第45話
「……気持ち悪い」
パワードスーツを脱ぎ私服に着替えた未来は、呻きつつおぼつかない足取りでトイレに入った。
そろそろ夕方だが、まるで空腹感がない。代わりに胃を満たすのは、鈍い痛みとむかつきだ。
この二日間、ろくに食事もしていなければ夜も眠れていなかった。
洗面台の鏡を覗き込むと、短期間で病人のようにやつれてしまった自分がいた。
仕事だけは行っているものの、とても現場に出られる状態ではなく、デスクワークのみの勤務にしている。事務担当の翔子にはかなり心配をかけてしまっているが、それでも普段の仕事量を一・五倍の時間をかけて何とかこなしていた。
モノトーンの大理石がお洒落なトイレの鏡に映った顔は、眼の下の隈が朝より濃くなっているのがわかるほどだ。舌打ちして地味な化粧ポーチからファンデーションを出し、重ねていく。
肌に触れる指先には、皮膚が荒れ放題になっているざらついた感触が嫌でも感じられた。表情にも数日前は当たり前のように溢れていた溌剌さが見当たらず、動きがまるで乏しくなっている。
我ながら酷い顔だった。そろそろ、化粧ではやつれ加減を誤魔化し切れないようだ。
「こんななら、いっそ頭の中まで機械だった方が楽なのに。どうして、中途半端なんだろ」
不健康さが目に余る状態に、未来は愚痴をこぼさずにはいられない。
自分の身体は半分程度が機械なのに、代謝は人間のままだ。血糖値が下がれば空腹になるし、暑さや寒さも感じればもともと弱い部分は病気にもなる。
ファンデーションを更に厚塗りした鏡の中の自分は、目が死にかけていると言えば当てはまるだろうか。どう見ても元気とは言えない。普段なら一通り落ち込み終えた後なのだから、もういい加減立ち上がっている頃だった。
が、今回に限って心に落とされた影を振り切ることができず、一日中不快な気分を抱え込む羽目になっている。
脳も完全に機械化されてしまえば、これほどまでに悩まずに済む。
つい先ほどそう考えた未来は、愕然とした。
この苦しみは人間であることの証しなのに、楽になりたいがためにそれを否定する自分がいる。
身体だけでなく、心までが人間でなくなることこそを、一番怖れていたはずなのに。
最早、自分自身に対する信頼すらもあてにならないのか。
自分は一体、何を望めばいいのか?
意識せずに半身を抱くようにしていた手が、Tシャツの下にある肌に傷がつくほど強く食い込む。未来は俯いて、鏡に映った自分の姿を拳で粉々に砕いてしまいたい衝動を必死で抑え込んだ。
「あら、お疲れ様」
そこへ未来の背後から更に鏡へ姿を映り込ませたのは、大月だった。
「あ……お、お疲れ様です」
はっと顔を上げた未来の隣の洗面台に進んだ大月が、化粧ポーチから口紅を取り出した。女専務の隙がない仕草から、未来は何故か目を離すことができなかった。
「随分顔色が悪いわね。大丈夫なの?」
シックな色の口紅を塗り直す大月は、体調を気遣う言葉を口にしているにも拘わらず未来に視線を向けようとしない。
それは、今の言葉が表面的な挨拶のようなもので、本気で心配しているではないことを表していた。
大丈夫か、だと?
ふざけるな。
一体誰のせいで、こんな状態になったと思ってるんだ!
