第43話
「……ふん。頭の悪い野郎は、お似合いの尻軽と野エロでもやってろっての」
真っ暗に近い葛西臨海公園奥にある高い木の上で、未来は吐き捨てた。
むすっとした唇は硬く結ばれ、黒い瞳が木々の隙間に広がる闇を見据えている。
家に帰るタイミングを逃した彼女は首都高を半周ほど流して、広大な公園の敷地近くにある葛西インターチェンジを下りていた。もう少し走ったら、C-SOLのある有明までうっかり一周してしまうところだった。
もう深夜だというのに、公園内には意外に人が多いことに驚かされる。若いカップルの夜デートコースとしても有名なここは、屋外でお楽しみ中の彼らを狙ったゴロツキも多い。
また、若い女性がレイプ被害に遭うことも多いと聞いている。未来も何度か数人の男に囲まれたが、憂さ晴らしを兼ねて全員に漏れなく打撲と骨折のプレゼントを贈っていた。
そんな危険がある場所なのに、風に乗って男女の甘い囁き声が時折聞こえてくる。こんな時は、強化された聴覚が疎ましい。その気になればもっと多くの聞きたくない音が聞こえてしまうし、暗視フィルターと高精度レンズが埋め込まれた眼は、細かいところまで漏らさず見えてしまう。
体内に移植された様々な装置の動力は電気で、太陽光による発電ユニットと電池のおかげで消耗を気にする必要はない。それでもなるべく余剰電力を電池に貯めておけるように、出来る限り光の下にいることが指導されてもいた。
「サイボーグ、か……どうして、こんなことになっちゃったんだろう。会社の利益は大事だけど、無関係な人の人生を犠牲にするのは……ちょっと酷いよね」
呟いた未来は自嘲気味に笑うと、抱えていた膝に顔を埋めた。
つい数時間前に強いショックを受けているはずなのに、不思議と涙は出なかった。
もしサイボーグ改造のきっかけが仕組まれた事故でなく、本当に命を救うためのやむを得ない方法だったなら納得していただろう。しかし、そこである疑問が頭をもたげてくる。
「……私の価値って、やっぱりそんなもんだよね。何もない、ただの人間だったんだから」
敢えて口に出して言い、膝から顔を上げる。
利用価値がなかったなら、見捨てられて当然のはずだった命。
間未来という存在が、人々の生活を様々な方面から支えているセラフィムコンツェルンというグループ企業の決定より軽いのは、考えてみれば当たり前だ。
一つの人命は地球よりも重いとよく言うが、未来はそれが信じられなかった。
この世に生きている人間、特に自分は何の役にも立たないのなら存在価値はないと思う。
幼い時はモノは豊かでも冷えた家庭に育ち、両親が一緒に笑っている姿が殆ど記憶になかった。それがあるのは、父も母も未来や姉の薫が何かいいことをして褒められる時だけだった。
だからいつも言いたいことがあっても我慢して、いい子でいるように必死で努力した。
自分の意志がそれで押さえつけられていても、両親の笑顔に自分の価値を見出してきた。
そんな両親も未来が大学の時に離婚した。その少し前に未来も反発して家出同然に自立したが、母には未来の行動自体がショックでストレスになった、と聞かされた。姉は既に青年実業家と結婚しており、自立したことを責められたような気さえした。
母は寂しくて、一人になりたくなかったのだろう。
それ以来母との間に決定的な確執が生まれ、未来は実家を避けるようになっていた。母にとって価値ある存在でいたいと思う一方で、やっとの思いで手に入れた自由をもう離したくなかったのだ。
子ども時代から当時までの間、未来に価値を認めていたのが母ならば、今はAWPスタッフだ。彼らの求めに応じられない価値のない存在になり下がってしまえば、この世から速やかに抹殺される。
「いくらここで嘆いたからって……もう人間には戻れないんだもん、仕方ないよね。私は弱くなれば殺される、そういう奴なんだってしっかり覚えておかなきゃ」
と、顔を上げた未来の視界が目の前の空間に広がっている夜景を捉える。ふと指先を宙に伸ばしてみると、開いた指の間から漏れる光が連なって指輪のように見えた。
