第70話
百倍程度に聴覚レベルを上げると、空気が流れる音の中に遠くなる足音がはっきり聞こえてきた。どんどん音自体が小さくなっていくため、断続的にレベルを上げ続けることになる。
一旦レベルを通常にまで戻し、彼女は報告した。
「方向は、私の左三〇度くらいかな。音の響き具合いからすると、いくつか枝道を抜けてるようだけど。まだ移動中みたい」
『了解しました。P2が入った枝道の二つ先にあるトンネルに入ってください。後の進路はこちらから指示します』
若い司令官から新たな指示が飛ぶと、未来は頷いてアサルトライフルをバックパック側面に取りつけ、走り出した。
二つ先のトンネルは、ここへ来るときに辿った道とは違う。P2の足音は感度を下げた耳には既に届かなくなっている一方、未来のチタンで覆われた足が立てる音は大きく轟いた。
トンネルに溜まった空気を切り裂いて進む未来に、リューが行動の意図を告げてくる。
『P2にとって一番厄介なのは、飛び道具の存在です。それを封じるために、恐らく外に出るつもりでしょう。こちらにとって最も危険なのは、地下から出たその時です』
「だから、追うなってことなの?」
『その通りです。先に地上に出れば、いくらでも隠れられるわけですから。先回りできるルートは残念ながらなさそうですが、敵が使ったのと同じ場所を進まなければ、罠や奇襲は避けられます』
未来が青き疾風となって暗闇を駆け抜ける間も、リューの説明は続く。
「っと!」
途中でもつれた足に何とか言うことを聞かせたとき、未来は思わず声を上げていた。
転倒しそうになっていた身体のバランスを取り直し、右足だけで大きくステップを踏んでから、左足の具合いに合わせて少し速度を落とす。
『また痙攣がきたか。大丈夫か?』
「うん。まあ、何とかね」
未来の身体をモニターしている生沢が気遣うが、彼女は言葉を濁していた。あまりに頻繁に襲ってくる発作に、神経を尖らせているのだ。
その証拠は脳血流モニターにも現れていた。
人間がストレスを感じている時は脳の前頭葉の働きが低下するため、血流量を示す色が青くなる。今はその典型的な図が見られていた。
「おい、未来はかなり苛ついてるようだぞ。まだ修正プログラムは完成しないのか?」
脳血流モニターを覗き込んでいた生沢が通信用レシーバーを外し、隣で必死の形相になって端末に向かっている杉田を見やった。
杉田は巡航ミサイルが飛んできたと知らされた時も、またそのミサイルが落下してスコーピオンの車体を揺るがした時も、全く動じていなかった。
と言うよりは、気にも留めていなかったのだろう。
早く、未来を忌々しい痙攣から解放してやりたい。
その一心でプログラムを修正し続けている杉田の集中力は、見上げたものだった。スロットで大当たりの目押しをやっている時の自分と同じくらいだろうか、と生沢が場違いな印象で感心する。
と、杉田が大きく息をついて肩から力を抜き、キーボードから両手を下ろした。自らの深呼吸にも負けたかのように、細身の上半身がふらりと傾く。
「おい、大丈夫か?」
「……あ……すみません……でも、完成しましたよ……」
慌てて生沢は後輩医師の肩を掴んだが、反対の手が思い切りその背中を叩いた。
「そうか!よし、よくやった!」
ばん、と上がった派出な音に、反対側にいたリューと大橋、榎本たちが一斉に振り返る。
杉田は背に激突した生沢の手の勢いに負け、顔から簡易机に突っ伏した。
その寸前で頭がキーボードをちゃんと避けたことに、生沢が溜め息を漏らす。
「おいおい、本当に大丈夫なのか」
「……はい。まだ、こいつを未来のSNSAにアップロードしなきゃならないんです。こんなことはしてられません」
疲労困憊した様子で顔色も悪い杉田が、ずれた眼鏡を直して半身を起こした。
一気に集中して作業したせいで、確かに精神力をかなり消耗してはいる。が、修正プログラムのアップロードを終えるまでは気を抜いてはならないのだ。
杉田の気力がまだ尽きていないことを見て取った生沢が、黙って通信用のレシーバーを杉田に手渡す。
