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第5話

「……ん……」


 溜め息のような吐息に、掠れた声が乗っていた。

 それが自分の上げた呻きなのだと気づくのに、未来は数秒の間を要していた。

 うっすらと目を開けると、白い天井から降り注いでくる蛍光灯の灯りが瞳の奥を刺激してくる。眩しさに思わず目を細めたが、不思議なことに、狭めた筈の視界からは明るさが減っていない気がした。


 未来が何も考えずに視線を辺りに巡らせると、すぐ側に高く歪な電子音を発するワゴン型の機械が置かれ、その隣のスタンドから何本もの点滴がぶら下がっているのが見える。

 そしてそれらが全て自分の顔よりもずっと高い位置にあることから、ようやく自分がベッドで仰向けに寝かされていることがわかった。


 ここはどこなんだだろう?

 いつの間にか寝ちゃったのかな?


 まだぼんやりとした頭で、浮かんでくるのは疑問ばかりだ。

 しかし、自分のいる空間を映し込むだけだったの頭の中に、最後に見て聞いたものの記憶が次第に蘇ってくる。

 若者たちの絶望と悲鳴に満ちて真っ逆さまに落下するバスと、激しい衝撃。そして、救急隊員と思しき男たちの顔。

 その後のことは、よく覚えていない。誰かが話しかけてきてそれに答えようとしていた気もするが、夢の中の出来事なのかも知れなかった。


 あの事故の時に救助されていたのだから、多分ここは病院のベッドなのだろう。ベッドの周囲に仕切りのカーテンがないところを見ると、個室のようだった。

 普通は目が覚めたらナースコールで誰かを呼び、意識が戻ったことを教えるものだ。少なくとも、未来が以前急性胃腸炎で入院したときの病院ではそうだった。


 枕元にあるだろうスイッチを探ろうと、右手を持ち上げる。

 すると、奇妙な金属の軋みが聞こえた。

 同時に未来の視界の隅へ、銀色の塊が入ってくる。


「あ……れ?……」


 呟こうとして、痰が喉に絡んできた。

 軽く咳き込みながら口を覆うと、口許に冷たいものが触れた気がした。

 思わず手を離す。

 目の前に、本来あるべきものはなかった。


 ピンク色の爪がついた、血の通った手がなかったのだ。

 思うように動かせるのに、全く感覚がない指先。

 全てが金属の、一本一本の指が精巧に作られた手。

 未来の手は、義手になっていた。


「え?」


 意味がわからず、彼女は思わず驚きの声を漏らす。

 半身にかけられていた毛布を急いでどけようとすると、目の前に持ってきた左手までもが右手と同じ義手にすり替わっていたことに気づかされた。


 人間のそれでなく、ロボットのアームさながらに鈍い輝きを放つ両手。

 意識せずに軽く拳を握ると、かしゃんと耳障りな音を上げて掌と指先がぶつかった。

 両手とも、確かにきちんと動かせる。しかし、自分の体温や着せられている入院着が触れている感覚は全くない。


 身体の運動に感触が伴わないという異常事態は、未来を混乱させた。生まれてから一度も味わったことのない違和感で、未来の背中にぞわりと鳥肌が立つ。


「何、これ……これが私の、手?」


 自らの意思で握っては開くを繰り返す手を見つめつつ呆然とこぼしてから、彼女は半身を起こし毛布を片手ではねのけた。


「く……!」


 途端、強烈な目眩が襲ってきた。まるで頭を掴まれて激しく揺さぶられているかのように世界が回って、たちどころに身体の在処がわからなくなる。

 気持ちの悪さで呻いた未来はたまらずベッドに肘をついて、起き上がらせた上半身を再び横倒しにする羽目となった。

 その時、思わず曲げて立てていた膝が視界に入ってくる。


 自分の足を映した彼女の瞳は、今一度大きく見開かれた。

 程よく引き締まった、若い女に特有の張りがある肌を持つ、見慣れた足はもうなかった。

 あるのは、両手と同じように重い輝きを放つ、精巧な義足だったのだ。

 身じろぎするとぎしり、と生身の人間からは決して上がる筈がない、嫌な音が漏れ聞こえてくる。自分の早まる鼓動との不協和音に、霞がかっていた頭の中が一瞬ではっきりさせられた。


 あの事故で、自分は四肢を失った。

 昏睡の後の悪夢が続いているのだと思い込もうとしても、冷たい義肢の非現実感は、皮肉にもそれが事実であることを主たる身へと伝えてくる。


 信じられなかった。

 信じたくなかった。


 毎朝、自分の手で顔を洗う水の冷たさを感じることもできなければ、夏の陽射しに焼けた砂浜を裸足で踏みしめて、熱さに飛び上がることももうできない。

 ついさっきまで当たり前だったことが、これから何一つできないのだ。

 冷たい汗がじわりと背中に吹き出し、滝と化して流れているのがわかる。

 なのに肩はぶるぶる震え、未来は心の中までが凍りつくほどの寒気に襲われた。


「そ……んな……」


 めまいから回復し、青ざめた唇から彼女がやっと絞り出すことができたのは、あまりにも辛い現実を認めたくないという絶望を映し出した一言だけだった。

 事故からの生還を喜ぶ間もなく突きつけられた惨い現実に、未来の本能が反応する。


 逃げなければ。

 とにかく、ここから逃げなければ!