あの中では、どれだけの人々が愛する家族や恋人たちと過ごしているのだろう。
空中に伸ばした細く白い手は、何もない虚空を掴むばかりだ。
「今までは誰かと恋して、結婚して、そのうち子どもができて、一生懸命働いて……そういう平凡な生活を普通に……ホント、普通に信じてたのに」
そんなものはこの夜景に溢れる光と同じく、もう決して手が届かないものに変わっていた。
今の私は、人並みの幸せを求めること自体が間違ってる。何か自分で目標にできるものを見つけなきゃならないんだもの、楽しみが増えたと思えばいいよ。
自分に言い聞かせて、未来は微笑んでみた。
そのつもりが、顔の筋肉が動いてくれない。神経が凍りついたように、表情を変えるのを拒否しているようだった。
泣いてみようとしても、叶わない。
自分の身体に逆らって表情を動かすことはそれ以上試みず、彼女はもう一度膝に顔を埋めた。
もう、自分以外に期待するのはやめよう。何かに、誰かに期待するからそれが壊れたり、裏切られたときに苦しむのだ。初めから何も期待しなければ、何も辛いことはない。
簡単なことだった。
「これだけ沈んだんだもん、明日はきっと元気になれるよ。今までだってずっと、そうやってきたんだから……辛いのは慣れてる。今度もきっと大丈夫、私はそんなに弱くないよ」
暗い闇の深淵に突き落とされても、その一番奥まで沈めばあとは立ち上がるしかないのだから。
そうして一度とことんまで落ち込むのが、自分の立ち直り方だった。
それでも今はもう少し、どん底に身を隠していたい。
今まで生きてきた中で一番深く冷たい空間は、沈むのにも這い出るのにも時間がかかりそうだった。
都心にあるビルの屋上からは、ズームを使用すれば葛西臨海公園にある観覧車のネオンが光の模様を闇に投げかけている様子が手に取るようにわかる。その手前に広がる埋め立ての開発地区には、昼間に襲撃を強行したC-SOLが作る夜景も組み込まれていた。
P2の、より精度が高いレンズが埋まった右眼がC-SOLに焦点を合わせる。
さすがに屋外で人が動く姿までは見えないが、まだ残って後片付けをしている者は多いだろう。
自分は改造手術後殆どラボ施設内から出たことがなかったが、間未来ことP3もそうなのだろうか。
昼間の短い戦闘ではざっとした印象しか掴めなかったが、奪ったデータと合わせれば幾つか今後の戦いの参考になることは判明していた。
一つ。P3は改造の度合いが低く、パワードスーツの装甲も薄いこと。
二つ。軽量な分機動性は圧倒的だがパワー不足で、所持している火器の威力が劣ること。
三つ。各種探知能力に強化の重点が置かれているため武器は内蔵されておらず、最も得意とするのは環境を巧みに利用した奇襲攻撃であること。
それにしても素人の民間人が改造され、僅か二年でここまでの戦士に育て上げられること自体が驚きだ。本人の資質の素晴らしさもさることながら、優れた指導者が鍛えたに違いない。もし自分が軍属の時代に出会っていれば、両者とも間違いなく一目を置いたであろう人物だ。
そこまで考えて、P2は自分の思考の方向が変化していることに驚いた。軍属時代のことなど、何年も思い出したことがなかったのだ。
目線をC-SOLから外し、都市全体がぼんやりと照らす夜の空を眺める。もう日付が変わろうかという時間にもかかわらず、眠らない街の抱く闇は不気味に明るく、P2の身体の色とよく似ていた。
摩天楼を秋の冷たい空気が高い音とともに走り抜け、断崖絶壁のような鋭角になっているビル屋上の縁から吹き上げた風が、P2の逆立った黒い髪を揺らす。この髪も人工的に植えられたもので、手入れの必要はなかったが、髪型は若松の趣味だ。
改造を中心となって進めた若松は、自分の最高傑作が処分されると知るや否や、こちらの意見もろくに聞かずに冷凍タンクに押し込めて運び出した。
以来5年、一度も肉体レベルで動くことなく今日に至った。
