第6話
共同研究室で不毛とも言える話を続けていた杉田と大月は、駆け足で通り過ぎる人の足音が廊下から何度も聞こえてくることに気がついた。この研究室は比較的防音がしっかりしている筈なのに、どういうことかと二人は思わず顔を見合わせる。
「……何でしょうか?」
数秒間だけ会話を中断しただけなのに、誰かが口々に話している声までが聞こえてくる。
杉田が怪訝そうな顔をするのを尻目に、大月がつかつかと自動ドアに歩み寄ってロックを解除した。
途端、廊下の喧騒がどっと室内に流れ込んでくる。ホワイエに通ずる狭い廊下には立ち止まって話をしているスタッフが大勢おり、誰もが困惑した表情を隠せていない。
「騒がしいわね。何かあったの?」
そのうち、杉田と同じ年頃の若い男性スタッフを大月が捕まえた時だった。
急ぎ足で歩いてきた生沢医師が、杉田の目の前にぬっと姿を現した。
「杉田か。丁度いい、お前も来い」
「ちょ、ちょっと!生沢先生?」
そしていきなり皺のない白衣の襟をひっ掴み、そのまま引きずるように連れ出していく。全く歩みを止めることなく引っ張っていく生沢に抗議する間もなく、杉田は強制的に連行されることとなった。
自分たちの後ろからも、更に二人の若手スタッフが小走りについてきているのがわかる。これだけの人手を必要としているのだから、何か緊急事態が起こったのであろう。
ホワイエまで来てから、生沢はようやく杉田の白衣から手を離した。若き医師は軽く溜め息をついてから持って行かれていた上半身の乱れを直し、改めて生沢に尋ねる。
「一体何があったって言うんです?」
しかしその間も、足は止めない。
生沢は野次馬と指示を待っているらしいスタッフをかき分けて、セキュリティブロックに続く鉄の自動ドアへずんずん進み続けていた。
「患者が目を覚ました。それはいいんだが、錯乱状態に陥っているらしい。めちゃくちゃに暴れて手がつけられんそうだ」
「えっ!でも彼女は、まだ自分の身体を扱う術を知らないのに。それで暴れられたら……」
杉田が傍らで驚く間に生沢がドア脇のパネルを開け、暗証番号を打ち込んでからセンサーに指紋を読み取らせる。
未来の四肢は一度切断され、現在はこの研究所内にある培養漕で改造作業の真っ最中だった。改造完了後は再移植される手筈になっているが、その間は不自由しないよう、既に最新型の義手と義足を装着させてある。
しかし何の予備知識もなしに金属の手足を見てしまった場合、彼女がパニックに陥るのは想像に難くない。その上義肢とは言え、改造後の感覚に早く慣れてもらうためにパワーが最大の出力になっているのだ。それで暴れられたら、病室の一つや二つはいとも容易く破壊されてしまうであろう。
ロックが解除されたドアが自動で横に滑るのももどかしげに、生沢と杉田がセキュリティブロックの廊下に通ずる隙間へと身体を滑り込ませる。
事情を知る数人のスタッフも後に続いていることを気配で感じながら、生沢は手にしている医療器具の入った小さな鞄に意識を向けた。
「まあ、部屋はぶち壊されるだろうな。しかし今はまだ、バッテリーユニットがない状態だ。すぐエネルギー切れを起こして動けなくなるだろう。そうしたら、鎮静剤を打って一度落ち着かせた方がいい」
「そんな、動物みたいなことは……」
生沢が持つ鞄には、既に鎮静剤の注射器が準備してあるのだろう。
思わず数人で寄ってたかって未来を押さえつけ、無理矢理薬剤を投与する様子を想像した杉田が反論しようとしたが、先輩医師の発する厳しい声が上から被せられた。
「患者の心を守るには、そうするのが最適だ。いい加減にお前も納得しろ」
立ち止まった生沢が、次のセキュリティドアに取りつけられた静脈認証パネルに掌を押し当てる。先を急ぐ彼の歩みはその一瞬しか止まらず、隣にいる杉田への言葉もまだ続いていた。
「あの子が意識を取り戻して、いずれこうなることはわかっていた筈だ。時間をかけて、本人にも現実を受け入れてもらう他はねえ」
「命を救うためには、サイボーグの被験者にするしかなかったということを……ですか」
杉田の歩調は、重い口調とは裏腹に次第に早くなってきていた。前を行く生沢の早足にそうしなければ置いていかれるからだが、そのせいで気持ちまでもが焦り始めているようだった。
が、患者の部屋に行き着く前に肚を決めねばならないのは同じことだ。
気づけばもうう第三のセキュリティドアに辿り着き、生沢が虹彩認証用のスコープを覗き込んでいる。すぐさま厚いスチールのドアが開くと、殺風景で短く、窓もない廊下の終点に最後のドアが行く手を阻んでいるのが見えた。ここを抜ければ、未来のいる病室の前まではもう十メートルもない。
「説明すればきっとわかってもらえる筈だとか、妙な期待は持つなよ。俺たちはどんな謗りも、甘んじて受けにゃならん……そういうもんなんだ。自分からそういう道を選んだからにはな」
「……はい」
