第49話
「紅茶、淹れたから。砂糖は?」
「私はストレートでいいよ」
黒い小さなダイニングテーブルで待っていた未来が、キッチンにいる杉田から金属のマグを二つ受け取り、続いてシュークリームの箱を受け取る。テイクアウト用の紙箱を開けていると、陶器の白い皿とデザートフォークを持った杉田が戻ってきた。
号泣していた未来が落ち着いたのは、一時間程度後の話だ。
思い切り涙を流したことで心が軽くなったらしく、少し何か胃に入れたいと言うので、杉田が買ってきたシュークリームを食べることになった。が、数日間ろくに栄養を摂っていなかった未来はロフトから降りる足取りもふらついていて、見かねた杉田が準備を替わったのだ。
空の胃にコーヒーは刺激が強いため、キッチンの棚にあったティーバッグで二人分の紅茶を淹れている。未来と杉田は、ピンクのミニブーケを間に挟んでダイニングテーブルに座った。
「美味しい。駅で売ってるやつだなんて思えない」
皿に出したシュークリームを齧った未来が、指についたカスタードクリームを舐めて微笑む。
「良かったよ。やっと笑ってくれて」
安心した杉田が、思わず安堵の溜息を漏らした。精神が参っているときは、やはり甘いものに限る。シュークリームの柔らかい甘さと温かい紅茶が、未来の心をそっとほぐしてくれたようだった。
「泣いたら、何だかちょっとすっきりしたみたい」
未来は一瞬口ごもり、照れたように呟いてからシュークリームを齧り続けた。
「何でも溜め込み過ぎるのは良くないよ。どんな悩みでも、誰かに話すだけで気は楽になるものなんだし。誰か、悩みを相談できるような人はいないのか?」
「……そんな人がいれば、今頃こんなことになってないよ」
「確か、一親等内の身内にはある程度のことを話してもいいことになってるだろ。お母さんとか、兄弟は?」
「お姉ちゃんはもう結婚して子どもがいるから、こんなことにはとても巻き込めないよ。父さんはとっくに再婚してるし、お母さんは……あんまり相談したくない、かな」
熱い紅茶を一口啜った未来の表情が、そこで曇った。杉田の脳裏に、そこはかとなく似た面影がある未来の母、恵美子の姿が横切る。
「お母さん、昼間ここに来てたんだろ。廊下で会ったよ。大月さんが挨拶してたみたいだけど」
「え……お母さん、大月さんと会ったの?うわ、最悪」
残っていたシュークリームを一息に飲み込んで、未来は吐き捨てるように言った。紅茶を飲んで喉を潤し、杉田の顔から目線を外す。
「あの二人、似たもの同士だからさ。下手に意気投合されたら、今まで以上にうるさくなりそうで嫌なんだ」
「お母さんと大月さんのどっちが?」
「両方。お母さん、私がいいって言ってるのに……今日も勝手にここに上がりこんで、掃除してったんだよ」
それが、この部屋がきちんと片付けられていた理由だったのだ。未来はむっとした表情で、塵一つ落ちていない濃色のフローリングに視線を落としたまま続けた。
「一週間くらい前に電話で喧嘩してさ、今日の午前中にいきなり来られちゃってね。私がこんな状態になってることにびっくりしてたけど、まず部屋が汚いって怒られたよ」
「やっぱり、相当散らかってたのか?」
「うん。ここ何日かは、トイレとお風呂に行くだけでやっとだったから」
杉田が紅茶のマグを持ち上げる様子をちらりと見てから、未来は部屋全体を見渡した。
「ゴミ捨ても洗濯もできないし、出したものをしまうこともできなくて……足の踏み場もない感じだったの。で、お母さんが片付けてる間も、私はやっぱり動けなくて。あんたも手伝え!ってまた怒られてさ。ロフトからは絶対に下りない!って思って、梯子を下に落としたんだよ」
確かに杉田がここに来たとき、ロフトに上がるための梯子は外れていた。未来の母が帰るとき、掛けるのを忘れたのだろう。
「私、実家を出てからもう四年経つんだよ。百歩譲って合鍵を持ってるのは仕方ないとして、勝手に上がるのは止めて欲しいんだよね。ここ、私の部屋なんだからさ。中をいじられるのも嫌だし、そこまで干渉されたくない。私にだって仕事も生活もあるのに、それがわかってもらえないみたい」
表情が出てくるようになった未来は、明らかな嫌悪感を示していた。
彼女の言うことはごく当たり前の感覚だ。子どもはいつか親から離れるものだし、大人になれば誰だって、自分の持つ空間や生活リズムを他人に乱されたくはない。
独り立ちした大人として当然という感覚を持つ杉田は、同調して頷いた。
「未来は定期的に実家に帰ってるんだろ。だとしたら、確かにうざいな」
「私が帰らないと、電話攻撃が来るからね。いつになったら顔見せるんだ、とかって。お互い都内に住んでるんだから、たまにしか顔見せなくたっていいじゃんって思うんだけど……それとも、こういう風に考えてる私がおかしいのかな」
語尾に不安を混ぜた未来を見て、杉田は首を横に振った。
「いや、そんなのは当たり前だよ。僕だって、身内が予告もなく部屋に来たり、留守中に勝手に掃除されたりするのは迷惑だ」
「そうだよね?良かった」
