第46話
「セロトニンの値は……九四、基準値の下限が八一だからかなり低くて、推移は……」
共同研究室にある自分のデスクに重ねた本に肘をつき、杉田はぶつぶつと呟いていた。しかし彼の瞼は今にも閉じそうな半目状態で、数秒おきにかくん、と頭が揺れている。
「おい!」
生沢が声をかけると同時に、杉田の肘の下にあった本を勢いよく引っぱる。頭を支えていた軸が外れ、彼の顔面はがん、と派手な音を立ててデスクに激突した。
「あ、悪い悪い。そこまで見事にぶつけるとは思わなかった」
鼻を押さえて悶絶している杉田へ、生沢が悪気はなさそうに手をひらひらと振った。
「……何てことするんですか、鼻血出るかと思ったじゃないですか……」
目尻に涙を滲ませて、杉田が鼻にかかった声で文句を垂れる。幸い眼鏡は無事なようだが、生沢の突っ込みの容赦のなさもたまには自重して欲しいものだ。
「あんまり根詰めるから、午前中から眠くなるんだろうが。ほれ、これで眠気を覚ましとけ」
と、眼鏡を外して汚れを拭き始めた杉田の眼前にプラスチックのコーヒーカップが差し出される。生沢がカフェテリアで買ってきてくれたのだ。
「ありがとうございます。でも、生沢先生だって毎日遅くまで残ってるじゃありませんか」
「これぐらいの残業は、勤務医だった頃に鍛えられたからな。救急センターよりもずっとましだ」
杉田がコーヒーを受け取って口をつけると、生沢も自分の熱いコーヒーを啜って一息ついた。
杉田はここ数日、AWP棟にある宿直室に泊まり込んで仕事をしている日が続いているが、生沢も七時に出勤し終電で帰宅する毎日なのだ。彼ら二人の平均労働時間は、軽く一二時間を越えているだろう。
P2の襲撃から一週間が経過し、AWP棟の修復は順調に進んでいた。未来の訓練は一日おきに実施されており、その度に脳波と脳血流のデータもモニタリングが継続されている。
蓄積されたデータは訓練終了後即時サーバに移されて杉田が分析を進めているが、問題になっている左下肢の痙攣も度々見受けられるようになってきていた。
「僕は現場よりも、こうやって一人で研究を進めるほうが向いてますからね。でも、少し病院で働いてハードな勤務にも慣れておけば良かったかな」
「病院はお前の苦手な女の看護士だらけだぞ」
「……最近は、それにも慣れが必要だったんじゃないかと思ってまして」
「まあ、そうすりゃ大月をもうちょっと上手くあしらえたろうな。で、あいつへの報告は確か今日なんだろ?大丈夫なのか」
女嫌いの弱点を指摘された杉田は一瞬むっと口を尖らせたが、デスクに置いていた資料を揃えて眉根を寄せた。
「左下肢の痙攣は訓練中にも発生して、脳波にも棘波が出たことは確認できました。ただ、もう一つ気になることがあります」
彼は眼鏡を直してから資料を数枚捲り、脳血流のグラフと参考画像が貼り込まれたページを指差した。
「前頭葉部の脳血流なんですが、訓練中も低いままで画像にほとんど変化が見られないんです。例の一件以来、未来の精神状態が不安定なこともあるかとは思うんですが……血中のセロトニン濃度も、基準値下限ぎりぎりくらいまで下がっています。中程度の鬱病と似たような状態になっているんです」
セロトニンは神経伝達物質の一種で、必須アミノ酸であるトリプトファンの代謝過程で生成されるものだ。他の神経伝達物質であるドーパミンやノルアドレナリン等をコントロールし、精神を安定させる作用があることで知られている。
過度のストレスに晒される等が原因で脳内物質のバランスが崩れることがあり、この状態が長く続くと精神疾患を引き起こすのだ。
「そりゃまあ、あれだけのストレスがあったんだからな。それが影響を及ぼしてるんじゃないか?」
