「それに、ナイトの一つは無理やり黒く塗りつぶされようとしてる。一度ルールの崩れたゲームは、そのゲームにおける世界の崩壊を意味する」
警告の意味も含めた生沢の声は、弱まることがない。大月が落ち着いた色のルージュとグロスが乗った艶やかな唇の端を吊り上げ、声のない冷酷な笑いを過ぎらせた。
その反応が、生沢の警戒心を一気に限界まで引き上げた。
「そんなことは、俺は全力で阻止するつもりだがな。お前が具体的に何を企んでいるかは知らんが、もしクイーンに直接手を出すようなことをしてみろ。その時は、俺がこのプロジェクトを告発する」
これが生沢からの最後通告であり、大月に対する宣戦布告だった。
今まで作り出されたサイボーグたちを人間でなく、ただ出世のためのパーツとして扱って利用し尽くし、会社や自分の利益のためならどんな手段でも省みない。そんな上役についていくのは、もう限界だった。
確かに大月の手腕によってセラフィムグループ全体、及びケルビムにもたらされた恩恵は大きく、それはプロジェクトの末端の仕事を担う者にも反映されている。
しかしこれ以上彼女に従うことは、更に人道から外れた人体実験や生体改造を重ねることに他ならず、医師としての自分を完全に捨てることでもある。資金の目処がついたら小さな診療所を開き、貧困のために医者にかかれない人々のために働くという夢を持つ生沢にとって、それだけは今までの人生に誓ってできないことだ。
だが、プロジェクト内でも力の同僚に正面から裏切りを浴びせられても、大月の表情は怒りや恨みの色に触れることはなかった。
むしろ微笑すら浮かべている彼女は、氷の如き冷たさを視線に纏わせて生沢に返した。
「……そう。いいのかしら?息子さんのためにもならないと思うけど」
生沢の息が凍りつく。
プロジェクトを告発し全ての情報を白日の下に晒すということは、当然今までプロジェクトに関わってきた者全ても明らかにされるということだ。
そして、大きな瞳を輝かせて父と同じ道を歩みたいと願う息子にも、それは知られることとなる。
父がどんなに非道なことをしてきたのかを理解したとき、多感な年頃の少年の心にどれだけの傷を残すのか。想像するまでもないことだった。
大月がどこでそんな情報まで掴んだのかはわからない。
が、生沢に痛恨の一撃を浴びせたことは確実だった。
立ち尽くすしかない中年医師にはそれ以上目もくれず、言葉もかけずに、彼女は踵を返す。
女取締役がハイヒールの足音を響かせて、唇を噛む男を残し病室を後にした。
暫し棒立ちの姿勢になっていた生沢は、再び自分を落ち着けるために深く息をついた。
ベッドで固く瞳を閉じ、眠りについている未来の容態に変化がないことを確認してから、低く呟く。
「……こんなところでするべき話じゃなかったな。お前の意識がまだ戻っていないのが、逆に幸いだったか。とにかく、ゆっくり休め……お前にはいつも辛いことばかりを押しつけて、本当に済まないな」
生沢が未来の額をゆっくり撫でてやると、僅かに彼女の瞼が動いて震えた。
刺激にきちんと反応するところを見る限りでは、そろそろ目が覚める頃合いであろうと判断できる。
「HAR、未来が目を覚ましたらすぐにコールを入れてくれ」
『わかりました。先生、お疲れ様です』
HARが高い合成音で滑らかに応えるのを確認して頷くと、生沢は病室を後にした。
眠り続けている未来の閉じられた目の端から涙が流れ落ちたのは、彼が背を向けた直後のことだった。




