第40話
秋もようやく深まりを見せてきた十月下旬の夜は、乾いた空気が派手なネオンに彩られて浮かれているようだった。涼しくなって過ごしやすさが身にしみるのは、どんな人種の者でも一緒だろう。
様々な出身国の人間が暮らす東京は、波乱に満ちた人生を送りながらも活気溢れる者の生命力に養われている街だ。その巨大な懐では何万人もの民が眠り、目覚め、笑い、怒り、生まれ、そして死んでいく。
街は数え切れない生命を抱いて栄養素を貰う一方、彼らが出す毒素もまた享受する。その毒素が渦巻いて淀むにつれてその一角は荒廃し、それを覆い隠そうとしてけばけばしい装飾が施されるようになり、結果として更に毒を集めてしまうことになる。
しかもそこは夜の見た目が美しいから、始末が悪い。
いつもなら仕事が終われば迷いもなくその中に身を投じていたが、今夜はそんな毒の掃き溜めから離れていたかった。
車窓の両側を光の筋となって流れていく夜景は、未来の硬い瞳に侵入することを許されない。
彼女の愛車であるビートルのメーターが、一四〇キロを超えようとしている。都心ではあまり飛ばしたことはなかったが、今はただ何も考えずにスピードに流されていたかった。
昼間のC-SOLで起こった襲撃事件の後片付けは、午後十時を回った今の時間でも続いているだろう。
未来はまだ他のスタッフが奔走しているのを尻目に、疲労があるだろうからと自宅に戻るよう大月に指示されて帰宅する途中だった。
だが、早々に帰宅命令を出されても、当然そんな気にはなれない。愛車のニュービートルで当てもなくあちこちを流し、ふと気づいたらこの時間というていたらくだった。
普段は高速道路脇に広がる夜景を見ると、美しさに多少は心も穏やかになるが、今は光の全てが鬱陶しくすらある。いっそ、深い闇の中に沈んでしまいたい気分だ。
『お前がサイボーグにされた理由は、命を助けるためではない。車両事故も、AWPによって予め計画されたものだ』
P2に告げられた事実を思い出すと、心臓が止まるかと思うような重さがずしりと胸にのしかかる。壊れたパワードスーツを脱いだときから感じ始めていた痛みが酷さを増して蘇り、息をするのも苦しいほどだった。
未来の頭の中は、戦闘中に緊張して考えられなかったことに支配されていた。
自分は故意に起こされた事故で殺されかけ、命を助けることと引き換えにサイボーグの実験体にされたこと--
これは敵である旧型サイボーグP2がAWPのサーバから抜き出したデータにあったもので、未来を動揺させる目的でもたらされた偽情報などではない。
また、P2と共に失踪していた若松が一同の前に姿を現した際に、捨て台詞として残した言葉も棘を出して未来の心の襞に引っかかっていた。
『仲間はあまり信用しないほうが身のためだぞ?何たって、お前を騙してサイボーグにした連中なんだからな』
この一言で、未来が事実を掴んだのは仲間の皆も知るところとなった。
しかし生沢、杉田、リューは激しい動揺を示すか、一体何のことなのかも全く把握できなかったようで、大月とは示した反応が全く違っていたことも思い出されてくる。
恐らく彼らは未来と同じく本当のことを知らず、心からの善意で協力してきたのだろう。それが非人道的な行いの片棒を担がされていたと知ったのだから、彼らも被害者だと言えるのかもしれない。
あの後すぐ、大月との短いミーティングが持たれたようだったが、そこで具体的に何が話されたのかは未来が知るところではなかった。
そして未来がC-SOLを後にするまで誰も戻って来ず、見送ることすらしなかった。逆に皆は自分をあからさまに避けているようで、まるで腫れ物にでも触るかのような態度を取られた気すらしたのだ。
かと言って、自分と同じく欺かれていた誰かに謝ってもらって済む問題ではない。だから誰も何も言い出せないのだろう。
そう頭ではわかっているものの、心では納得できていない。やはり何か一言くらい欲しかった。
「……あ、今のところ!左だったのに」
ぼんやり考えている間にスピードを落としそびれ、うっかり三宅坂ジャンクションを通り過ぎてしまった。未来のマンションがある新宿方面はこの先の竹橋ジャンクションまで走り、池袋を経由する遠回りのルートを取るか、代官町で降りて一般道を行くかのどちらかだ。
「ええと、どうしようかな」
九〇キロまでスピードを落として左車線に移り呟いた未来は、左手首のダイバースウオッチで時間を確認した。平日も深夜近い時間となり、首都高速は車の数も少なくなってきている。