杉田は自らの腕の重さを感じながらレシーバーをつけ、未来へと呼びかけた。
「未来、聞こえるか?待たせて悪かったね。ようやくプログラムの修正が終わったよ」
『本当?でも、杉田先生……具合いが悪そう。大丈夫なの?』
答えながらも、未来は足を止めない。まだ痙攣が尾を引いているのか戦闘中よりも重心が安定しないようで、視点カメラの中心がふらついている。
「ああ、全然平気だよ。これからアップロードするけど、モジュールの再起動が必要になる。ほんの二、三秒の間だけ、平衡感覚が完全になくなるんだ。だからできれば止まって欲しい」
修正プログラムは、未来の脳に埋め込まれているSNSAに無線でアップして更新する。
未来は少しでも早く地上に出たいだろうが、再びP2に接近してからだと、もうプログラムをアップする隙はない。タイミングは今しかなかった。
『それで、本当にちゃんと痙攣が治る?』
「治るさ。嘘だったら、僕の首をあげるよ」
杉田が不安そうな未来の質問にそう言い切ると、視点カメラに流れていた景色が不意に止まった。
『先生が首くれるのは二度目だね。でもダメだよ、そんなに安くないでしょ?』
立ち止まった未来の声は笑っていた。疲労が濃い杉田の口許にも、自然と微笑が過ぎる。
「おうおう、お前ら!そういうのは、二人の世界を作ってるんじゃねえぞ!」
場違いな、呆れるほど戦場にそぐわないほの甘さがある会話に、生沢が思わず野次を飛ばしそうになっている自分の唇をぐっと噛みしめる。
「……じゃあ、準備はいいかい」
『うん。お願い』
二人のやりとりは、サイボーグ手術の頃に頻繁に交わしていたものだった。
未来の杉田に対する信頼。
それがほんの少しだけ、乾いていた彼女の心を潤してくれたのだった。
数分の後、未来は再び太陽の光を浴びていた。
リューの指示の下に地下トンネルからの出口として選んだのは、侵入時とは異なる地下鉄駅である都営新宿線の神保町駅だ。P2たちのアジトがあったトンネル支線から本線へと戻り、そこから更に在来線へと上がって数百メートルは移動したことになる。
地上A2出口へのシャッターをリューがパスコードで開けてから、彼女は陽の下に出た。弾薬を補填し直したアサルトライフルの銃口を突き出しつつ階段を上がると、都内ではかなり大きな街道である靖国通りを囲んで建っているビルの姿が視界に入ってくる。
道路沿いでは、大きな窓が前面にある都市銀行や古風なつくりの古本屋と居酒屋、ファーストフードの店舗といったありふれた建物たちが澄んだ空気の中でひっそりと佇んでいる。
人が全くいないことを除けば、秋の空の下にある街の姿は普段と変わらなかった。
未来が聴覚の感度を最大限にまで上げるが、風とごく小さな機械の稼動音しか聞こえてこない。機械の稼動音は、屋内にある換気扇や冷蔵庫だろう。
P2の足音らしき雑音はなかった。
「……リュー、P2はどこに行ったと思う?」
『恐らく、近くに身を隠してこちらの様子を伺っているんでしょう。貴女が逃げれば街を破壊するつもりでいるんですから、そう遠くに行く筈もありません』
不気味な静けさに、未来の緊張は交戦していた時よりも強くなっている。攻撃されるのを待つ持久戦のような状況は、正直苦手だった。
『敵は飛び道具を装備していません。ですからそんなに目立つ場所には留まっていないでしょう。一番考えられるのは物陰に潜んでの奇襲ですが、この近辺では完璧に身を隠して襲いかかれる場所はありません。とりあえず、建物に沿って九段下方面に進んでください』
「了解」
未来はアサルトライフルの銃口を斜め下に下げ、靖国通りを首都高の高架が見える左方向へ向かって移動を開始した。
P2の逃走方向からすると、彼は地下鉄九段下駅から地上に上がり、そこで未来を迎え撃つ態勢になっている可能性が最も高いだろうという推測である。
P2は旧型とは言え未来を上回るパワーを持ち、装甲も頑丈な上に本来は優秀な軍人だ。こちらが強力な銃器を持っているからと言って、油断はできなかった。