「確かに、それはあるかと思います。セロトニン量の測定は、今までの血液検査ではやっていませんでしたから。彼女が以前から精神疾患の既往症があれば、現在もそれが継続しているだけかも知れない。でも問診ではそんなことはありませんでしたし、今までの訓練や実戦でのデータを見る限りでは、とてもそんな問題があったとも思えません。それに重度のストレスがあったにしても、セロトニン量の減少も急すぎます。もしSNSAの誤作動が脳のシグナル伝達だけでなく、脳内物質のバランスや脳血流にも悪影響を与えてるんだとしたら……」
「それはちょっと乱暴過ぎるだろ。未来を治してやりたい気持ちはわかるが、あんまり先走ったことは考えるな」
生沢の表情が厳しくなる。生沢は大雑把な性質だが、医療の分野に関しては慎重な職人気質だった。後輩医師の強引な仮説には納得しかねるのだ。
「しかし、可能性としては捨て切れんな。俺の調査もあまりいい所まで進んだとは言えないから、まだ何とも不明瞭なところが多すぎる」
今度は生沢が、脇に抱えていた分厚い紙の束をデスクの上に置いた。彼は杉田からの協力要請に応え、どういった条件でSNSAが異常を起こすかのシミュレート調査を実施していたのだ。
「SNSAの動作不良が発生した一番大きな原因と思われるのは精神的、肉体的ストレスだったんだがな。どうもそれとは無関係のようだ。そうなると、後は人体に直接作用する自然現象や人工物だってことになる」
説明を聞きながら、杉田が調査結果のプリントアウトに目を通す。
生沢の調査は、予備のSNSAに生産時期から同等の経年劣化を想定し、体内に移植された以降に受けたと思われる負荷をかけ、経過を観察するシミュレーションだ。
しかし、SNSAに精神ストレスと肉体ストレス双方の負荷をかけても、痙攣性の発作を起こすような誤作動は発生しなかったのである。
杉田が眼鏡を上げながら、生沢へと視線を向けた。
「人体に直接作用する自然現象や人工物というと?」
「主に電磁波の類だな。細かく言えば可視光線、赤外線、X線、身近な機械から発生する種類の電波にガンマ線に紫外線あたりか。色々なパターンを作って試さにゃならん」
「すいません、大変な作業を押しつけて」
電磁波の種類を指折り数えていた生沢に、杉田が申し訳なさそうに頭を下げた。
「そのパターンは、僕が今日中に作ります。電磁波から肉体ストレスに直接訴えてくるレベルの刺激をまず排除して、無意識下に受けるものだけを抜粋する必要がありますよね。生沢先生は未来の定期メンテナンスを代わりにお願いします。先生も、未来の状態を直接確かめたいでしょう?」
「おいおい、この前お前が言ってただろ。未来は今、AWPの人間全員を信用してないらしいと。メンテはお前がやれ」
「しかし、僕だって未来に一度拒絶されたんですよ」
驚いたような生沢に返され、杉田はむきになったように反論した。
「一度くらいの拒絶が何だ。俺なんかあれ以来、あいつがまともに目を合わせようともしないんだからな」
「しかし……」
「何度も言わせるな。いいか杉田。お前はどんなことがあっても未来を守る、そう誓ったんだろうが。男なら、自分が一度決めたことを違えるんじゃない」
生沢が右手の人差し指を杉田に突きつけ、更に続ける。
「あいつはメンバーの中で、お前に一番信頼を置いてるんだ。そのお前が意図的にメンテを他の人間にやらせたと知れば、それだけで裏切られた気分になるだろう。もうちょっと、人の心ってものを深くまで踏み込んで理解する癖をつけろ」
「……はぁ」
杉田は困ったように目を逸らした。
その心の奥まで見て理解する、というのが苦手なのだ。
未来がどうやら自分のことを信頼してくれているのは間違いないようだが、果たしてその信頼に応えてやれるのか。自分にそんな資格があるのだろうか?