バックミラーに映り込んだ自分の瞳は、今にも泣き出しそうな気配だ。
このまま部屋に戻っても、きっといいことはない。
同じ暗い気分に浸るとしても自宅以外のところで落ち込んで、暖かいベッドの中は安息の場所としてそっと置いておきたい気分だった。
「……どっか、公園にでも行ってみよう。この時間なら、人もいないだろうし」
一人になれる場所があるところと言えば、それぐらいしか思い浮かばない。
ウインカーを出して右車線に移ると、未来は再びアクセルを踏み込んで一二〇キロまでスピードを上げた。
シルバーのビートルが丸い車体にネオンの光を纏い、首都高を北上していった。
P2に破壊されたAWP棟の片付けは、とても一日で終わるものではなかった。
各階の被害は思ったより酷くはなかったものの、壁に穴が穿たれ、手榴弾の破片や巨大な弾丸が床や天井に食い込み、激しい戦闘の痕跡が残されている。
それらの修理は後日実施することとされ、事件当日である今日は殉職者の遺体を回収して施設内の破損度合いをチェックし、目立った障害物を片付けるのが精一杯だった。明日以降からグループ会社に協力を要請し、本格的な補修が始まる予定となっている。
幸い医療設備や開発機器に大きな損害はなく、未来のパワードスーツの修理や戦闘データの分析は翌日から再開できる運びとなりそうだった。
リューが消火器を吹きかけて破損させたサーバの復旧だけは数日かかるが、毎晩外部メディアにバックアップを取るという運用だったため、データの消失は皆無に近かったと言える。
「これも、未来やリューが計算して戦っていたお陰なのか……」
自分の研究室に戻ってきた杉田が、窓にかかったブラインドの隙間に顔を近づけた。
カクテルライトで照らされた中庭にはつい先ほどまでパワーズの応援部隊が忙しなく動いていたが、今は人の姿もまばらで夜の静けさが戻ってきている。時間は既に二三時を回っており、残っているのはAWP棟の主要職員と特殊警備隊員たちだけだ。
P2の再襲撃に備えて新たな特殊警備隊員が配備され、今もAWP棟近隣の警戒に当たっている。
今の段階で可能な片付けが終わり、AWPのメインスタッフは自室の被害状況を確認していた。
こちらもリューの研究室の自動ドアが壊された程度で、他の部屋の物理的損害はほぼなかったに等しい。棟全体で使用されていたHARは戦闘時に何台か破壊されていたが、こちらもグループ企業が開発したもののため、数日で新品が届くとのことだった。
現在の被害状況を大月に報告するため、杉田は自室を出て同じフロアにある彼女の研究室へ向かった。
途中、暗い廊下の窓から見える新宿方面の夜景にふと足を止める。新宿には確か、未来が所長を務める便利屋の事務所があったはずだ。
物理的な損害についてはいくらでもリカバリがきくが、気になるのはやはり未来のことだ。
若松が一同に対し投げかけた最後の言葉に、杉田は数秒間息をするのを忘れていた。
未来は事故を装って殺されかけ、なりたくもなかったサイボーグに無理やり改造された。
その事実を知っても、親しくしていたスタッフの誰がどこまで関与していたのかも知らされず、ろくな話もしないうちに、一人施設から帰されてしまったのだ。
どこにも感情をぶつけることのできなかった未来が、どれほど深く傷ついたか想像もできない。
杉田や生沢、リューとて騙されていたのは同じであったが、自分たちは怒りをぶちまける場があるだけ、まだましだったのかも知れなかった。
未来が武装を解除しに行っている間、中央管理棟の応接室に大月、生沢、杉田、リューが集まっていた。皆は一様に疲労しながらも復旧に努めねばならず、その合間をぬってのミーティングである。
簡素なテーブルと椅子しかなく、大人四人が入ると手狭になる窮屈な部屋で、生沢が着席するなり言った。
「一体どういうことなんだ?説明しろ。お前が知っていること、これまでにやったこと。全部だ」
未だに燻り続けている憤りを何とか肚の内に納めているらしい生沢は、それでもまだ感情が声に出るのを隠し切れていない。
彼に続き、リューも席についた大月へと鋭い視線を向た。
「私も改めて伺いたいですね。さっき若松とやらが言っていた、我々が未来を騙してサイボーグにした、というのは……どういう意味があるのかを。口から出任せに言った嘘ではないと判断できる以上、我々には知る権利があると思います」