 脊髄反射に近い思いつきに突き動かされた未来が、今一度半身を起こしてベッドの柵を掴む。そのまま身体を支えて立ち上がろうとしたとき、彼女はまたしてもバランスを崩して倒れそうになった。

 ただし今度はベッドの上でなく、床の上にである。

 鉄製のベッドの柵が、どういうわけか全く体重を支えてくれなかったのだ。


「きゃ!」


 小さく悲鳴を上げ、未来が慌てて床に手をつく。何とかどすんと尻餅をつくだけで済んだが、握った筈の柵がきちんと握れずに倒れてしまったようだった。

 今度こそちゃんと掴まって立ち上がろうと、ベッドの柵へ伸された義手の動きがふと止まる。


「え、嘘……これ、今ので?」


 床にぺたりと座り込み、愕然として腕を下ろす未来の見つめる先には、ベッドサイドから下がる奇妙な鉄塊があった。

 辛うじて折れていなかったそれは、飴細工のようにひしゃげたベッドの柵のなれの果てだ。立ち上がろうとして、自分がぐにゃぐにゃに曲げてしまったのだ。


 これはどういうことなのだろう。

 義手になった腕が、鉄の柵をやすやすと破壊してしまうほどの力を持っているというのか。

 意識を失っている間に、自分に身体に一体何が起こったというのか?

 もしかして、腕と足以外にも異変が起きているのではないか?


 そこまで考えて、未来は悪寒に近い戦慄が走り抜けるのを感じた。

 彼女は先に倒れた際に咄嗟に瞑った目にも、少なからず違和感を覚えていたのだ。確かに両目をしっかりと閉じてしまった筈なのに、完全に視界が暗転しなかったのである。

 ふと室内を見回すと、隅の方に壁に据え付けられた鏡と簡素なシンクがあるのがわかった。

 よろよろと立ち上がり、感覚のない金属の足を引きずって鏡の前へと向かう。顔の高さで固定された鏡の前に辿り着く間に何本もの点滴やカテーテルが抜け、監視機器がやかましいブザーを鳴らしていたが、そんなことを気に留めている場合ではなかった。


 未来が恐る恐る覗き込んだ鏡の中に現れたのは、顔の半面に白い包帯が巻かれた顔だった。右目と鼻、口許を除いた全てが隠れているが、露出している皮膚には特に傷がないように見え、顔の印象も事故前と変わりがない。

 しかし彼女はためらいながら金属の指先を包帯にかけ、あとは一気に引っ張っていた。

 たちどころに傷を保護していた布が解け、隠されていた頭の大部分が露になる。

 ひやりとした空気の流れを感じた頭に、肩の下まであった髪の毛は一本も見当たらなかった。ただこれは髪が燃えたか、あるいは頭の傷の治療のために剃られたのだとしたら仕方がない。


 それよりも問題なのは、大きなガーゼが当てられた左半面だ。

 未来が唾を飲み込んで、強いまばたきを意識してやってみる。やはり、ガーゼの下にある左目が動いているという実感はない。


 もし顔にまで何かされているのなら、目にしたくはない。

 しかし、自分の身に何が起きているのかを確かめねば気が済まない。

 胸の中でせめぎ合う二つの気持ちに、彼女の心は激しく揺れる。

 一方で、ガーゼの端にかかった義手の動きには逆らうことができなかった。

 医療用テープで固定されていたガーゼが金属の指先に引っかかり、引き剥がされて床に落ちる。


 白く目の粗い布の下から現れたのは、金属と思しき板に囲まれた、剥き出しの眼球だった。

 眉の下から鼻の近くまで皮膚がない、骸骨と同じ顔。

 目の位置にあっても瞼に覆われていない、白い球状の眼球。

 不気味とも言える湿った輝きのあるものが、未来の頭蓋の窪みにあった。

 それが人間の眼球ではなく、硬質な光を持つ義眼であることはすぐにわかった。


 左目の視力は損なわれていない。

 それでも機械式の虚ろな瞳が金属製の骨に埋め込まれ、鏡の中から見つめ返してくる光景はとても自分の身に起こったと思えない。

 しかし、工場から脱走してきた作りかけのアンドロイドもかくやと思える姿が今の自分、未来の紛れもない姿なのだ。彼女が義手を上げれば鏡の中のグロテスクな疑似生命体らしきモノも同じ腕を上げ、視線を動かせばよそ見をする。


 至極当然な現象だ。

 自然のものと言うべき出来事が、未来を陳腐なSF映画の世界から残酷な、あまりにも残酷な事実が待ち構えている現実へと叩き返した。

 鏡に映る、髪と顔の左半分がない醜い何かは自分なのだ!

 驚きと激情で歪んだ顔を覆うように、金属の両手が触れる。


「あ……あ、ああ……!」


 まだ若い娘の口から漏れるのは、千々に乱れた息と苦しげな喘ぎだ。

 胸が鋭く激しい痛みに襲われ、呼吸することすらままならない。目の前がふっと暗くなり、意識さえ遠のいていく気がする。


 これは自分が人間であることの証しであり、ショックを受けたことに対する生理反応だ。

 だが、義手の冷たい指先が顔に触れてきりきりと軋みを上げるたびに、嫌でも自分が半機械になっていることを感じさせられる。


 ……嘘だ。

 こんなのは私じゃない。

 私はごく普通の、本当に普通の人間だった筈なのに。

 身体が、お化けみたいになっただなんて--!


 恐怖。悲しみ。嫌悪。

 自身に対する負の感情が心の底から噴き出して、未来の全てを飲み込もうとする。

 直前、最後に残された理性が断末魔の絶叫を上げ、彼女は黒く冷たい濁流の渦に突き落とされた。


「や……だ……い、や……やあぁぁぁぁぁああああ!」


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