これから先も未来を守ってやるのだとしたら、どうしても彼女の心の奥を、一番弱いところまでを知らねばならない。
が、自分にはそれが怖くて仕方がなく、自信がなかった。
もし自分が手を触れれば、ただでさえ脆くなっているガラスのように繊細な未来の心は壊れてしまうのではないか。
人であれば誰でも、そんな弱点など他人に晒したくはない。彼女の脆さを背負い、守ってやることができるのか。自分が言ったことに後悔はしていないが、不安はつのるばかりだ。
そのとき逸らした視線の先にあった社用携帯電話が着信を告げて光り、ブーンという振動音と共に横にずれていくのが目に入った。
「失礼します……はい、杉田です」
『あ、杉田先生ですか?未来先輩の事務所の鈴木です』
一言生沢に断ってから携帯電話を取った杉田の耳に入ったのは、焦ったような翔子の声だった。
「どうかしたのか?何だか慌ててるみたいだけど」
『未来先輩、最近C-SOLに行ってますか?』
「今日はまだ来てないけど、一昨日は確かに来てたよ。定期メンテナンスは二時からだから、いつも来るのは一時半くらいかな」
『先輩、三日前から会社に来てないんです。出勤時間になっても出てこないから、私から連絡するとすごく辛そうな感じで。身体が動かないから休むって、それだけ言うんですけど……私、心配で。もしそっちで何かあったんなら、みんなを誤魔化す理由も考えなきゃなりませんし』
「未来が?三日も前から休みっぱなしなのか」
杉田が思わず声を大きくすると、隣の生沢も驚いて顔を上げた。
未来はP2の襲撃以降、休養命令があった日以外はC-SOLに通い続けている。
三日前の午後に定期メンテナンスに現れた未来は、確かに調子が良くなさそうではあったが、動けないほどの状態ではなかった。しかし翔子の話によれば、朝身体が動かないという症状が出つつあるという。
C-SOLではあまり体調が悪いことを表に出せば今後自分の命が危うくなるだけに、どうにか元気さを取り繕っていたのだろう。その反動が、確実に出てきているのだ。
もう放っておける状態ではない。
「未来は家にいるのか?」
『そのはずだと思います。昨日私も会社の帰りにお見舞いに行ったんですけど……未来先輩、顔色も酷いし、寝る以外に何もできないみたいで。でも、大丈夫だからって言って、部屋には上げてくれないんです。そんなの嘘ですよ。あんな未来先輩、初めて見たんです。全然大丈夫なんかじゃないのに。あのままじゃ、先輩……本当に心配です』
翔子は声を詰まらせている。不安に涙ぐんですらいるようだ。
「わかった、僕が様子を見に行くよ。教えてくれてありがとう。じゃあまた」
杉田が緊張した様子で終話ボタンを押し、携帯電話を畳んでスーツの内ポケットに入れる。
「朝起きられないのか。確かに、鬱病っぽい症状だな」
生沢の言葉に、杉田が頷いた。
「そんな状態じゃ、今日ここに来られるかどうかもわかりませんよ。全てのストレスの元凶はここにあるんですしね」
再び、杉田の携帯電話が着信に震えた。
未来からのメールだった。件名は「連絡」で、本文も「今日は体調が悪いので、定期メンテナンスに行けません。申し訳ありません」と、実に事務的なものだ。
「未来からのメールです。やっぱり、今日は来られないようですね……心配です」
携帯電話のディスプレイを確認し終えた杉田の表情が曇り、生沢が息をつく。
「未来もいよいよ追い詰められてるってことだ。無理もない」
「僕が今日の帰りに様子を見に行きます。僕にできることはそれぐらいしか思いつきません」
自分がするべきことはもっと他にあるような気もするが、不器用さ故に考えが及ばない。そんな悔しさを噛み締めている後輩の肩を、生沢が軽く叩いた。
「ようやく自分から動こうって気になったな。それでいい、その素直な気持ちをあいつに見せてやれ。多分、それが一番の薬になるだろうからな」
伸び放題の髪に無精髭だらけの無骨な男の目は、緩やかに杉田の背を前に向かって押しているのだった。