壁の小さなパネルに右の親指を押し当てて暗証番号を打ち込む生沢が、ちらりと杉田へ視線を向けてからロック解除を完了させる。髭面の医師が諭すように言ってきたことにぐうの音も出ない杉田は、覚悟を決めるしかなかった。
しかしそれも、ドアを開けた途端に漏れてきた泣き声に早くもぐらつきそうになった。
若い女性とは思えない、呻き声を連想させる低いすすり泣きだ。時折混ざる嗚咽が、息を詰まらせているかのような喘ぎにも聞こえる。
ここまで苦しみが滲み出た泣き声を、杉田は聞いたことがなかった。胸の奥を抉られたかと思うほどの痛みを覚え、つい怯んでしまいそうになる。
だが前を行く生沢の背が、彼の弱気を許すはずがない。その着古した白衣の後ろ姿からわかるのは、若き男を励ますのではなく、情けなさを嘆いている気配だ。
そんなことでは、これから先もこの患者を診る資格などないと。
生沢は患者の気持ちを受け止め、苦しい時間を共に生きることこそが医者のつとめなのだと常々語っている。
臨床現場から長らく離れていた杉田にとって、それは高い要求かも知れなかった。
それでも、医学を志すきっかけを作ったのがそもそも何だったのかを思い出せば、乗り越えなければならない壁だということは言うまでもない。
旧き友の嬉しそうな笑顔を思い描いた杉田は短く息を吸うと、半機械となった娘が嘆きの叫びを上げ続けている病室へと足を踏み入れていった。
処置は思ったより手間取らなかった。
未来は病室のベッドと壁、点滴台などを手当たり次第に破壊した直後、まっすぐに座れなくなるほどに消耗して、床に倒れ込んでいたのだ。疲弊した身体を押さえつけてくるスタッフに抵抗する力も使い果たした彼女は、震えながら泣いているところに肩へ鎮静剤を注射され、たちどころに声も上げなくなった。
ぐったりとした未来を男性スタッフ六人がかりで他のベッドに移し、ほどけていた頭の包帯を巻き直したのが、つい十分ほど前のことである。移植した人工パーツと義肢のせいで体重が九十キロを越えた身体を抱え上げるのは、なかなかに骨の折れる仕事であった。
「落ち着いたようだな。覚醒レベルは下がっちまったが、手始めに説明するにはいい機会かも知れん」
ほっとしたように、生沢が大きなガラス窓の向こう側を覗き込む。
その向こうは薄暗く照明を抑えた部屋になっており、新しく点滴を投与された未来がベッドに寝かされていた。彼女は暴れる前と同じく、顔の左半面が包帯で覆われた姿になっている。
先と異なるのは、開かれた片目がぼんやりと天井を見つめているところだろう。その顔に、強い感情はもう宿っていない。鎮静剤の効果で、精神活動が鈍っているためだ。
すっかり気力を失った未来の姿を見て、杉田がおずおずと口を開く。
「あの……」
「何だ?」
「僕に、患者と話をさせてもらえませんか」
杉田からの申し出に、生沢が意外そうな顔をする。
確かに、未来を刺激の少ない新たな部屋に移した後に説明を行うと、先程決めたところではある。ただその役目を誰が負うか決めていなかったし、引っ込み思案な杉田が自ら申し出てくるとは思っていなかったのだ。
驚きつつも何も言わずに見返してくる生沢の視線を受け、杉田は続けた。
「彼女は、これから僕と生沢先生でずっと診ていくんです。けど僕は、まだまともに話をしたことがないから……」
「難しいぞ。やれるか?」
「やってみます。どうしようもないと感じたときだけ、サポートをお願いしたいんです」
頷いて答える杉田の目に、迷いは見えない。
その手で患者の状態を見、手術での治療を施し、診察を続けることで、ようやく相応の責任感が出てきたのかもしれない。
杉田と生沢を取り巻く環境は、未来という実験体が患者として運ばれてきたことで、僅か数週間前とすっかり様変わりしていた。今まではいつ現れるかわからないサイボーグ改造手術の被験者のため、研究ばかり続ける日々が年単位で続いていたが、それが突如として動き出したのである。
根っからの研究者で臨床現場から離れていた杉田にとって、恐らく未来が初めての患者だと言えるのであろう。彼女と正面から向き合おうとする後輩の姿勢は、生沢にとって喜ばしい成長の兆しであった。
勿論自分が脇を固め、支えてやらねばならないことは明らかであったが。
生沢は、小さく息を吐いて言った。
「……わかった。やってみろ」
「ありがとうございます」
良くも悪くも若い杉田の真摯さは、返されてくる真剣な表情にも表れている。
白衣の胸ポケットにペン型のボイスレコーダーを差し入れた生沢が、説明用資料のページを開いたタブレットを杉田に手渡すと、彼は軽く頭を下げながら受け取った。
そのまま隣室へ続く自動ドアの前に立つ杉田が、下がってもいない眼鏡を緊張した手つきで直す。その後ろに従って薄暗い部屋へ入った生沢は、ベッドに横たわる未来が目立った反応を示さないことを確認して肩の力を少し抜いた。