思わず罵声を浴びせそうになった熱い塊を、未来はぐっと喉に留めた。上品なスーツ姿の女に対する激しい嫌悪感に、胃がきりきりと絞め上げられるような痛みを訴える。
大月は、未来を実験生体としてAWPに組み入れた張本人だ。
彼女の強引な決定さえなければ瀕死の重傷を負わされることもなく、少なくともサイボーグになるかどうか自分の意志で選択できたはずだ。それなのに謝罪の言葉もなければ、自分の犯した過ちを認めようとする素振りもない。
それどころか、やってしまったことはもう仕方ない、時間を過去に戻すことは叶わないのだから従えと言わんばかりだ。
この女は、未来が抱いていた平凡な幸せを望むささやかな願いを奪っただけではなかった。未来を単なる実験用の道具としてしか扱わず、人格の存在を許していないのだ。
「調子は普段通りですよ」
大月に対して殺意すら覚えた未来の口から出た言葉はしかし、至極平静を装ったものであった。表情もまるで動いていない。
無意識のうちに未来の細い指が洗面台のレバーを上げ、水を出し手を洗い出す。水の温度はほとんど感じられない。
「今日の訓練結果はチェック済みよ。どうも最悪だったようね」
液体石鹸で手を洗っている未来の動きが止まる。口紅を塗り終えた大月は、ポーチを探ってチップつきのリップグロスを摘み上げた。
「あまり調子が悪いとこちらにとっても都合が悪いけど、一番困るのは貴女でしょう。しっかりなさい。戦闘用サイボーグに関しては、グループのトップが最も注目してることでもあるし。ここまで来た以上、もう引き返すことは許されないのよ」
そこで初めて大月が未来へちらりと視線を向けるが、今度は未来が再び手を洗い出して俯いた。
「はい。すみません」
未来の声は囁くようにかすかで、やっと聞き取れるほどだ。
「実験体である貴女の寿命を決めるのは、他でもない貴女自身よ。覚えておきなさいね、化け物さん」
再び未来の動きが凍りつく。
リップグロスで艶やかな唇を仕上げると、大月は鏡の中の自分に頷いた。手早くメイク道具を片付け、肩にかかる切り揃えられた黒髪を跳ね除けて振り返る。
大月が出入口の自動ドアをくぐるまで、未来は動くことができなかった。
「……私は実験体で、化け物……か」
低く呟いた未来が、のろのろと水道のレバーを下げて水を止める。傍らのペーパータオルに手を伸ばして水滴を拭き取る間も、その瞳の焦点はぼんやりと空に散っていた。
「やっぱり、覚悟してても実際に言われるとキツいや」
母が口にしたのと同じ単語を耳にしたとき、自分の中から何かが飛び去ったような気がした。
涙は出ていない。
鏡を見ても、無表情なマネキンが立っているかのようだった。
やはり、AWP全体の意向は大月が話した通りなのだ。
自分と同じく何も知らずに動いていたリューや杉田、生沢たちが、こちらを気遣ってくれていることは伝わってくる。だが、自分があくまで実験体で使い捨てのモノであることは変わらないのだ。
いや。杉田たちも社命に従って気遣う姿勢を見せているだけかも知れず、裏では何をしているのかはわからない。彼らとて、大月の下で動いている研究員たちだ。会社の意向に背くことはできないはずだ。
周りには味方がいない。ここには自分の居場所がない。
改めて自覚が湧く。一刻も早くここから出たい衝動に駆られて走り出しそうになったが、ふとあることに気づいて足が止まった。
一体、どこに味方してくれる者がいるというのだろう?