安心したのか、未来の眉間に寄っていた皺が消える。
しかし逆に杉田の心には、彼女と話を続けるうちに違和感が浮かびつつあった。
未来は一般的な家庭に育った者ならばあって当然の感覚が、どこか歪んでいるように思えるのだ。
家族というのはお互いに素の姿を見せ合うことができる、この世で最も信頼し、愛することができる存在のはずだ。そこには損得も、他者に見せられない面を見せることによって生じる軋轢や摩擦もない。
それなのに未来は家族に対して迷惑をかけること、精神的な弱点でもあるサイボーグであることを知られるのを頑なに拒んでいるのだ。確か事故で重傷を負ったときでさえ、母に知らせるなと言っていた。何故そうまでして母親の影に怯え、怖れねばならないのだろう。
「お母さんとはあんまり仲が良くない?」
あくまで控えめに、杉田が質問する。未来は戸惑いを瞳に浮かべたが、ほどなく素直に頷いた。
「いい方じゃないよ。お母さん、今回も……こんなことになってるんなら、仕事なんか辞めて実家に帰って来いって、そればっかり。私、あの家から出たくて独立したようなもんなのに」
「未来は今の生活が充実してて、楽しいんだろ。そういうことは話したことはないのか?」
「何度も話してるよ。でも、すぐに話がすり替わっちゃうから。次に会ったときには、もう何を話したか覚えてないの。だからたまに、私のやってる仕事ってそんなに価値がないのかなって、考えたりもするんだ」
「いい仕事をしてるじゃないか。便利屋って、頼まれれば何でもやるんだろ?中にはかなり危ないことや嫌な依頼だってあるんだろうし、人から感謝される仕事なんだから、卑下する必要はない。僕ら医者は病気や怪我で苦しんでる人を助けるけど、未来は困ってる人を助けて支えてるんだ。もっと自信を持っても大丈夫だよ」
杉田はそう言いながらも、今の未来が先に見た母と同じく、相手に対する不満しか口にしていないことに気づいていた。娘であるが故に、強い影響を受けてしまっているのだろう。
「いいこと言ってくれるなあ。拝みたくなっちゃう」
未来がおどけて杉田に手を合わせた。
彼女ははにかむように笑っているが、その頬には赤味がさしており、自然な感情を映し出している。閉ざされた心が、徐々に開きかけているようだ。
ふと思い出したように、今度は未来が杉田に問いかけた。
「そう言えば、杉田先生はどうして医者になろうと思ったの?」
「僕?」
「うん。丁度仕事云々の話になったし、迷惑じゃなければ教えてよ。杉田先生、お医者さんなのに病院にいるわけじゃないから。前からちょっと聞きたかったんだ」
「……長くなるけど、いい?」
話し辛いのか、杉田はマグの紅茶を一口飲んでから咳払いをした。未来が頷くと、杉田はやや目線を上げて記憶を探っていった。
「僕がまだ小学校の頃の話かな……」
杉田は幼い頃、小柄で痩せていて運動が苦手な、所謂「どんくさい」子だった。
手先だけは器用だったが、三人の姉と一緒に習っていた華道も女々しい趣味だと蔑まれ、左腕に目立つ形の痣があることもからかわれて仲間外れにされていた。当然遊びにも誘ってもらえず、休み時間は一人飼育小屋の動物や植物園の花を眺めたり、図書室で教育用のDVDを観て過ごすのが大半であった。
周囲の子どもたちが全員ではやし立てたり、集団で無視を決め込んだことも度々ある。その中心になっていたのは、クラスでリーダー格の女子グループだった。
クラスの全員から苛めの的にされ、孤立していた杉田少年に親友ができたのは、小学校三年生の夏だった。同じ学年で違うクラスの男の子である親友は、眩しい笑顔が印象的だった。
そして両足と顔に先天性の麻痺があり、同じように苛められていた。
休み時間にいつも一人でいた杉田少年に話しかけてきた彼は、小さい頃からあまり外で遊べなかった分、大人用の自然映像作品集を観ていたという。その間に覚えた虫や花の名前、様々な自然現象について教えてくれた。
不自由な足を引きずって歩き、顔の半面が動かない笑顔を絶やさない彼は、驚くほど物知りで生き物が好きな、優しい少年だった。それまで通うのが嫌だった学校も、親友のお陰で楽しい場所になっていったのだ。
いつしか杉田は、彼が自由に動く身体を手に入れられれば、どんなに素晴らしいだろうと思うようになった。
「ぼく、おとなになったらお医者さんになる。それで、きっときみのからだを自由に動かせるようにする。だから、楽しみに待っててよ」
「ありが、とう。うれしい、よ……」
「絶対になって見せるから。男と男の約束だ!」
その約束に、親友は嬉しそうに頷いた。四年生の春の話だ。
しかし。
親友はその年の夏、突然杉田少年の前から姿を消した。
担任の話によると、父親の転勤で遠くの地方都市に引っ越したとのことだった。
杉田少年は、彼が何も言わずにいなくなったことに疑いを持ち、幾度も遊びに行った彼の家に足を運んだ。そこで近所の人々が、息子の将来を悲観した父親が一家心中を図ったと噂しているのを聞いた。
約束は永遠に果たす機会を失ったことを、杉田少年は悟ったのだ--