「……まずいですね」
ビルの谷間でなるべく足音を忍ばせて進んでいるらしい未来の視点カメラ映像を見守りつつ、レシーバーを首にかけたリューが呟いた。
戦いの主導権は、大量破壊兵器を遠隔で操ることで、一般人や東京の街そのものを盾にしたP2へと移っていた。
彼と戦う未来、司令役のリューでさえ、この戦いが多数の犠牲者を出す大惨事となる結末に、一抹の不安と焦りを感じざるをえない心情だ。こちらのペースで戦闘を進められないのは明らかに不利だが、だからと言って焦ればもっと事態は悪化する。
ここから先は更に醒めた頭で戦況を判断すること、そして未来にも決して逸らぬよう自己抑制することが要求されるだろう。
そしてもう一つ、気がかりだったことをリューは未来に指示しておくことにした。
「地上戦になってしまったからには、街にある程度被害が出るのは仕方ありません。物理的な損害は後でどうとでもなりますから、迷わずに射撃を行ってください」
『了解。跳弾に自分が当たらないようにだけ、注意するから』
入り組んだ都心の路地を行く未来が応える。
その視界を、蒼いチタンの鎧に包まれた左脚が掠めた。
杉田が完了してくれたプログラムのアップデートは無事に終わっていたが、何かが違うかと言えば今のところ実感はない。ただ、痙攣発作がもう出ないのだから、P2と戦っている最中にその差は生じてくるだろう。
彼女がもうすんなりと言うことを聞いてくれるだろう左足に、意識を向けたその時だ。
ずっと高いままの感度を保たせていた耳に、金属がひしゃげるような異音が引っかかった。素早く音源である靖国通り向かいに建つ雑居ビル屋上へ、目線を移す。
途中、銀色の何かが空中で陽光を反射して鋭く光った。
未来の本能が身体を突き動かし、高く跳びつつ後退する。
上方から投げつけられた一メートルほどの金属棒がアスファルトの歩道を鋭い音と共に突き破り、一瞬遅れで彼女の影を縫う。
「上か!」
未来は槍のように投擲されてきた金属棒をかわしざま、ビルの屋上に人影を認めていた。路地裏に着地し、次の瞬間に建物の壁に向かってジャンプする。
そのまま路地を挟んで建つビルの壁へ跳び、狭い空間を三角飛跳びの要領で上がっていく。数秒で、未来は小さな五階建ての雑居ビル屋上へ到達した。
着地と同時に、金属棒を放ってきた人影の方へアサルトライフルを撃ち込む。
間違いなくP2だっただろう、人間にしては大柄過ぎるその姿を掠めもせず、銃弾は秋の空へと散った。そして彼女を嘲笑うかのように、派出な金属の足音が地上を打ち鳴らして遠ざかっていく。
未来は舌打ちしたが、相手が地へ下りた今、高所にいて銃器を構えた自分が有利なのは間違いなかった。射撃ポイントを確保するべく、勢いをつけて隣のビルへと駆け寄っていく。
『そのまま狙撃の態勢に持っていってください』
「言われなくたって、そうするよ!」
リューの通信に応えながら、未来は広くはない屋上の縁まで疾走した。コンクリートを蹴り、更に三階分高いビルへとジャンプする。
その短い滞空の間、彼女は先に投げつけられた金属棒の正体を確認した。
舗装道路を深く抉り、突き立っていたのは折れた避雷針だった。P2は、P1と戦ったときの未来と同じように、周囲の環境を利用して奇襲をかけたのだ。
「あんなものを投げてくるなんて……」
呟いた未来が、地上八階建てのビルに降り立って身を屈めた。
片膝をついた狙撃体勢になってからアサルトライフルを肩の位置に構え直し、サイトの位置を合わせる。そうすると、この銃が遠距離の狙撃にも使用できるバランスに優れた構造であることが実感できた。
更に未来は正確に足音の位置を測り、瞳のズームを絞る。
灰色の街並みの隙間に一瞬、黒く光る影が姿を現した。
敵の移動位置を見越した未来が息を止め、アサルトライフルのトリガーを絞る。
爆発音に近い銃声が遮るもののない青空を叩き、狙い定めた弾丸が空を切り裂いた。
しかし、凶弾が届く前にP2は路地へ再び身を隠した。目標を見失った弾がアスファルトに突き刺さるように、深い穴を穿つ。