自然と事務所の仲間たちの顔が浮かぶ。しかし、自分を信じて今までついて来てくれた彼らを個人的なごたごたに巻き込むことなど、論外だった。
「私にはもう逃げ場なし、ってことかな」
普通なら最後の頼みは家族ということになるだろうが、再婚した父や相性の悪い母、幼い子どものいる姉の厄介になることなど、どうしてできよう。
特に母には絶対に頼りたくなかった。話したところで信じてもらえるかどうかわからないし、仮に話を聞いてもらっても、黙って抱きしめてくれるような人物ではないことなど、身につまされて知っている。
これからどこに行けばいいのだろう。
何を信じればいいのだろう。
力なく大理石の壁に背を預けた未来の黒い瞳は何も捉えることなく、表情という彩りを失いつつある自身の鏡像をただ映しているだけだ。
「?」
刺激に鈍感になっていた未来は、ほっそりとしたグレーのデニムパンツに突っ込んであった携帯電話が着信を告げて震えていたことに気づくのに、数秒を要していた。
「もしもし」
『あ、未来ちゃん?この前はどうしたの?突然帰っちゃって、それから何も連絡くれないから』
緩慢な動きで携帯電話を引っ張り、着信ボタンを押した未来の耳に届いたのは母の声だった。よりによって、一番言葉を交わしたくなかった人物からの電話をうっかり取ってしまったのだ。
迂闊なことこの上ないが、口を開き声を出すことでさえ、最早面倒になりつつあった。
「ああ。ちょっと、忙しくてね」
『いくら忙しくたって、電話一本入れるくらいの時間は作れるでしょう!少しはお母さんのことも心配してくれたっていいじゃないの。貴女は全然気にならないの?こっちも忙しくてね、あの次の日からまた……』
未来はそこで携帯電話を耳から離した。
結局母は娘の心配をしているのではなく、自分の話を聞いて欲しくて電話を寄越してくるだけなのだ。ただの自慢話や苦労話のオンパレードである母の独演会に、いちいち付き合う義理はない。
やはりこれでは、母を頼る気にはなれない。受話マイクの側で思わず漏らした溜息は、母に聞こえていないか気になるほど大きかった。
『……そうでしょう、ねえ?』
「うん」
一、二分後にようやく母の一方的な話が終わったようで、未来は適当に相槌を打った。多分一般的に独立した娘は母親をもっと心配するものだとか、自分の仕事が今どれだけ大変でどんな有名人と会ったとか、そういった類いの話だったのだろう。
『本当にわかったの?』
「はい!」
だめ押しをしてきた母に対する未来の返事は、半ばやけくそ気味だ。
『じゃ、今日は夕食でも一緒に行かない?夜なら空いてるんでしょう?』
「生憎、そういう気分じゃないから」
『ちょっと、貴女は!そういう気分じゃないって、また人の都合も考えないで!』
いい気分だったらしい母の口調が、娘から拒絶の意を示されて荒くなる。
そこで未来は、言い方を間違えたことに気がついた。普段なら迷いなく仕事と言うところが、つい本音を口にしてしまっていたのだ。
しかし、気分でたまに相手の意に背く行動を取ることが、果たしてそこまで非難されねばならないことなのだろうか。しかも、肉親に対して。
疑問は一気に感情の点火材となり、未来は不機嫌さを爆発させた。
「うるさいな!誰とも会いたくないんだよ!」
携帯電話に向かって怒鳴り、間髪入れずに終話キーに触れる。すかさず、電源もオフにした。
「……最悪」
手の中でみしり、と音を立てて軋む携帯電話を見つめた未来は、握力を緩めて吐き捨てた。先までは何の変化も見せていなかった表情は、明らかな憎悪を覗かせている。
怒りや憎しみのように、負の感情だけを映し出す自分の顔が恨めしかった。普通なら、母親からの連絡は内容を問わずもっと嬉しいものであっていいはずだ。なのに、どうして自分は、いつも一度は母を怒らせてしまうのだろう。
少しくらいの不安定さで人を不快にさせる自分などたまらなく嫌いで、そんな弱い心は許せない存在だった。
サイボーグになる以前なら、自己嫌悪がここまで酷くなることはなかった。それとも、これも自分が人間であることを拒み始めている兆候なのだろうか?
未来は息苦しさを覚え、胸を押さえた。
自分に対しての不信と嫌悪も、もう限界に達しそうだ。
「……助けてよ……誰か……」
無意識のうちに絞り出された声は、もう自分以外の何物にも期待しないと決めた自分の負けを認めるものだった。
そしてそれに抗う気力は、今の未来に残されていなかった。