身体が凍結されたのは、若松が追加の改造をいつでも施せるようにするためだった。実際に、開発終了当時よりも追加された機能は遥かに多くなっている。
だが若松は、一番重要である動力炉には手をつけようとしなかった。動力炉に関しては構造が完全に別であり、複数の研究者による共同設計となっていたため、彼の手に負えるものではなかったのだ。
つまり、一度心臓部たる炉に不具合が生じれば、そこが命の終着点であることを意味していた。
しかし、命を繋ぐものが尽きたなら、それはそれで構わなかった。生を永らえるため、悪足掻きしようとは思っていない。
その一方、自身の後継型であるP3と出会ったことで、全てに対して無関心だった精神にある執着が生まれつつあることを感じていた。
自分が今、ここに在ることの実感。
即ち、現実に自分が存在しているという喜びに対しての執着だ。P3と戦うことによって、抹殺されようとした自分が生きている意味を見出せたのだろうか。
P3には勝つための罠や策略など小手先の技は用いず、全力で戦いを挑みたかった。
自分と同じく戦うために改造され、最強の戦士になるべく育てられた彼女こそがこの世界で唯一、命を懸けた戦いが許される者であろう。
P3は言ってみれば自分の兄弟にも当たり、分身のようなものでもある。だが、どうにも解せないのは彼女の考えや感じ方だ。
『な……何だよ。あんたなんかと一緒にしないでよ!』
自分たちが人ならざる者であることを指摘したとき、P3はパニックになりかけてそう言い放った。
何故、ああまで自分が人間であることにしがみついているのか。
決して過去の姿に戻れないサイボーグであることを認めてしまったほうが楽だ。
少なくとも自分はすぐにその現実を受け入れることで、苦悩せずに済んだ。人間であることにこだわらなかったからだ。
人間であろうとするからこそ、苦しみ続けねばならない。
その真実にP3は気づいているのだろうか。
『P2、どこをほっつき歩いている?外に出てるのか』
その時、若松の音声がP2の思考に割って入った。無機質な抑揚のなさで、P2が肉声を返す。
「何か用か」
『勝手に外に出るなと、あれほど言っただろう!お前の巨体がどれだけ目立つかわからないのか』
「誰かに気づかれるような迂闊な真似はしていない」
『親の言うことにいちいち逆らうな。左脚の修理と調整が終わったんだ、早く戻ってこい』
自室で休まずに作業していたらしい若松の声は、疲労しているせいもあって普段より一層棘がある。彼は戦闘終了後に地下トンネル内にある居室に戻ってすぐ、P2の破損度合いを調べて修理に取りかかったのだ。特に損傷が酷い左脚は全体を簡易パーツと交換し、単体での修理を行っていた。
「了解した、すぐ戻る」
『脚の交換が終わったら、今度はボディの補修だ。装甲にかなり傷がついてるからな、全部直すにはそれなりに時間がかかるぞ。P3と万全の態勢で戦いたければ、俺に黙って妙な行動は取るんじゃない』
若松の口調は、ぶつぶつ文句を独り言に乗せて言うのと同じようにこもっている。全ての修理を完了し、全身の正常な駆動をするまで短くて二週間、長くて一ヶ月というところか。
AWPもP3との戦いを長期化させたくないはずだ。次に戦う時は、自ずと決着をつけることになるだろう。
その間に、潜伏場所を突き止められないことを祈るばかりだ。相手は世界有数の巨大コンツェルンであり、どこでこちらのことを嗅ぎ回っているかわからない。若松の言う通り、あまり動くべきではなかった。
P2は軽く頷くと、今まで佇んでいた高層ビルの真下へ視線を送った。夜も更けたビジネス街の歩道からは人影はとうに絶え、ビル内の明かりも殆どが防犯用のそれだ。
屋上を片足で蹴り、暗灰色のボディが宙に飛び出す。
垂直にそそり立つビルの壁面を次々と移動する影は、企業という顔の見えない欲の塊が作り出した負の情熱を背負っている重さを纏い、鈍く輝いていた。