数秒おきにP2が姿を現すその都度、未来は狙撃を繰り返した。
時には家屋を貫通させて不意を突き、足元、胴体、頭と狙いを変え、単発とバースト発射を織り交ぜる。未来が変化をつけて放つ弾丸は、それでも敵に決定的な打撃を与えるに至らない。
未来の耳には弾が装甲に弾かれる音は時折届いていたが、敵の身体を貫通した鈍い音は一度たりとも聞こえなかったのだ。
P2は、複雑な路地を選んで動いているようだった。小さな曲がり角に姿が見える時を狙って撃つにしても、僅かな隙しか見つけられない。彼は建物が密集する都会の特徴を見事に使い、味方につけているのである。
これ以上距離が開けば裏通り自体が建物に遮られて狙撃不可能になると踏み、未来はリューに告げた。
「靖国通りの反対側に行くから!」
言うが早いか、未来はアサルトライフルをバックパックに取りつけて助走もなしに跳び上がった。隣にそびえる一一階建てのビル屋上へふわりと着地し、今度は端まで勢いをつけて走る。鋭く空気を裂く鎧姿が宙へ飛び出し、また別のビルの屋上を蹴って跳躍した。
同じ要領で幾つものビルを渡るその度に、人の形をした金属が空中で輝き、ビルの谷間に鈍い光を投げかける。
彼女は靖国通りに面した白いタイル張りのオフィスビル屋上に降り立った。そこで一旦止まって足場を確かめてから、手摺りがついていないビルの縁へと駆ける。
先よりも速度を上乗せした身体が力強くコンクリートを踏み切って、二十メートル以上はある靖国通りを軽々と越えた。突っ込むように通りの反対に建つビルの屋上へ青い鎧姿が着地し、両足を踏ん張って余った勢いのブレーキをかける。
「……あっちだ」
跳躍の慣性を完全に削いでから聞き耳を立てると、未来の耳にまだ移動を続ける金属の足音が届いてきた。が、不意に音の質が変わり、広い場所で拡散するような響きが加わった。
P2はどこか開けた場所に足を踏み入れたらしい。
『この辺りには、たくさんの公共施設が集中してますね。P2はそこへ逃げ込むつもりかも知れません』
未来の考えを察したかのように、地図を確認したリューが伝えてくる。
確かにこの千代田区九段方面には、数多くの学校や病院、ホテル、大使館、劇場などが点在している。こちらの飛び道具を封じるつもりでいるなら、それらを利用しない手はないだろう。
司令部へ具体的な情報を伝えるべく、未来が答えた。
「P2の足音が変わったの。広い解放スペースがある場所に入ったみたい」
『どこか、庭がある建物に逃げた可能性が高いですね。とりあえずビルからは下りないで、近くに行ってみてください』
「了解」
頷いて、未来は若き司令に従った。ちらりと眼下の景色に目をやる。今いるビルの高さは三十メートルもない感じだろうか。駐車場に停めてある車は、ミニカーより大きく見えた。
会社の社屋らしいビル屋上の際まで軽く走り、隣の高いビルへとジャンプする。高く低く跳躍を繰り返し、青い鎧の女はビル群の上を跳んでいった。
P2の足音は、その間に更に小さくなっていった。建物の中に入ったのだろう。
未来は足音の質が変わったと思しきポイントへと急いだ。
同じような高さ、タイプのビルが密集している一区画の隅まで到達すると、ぽっかりと抉られたように大きな隙間が突然目の前に現れた。
ベージュやグレーといった落ち着いた色調の建物に囲まれるようにして、ささやかな花壇と植え込みを抱えた中庭が控えめな存在感を出している一角だった。一見すると他のビルと同じに見えるものもあれば、恐らく所有者の方針に従って建てられているのだろう、直線的で歪な陰影を作り出す独特の構造をしたものや、モダンな石造り風のそれもある。
中庭の奥に位置した図書館らしき建物に金属のシンボルが掲げられ、時計がその側に配置されているところを見ると、この近辺に数多くある大学の一つなのだろう。
都会の中にひっそりと佇む学び舎には基本的に狭い場所の方が多く、隠れる場所は無数にある。飛び道具を封じるなら、絶好の場所だ。