淡々とした、と言うよりは醒めた態度を取るリューは、普段と変わりなく見える。が、彼もまた明確な答えを持っているであろう女上司を見る目に、厳しさがありありと窺える。
同僚二人の感情の揺れを目の当たりにしている杉田とて、例外ではない。
ただし、若き医師が最も強く感じているのは不安であった。
未来と仲間である自分たちがこれまで共に過ごし、積み上げてきた日々を突き崩すような敵の発言。
全てがあっけなく崩壊するのではないかという恐れを、彼はいだいていたのである。
「大月さん!」
震える声で、杉田が大月の言葉を求める。
しかし、それも女上司の纏った冷たい美しさを持つ仮面の表面を滑り、弾かれた。
言葉による答えはなく、男女四人の間に沈黙が立ち込める。
六つの目は全て、身じろぎ一つしないスーツ姿の女に向けられていた。
「未来は……」
ほどなく、落ち着いた低い声がリップグロスの塗られた唇から漏れた。
「未来は、このプロジェクトが四方八方の手を尽くして準備した実験体。つまりサンプルということよ。それは間違いないわ」
額に落ちかかってきた漆黒の髪を押さえながら、大月は淀みなく言葉を連ねる。
準備された実験体という表現が、大月の考える未来のAWPにおける位置を示していた。
全ては「戦闘に特化した強化人間を産み出す」プロジェクトのために。
研究の成果を上げるために、将来ある女性の身体を奪い、絶望を味わわせ、その人生までも捨てさせた。
そればかりでなく、あの事故に巻き込まれた幾つもの若い命をも踏み台にしたのだ。
こんなことが許されていいはずがない。
人道を無視したこのプロジェクトが、正しい方を向いているわけがない。
そんなことのために、自分は再生医療に魂を捧げたのではない!
言いたいことは心の奥から湧き上がってくるのに、杉田はそれを言葉にすることができなかった。ただ溢れ返る感情が爆発しないように唇を噛み締め、骨が浮き出るほど握りしめた拳を震わせるだけで必死だった。
肺が縮こまって息苦しさを訴え、胃もきりきりと締めつけられて嫌な痛みもたらしてくる。
青い顔で胸に手をやる杉田とは対照的に、大月は全く表情に変化をきたしていなかった。
ふてぶてしさすら感じさせるほど落ち着き払っている大月へ、リューが今一度問いかける。
「そこへ至る過程には法律に何ら触れるところがないと、そう仰りたいんですか?」
元軍人の青年は完全な詰問調となっていたが、大月は悠然と頷いて見せた。
「そんなのは司法が判断することよ。私の知ったところではないわね」
「証拠はないということか。あの事故が故意に引き起こされたという、その具体的な証拠は存在しないと?」
「何も問題は出て来ないはずよ」
生沢から更に斬り込まれても、彼女の態度に変化はない。
自身の美貌について触れられる時以外は、決してその鉄面皮を崩そうとしない大月のことだ。はったりの可能性も捨てきれないが、法を侵して未来を手に入れたのが本当のことだとしても、それを裏付ける証拠はとっくに隠滅した、というのが正しいのであろう。
何より、あの事故からは実に二年が経過しているのだ。
完璧に処理する時間など、余るほどにあったに違いない。
しかし未来が被験者となった当時、彼女は瀕死の重傷を負っていた。故に正常な判断力がなかったと見なされれば、どこに責任が生じてくるかは自ずとわかる。
生沢は、静かにその齟齬を突いた。
「サンプルとして自分の肉体を提供することに、本人の明確な意思がなかったとしても?」
「なかった、というのは違うわね。当時の会話は音声つきで監視カメラに記録されたものがあるし、ある程度回復してから取った自筆の誓約書もある。それにそうしなければ未来は確実に死亡するか、一生寝た切りの身になっていたでしょうよ。本人の生きたいという思いを尊重したのは、むしろこちらだと判断されるでしょうね」
AWPが故意に事故を引き起こしたことが証明されなければ、そこから先のことは大した問題ではない。逆に、死にかけていた未来を現代科学の粋を集めた技術によって蘇らせたのはこちらなのだから、美談にこそなっても非難されることなど決してない。
今回発見された調達依頼書の一つだけでは、確かに何の証拠にもならないことは明白だった。
あんなものが残っていたこと自体は単純な削除ミスなのであろうが、そこを起点として事の全貌を明らかにするのは不可能に近い。全ての証拠は間違いなく、抹消されているのだから--
大月は、言葉はなくともそう語っていた。
全てを下に伝えることなく実行していた彼女は、未だに表情を崩さない。




