第52話
未来の激しい動悸は治まりつつあるようだった。
しかし、まだ指先の震えと言いようがない不安感、目眩は残っている。視界が揺れて吐き気もあり、荒い呼吸は未だに続いていた。
「どうしたの、私の身体……」
ビートルの運転席でハンドルに上半身を覆い被せた未来は、手の甲で額の冷や汗を拭って呟いた。
こんなことは初めてだった。
皆の発言を会議室で懸命に聞いているつもりだったが、突然心臓が早鐘のように激しい鼓動を刻み始めてからは、内容を殆ど記憶できなかった。大月に質問されて自分も何か言ったことは覚えているものの、何を言ったかまでは思い出せない。
それよりも、突如として狂った心臓の方が気になっていた。杉田は脳の装置に異常があると言っていたが、他の移植部品にも不具合があるのではないか?
胸を押さえ直した未来が表情を曇らせた時、ビートルの窓を誰かが叩いていることに気づいた。
顔を上げると、心配そうな顔の杉田が覗き込んでくる様子が視界に入ってくる。
「大丈夫か?急に具合が悪くなったようだけど」
「平気だよ、もう落ち着いたから」
ビートルの窓を開けた未来は、もう一度冷や汗を拭って杉田の顔を見上げた。
「何があったんだ。詳しく説明できるかい?」
「……何か、急に心臓がどきどきして。どうにもならなかったの」
身体の力を抜いて、未来がシートに背を預ける。彼女は感じたままのことを若い医師に説明すると、最後につけ加えた。
「こんなこと、初めてだよ。もし戦闘中にこんな状態になったら、私……多分、P2に一撃でやられちゃうよ。ねえ、杉田先生。本当に脳の装置がおかしいだけなの?他にもまだ故障した部品があるんじゃないの?」
不安げな未来に、杉田は頷いた。
「わかった。今すぐ、全身のチェックを含めたメンテナンスをやる。昨日の分がまだ持ち越しになってるからね。何かあれば、その場で処置するようにしよう」
強い口調の杉田に、未来は安心したような顔を見せた。
二人は一階の会議室には戻らず、各種検査室と診察室が集中する二階へと直行した。
簡単に健康状態を確認してから心電図や血液検査をし、レントゲンを撮影した後にMRI、CTスキャン等の大がかりな装置を用いた検査を進め、最後にメンテナンスを実施する予定でいる。
未来が検査着に着替える間、杉田が生沢へ経緯を電話で報告すると、生沢もミーティングが終了次第検査に立ち会うとのことだった。
「うーん……」
CTを操作する杉田が、助手から受け取った心電図とモニターに表示された図を見比べながら唸っていた。彼がいる操作室と未来が横たわっているCTスキャン装置本体の部屋はガラスで仕切られており、その細い身体の断面図がモニターに次々と現れては消えることを繰り返している。
「どうだ。何か見つかったか?」
そこへ、ミーティングを終えた生沢が入ってきた。困り顔の杉田が、大きな手に心電図のプリントを渡す。
「いえ、何も異常がないんです。さっきはあんなに苦しそうだったのに」
「ふむ。詳しい症状を俺にも説明できるか」
無精髭だらけの顎を撫でながら、生沢が心電図の波形に目を通す。未来の症状について杉田が説明する間も、太い指が硬い髭を弄り続けていた。
一通りの話が終わってから生沢が漏らしたのは、興味深い発言であった。
「突発性の動悸と呼吸困難に不安感、目眩、発汗。しかし、関係すると思われる器官に検査での異常所見はなしか。同じ症例は、救急センターでもたまにあったな」
「え、本当ですか」
「ああ、パニック発作ってやつだ。精神疾患の一種だよ」
生沢が言葉を切って心電図を杉田に返し、ガラスの向こうにいる未来を見やった。規定枚数のCTスキャン画像を撮影し終えた未来がこちらに手を振り、生沢と杉田が応える。
「こういう発作がある日突然起こり、驚いた患者は救急車を呼ぶ。ところが搬送された頃には症状が収まって、検査をしても異常がない。そうしたことが繰り返されるうちに患者はいつまた発作が起きるか怯え、そのうち日常生活にも支障をきたすほどになる」
MRI検査室に移動する間も、生沢の説明は続く。杉田と二人で操作室に入ったときにはもう、未来が装置の中にいる状態だった。彼女も検査に慣れてきているのだ。
「じゃあ、未来はやっぱりストレスにやられて?」
杉田が眉根を寄せたが、生沢は首を振った。
「いや。器質的な問題に伴うものの可能性が高いな」
MRIが特有の騒々しい駆動音と共に動作を始めると、二人の医師の前にあるモニターにモノクロの画面が映し出された。杉田がコントロールパネルで細かい調整をすると、未来の身体の深い断面までが精密な画像で再現され始める。
MRIは身体に金属があると正確な画像が出ない、装置の誤作動を誘発する等の欠点があるため、よほどのことがない限り使用しない装置だ。
サイボーグである未来には当然、最小限ながらも一部金属が使用されている箇所がある。それでも強烈な磁場による不具合を生じさせないのは、新開発の素材を使用して金属部品をコーティングしているからで、セラフィムグループが心血を注いだ研究の結果と言えよう。
これは、医療やエレクトロニクスの分野において大いに期待がされているものでもあった。
「未来の血中セロトニン量は下限ぎりぎりの値だろう。パニック発作は、セロトニン量にも密接な関係がある。確かに未来は重いストレスに晒されたが、数日でここまで状態が悪化した。単純なストレスの影響だけでこんなに進行が早くなるとは、ちょっと考えにくい。うつ病にしたって、発症には普通数週間はかかるからな」
「SNSAの誤作動が関係しているかも知れないと?」
内臓や各種パーツの動きをリアルタイムの画像で確認しながら、杉田は先日生沢に注意を受けた仮説のことを思い出した。
「お前に話を聞いたときはそう思えなかったんだが、流石にこれは疑わしい。原因の特定と、具体的にどんな誤作動があるかの調査を急ぐ必要があるな。脳内物質のバランスが極端におかしくなれば、他の精神疾患も誘発するかも知らん」
生沢も頭を掻きつつ、モニターの画像を覗き込んだ。ぱっと見た感じでは、やはり主要な器官に明らかな異常は見受けられない。
「でも、未来がそれで納得するかどうかが問題です。SNSAの誤作動が原因なんだとしたら、それを直すまで悪化の一途を辿るわけですし……それに、きちんとした治療も必要になってきます」
生沢と並んでMRIの画面を見つめる杉田は、今後のことを考えつつ眉根に皺を寄せた。
いくら外的素因によるものだとは言っても、普通は自分が精神を患っているとは認めたがらないものだ。加えて、未来は自分の弱さを毛嫌いしているきらいがある。パニック発作について、杉田や生沢の説明を素直に受け止めるとは思えないのだ。
「そこなんだよな。原因は器質的なものだとしても、俺もお前も精神系疾患は専門外だ。症状を抑える薬を処方できねえし……かと言って、原因を根絶するまでの間、一般の病院に行かせるわけにもいかねえ。情報流出に関してはグループ全体が神経を尖らせてるせいで、提携病院での受診も無理。どうするのが最善か……」
「生沢先生。この件に関して守秘義務を死守するという誓約書を出しますから、僕に任せてくれませんか」
呟くように言った生沢の隣で、一通り取り終えた画像データのファイルを外部メディアに保存した杉田が顔を上げた。
「そりゃ構わんが、何をするつもりだ?」
「僕が何とかします。このままここであれこれ考えてても、始まりませんしね」
「何か方法があるならそれに越したことはないが、厄介な状況になってきてる。それをきちんと理解した上で動くなら、最大限の協力は惜しまんが」
MRI装置の内側から出てきた未来へ、ガラス越しに合図を送った生沢の表情は硬い。一通りの検査を終えた未来に、メンテナンス室に向かうよう指示したのだ。
「さっきのミーティングでの決定事項だがな。作戦の決行は、二週間後の一一月五日だ」
「そんなに早く?痙攣発作の原因特定もまだなのに」
ぎょっとする杉田は、つい咎めるような口調になるのを隠せない。
「それまでに何としてでも治せとのお達しだ。未来は覚えちゃいないかも知れんが、単独での奇襲を可能だと答えちまったのがまずかったな」
「そんな!さっきの様子じゃ、未来が正常な判断ができなかったことぐらい、誰だってわかるはずじゃありませんか」
杉田は生沢に尚も食ってかかるが、溜め息混じりの先輩医師は苦々しい顔をするばかりだ。
「そんなのが大月にゃ通用しないことは、お前だってわかってるだろ。とにかくそれまでに未来を何とか戦える状態に回復させて、無理な部分は俺たちがサポートする。それしかない」
何と言っても、大月はAWPの最高責任者だ。セラフィムグループのトップに近い立場であることを利用して、もう稟議を通している頃かも知れなかった。
「それよりも、そんなことを未来に話して納得させられるかどうかの方が問題だ。やっと抑鬱から抜けてきたあいつにそんなことを伝えれば、今度こそ心が折れるかも知れんぞ」
隠していても何もならないと判断した生沢は、淡々と現実を伝えてくる。
自分が考えていたよりもずっと悪い状況に、杉田は言葉を失いかけた。
が、今自分にできることが限られていることに変わりはない。その僅かな隙間で、最大限の努力をせねばならないことも同じだ。何を迷う必要があろうか。
「……それでも、未来のために動くことは変わりありません。僕にできるのは、彼女に一人でも多くの理解者を作って、味方を増やしてやることなんですから」
その決意を口に出した杉田は、装置の後処理をする生沢に顔を向けた。
そして、素直に頭を下げる。
「そのためには、現場責任者である生沢先生の力が不可欠です。面倒なことを色々とよろしくお願いします」
「おいおい、俺を巻き込むのは決定事項なのかよ」
言いながらも、生沢は何事かを思いついた悪戯小僧の表情になっている。
「まあ、そこまで図々しくなれるぐらいに成長したお前の顔を立ててやろう。大月を誤魔化すような書類とか、手続き関係は任せとけ」
にやりと笑った髭だらけの医師は、後輩の背中を鈍い音が上がるくらい力を込めて叩いた。




