第31話
「杉田先生はそこの火災報知器を作動させて、三階の武器開発室へ先に行って下さい」
廊下の途中で足を止めたリューが言うが早いか、杉田に未来のヘルメットを放った。
杉田の両腕に、五キロを越える重量のヘルメットがずしりと重くのしかかる。
思った以上の重さにバランスを取りつつ、ヘルメットを受け取った杉田は戸惑って言った。
「リューはどうするんだ?」
「すぐに私も行きます。早く!」
元国防軍中尉の命令は強く鋭い。
杉田はほぼ反射的に、壁にある火災報知器のボタンを押した。刹那、けたたましい警報のベルが鳴り響く。
重いヘルメットを抱え直した杉田の視界の隅に、廊下の端にあった消火器を抱えて戻ってくるリューの姿があった。
ハーフの青年はそのまま杉田の横を走り抜け、セキュリティカードのスロットが壊された自動ドアをくぐり研究室に駆け込んでいく。彼は自分の研究室を一気に縦断し、やはり自動ドアが壊されているマシンルームに踏み込んだ。
ここはセキュリティ上ドアが一つしかなく、研究室を通らなければ入室できない場所であった。巨大なラックに収められた各種サーバの冷却ファンと空調機から排気音がひっきりなしに上がる空間の奥に、物理的に切り離された最も安全なサーバ群がある。未来の設計図や改造履歴、手術の詳細といったデータ類は膨大な量があるため、十数台のストレージに分散させて置いていた。
先日の不正アクセスも、恐らくP2と若松の仕業だろう。サーバが閉鎖環境になるまでにディレクトリ構成をどこまで調べ上げているかはわからないが、全ディレクトリにアクセスし必要な情報を拾うには、それなりの時間がかかるはずだ。
敵がまだデータの構造を探り切れていないことを祈りながら、リューはマシンルームの奥を目指していく。
マシンルームの最深部に設置されたラックが見える同時に、P2の光る腕が目に入った。
通常ならラックの表と裏を塞ぐ扉は施錠されているはずだったが、今は無残に双方の扉が破壊されており、中のケーブル配線が全て見える状態になっている。
リューは網状になっている床を踏み鳴らす音も気に留めず、更に数歩踏み入った。その気配に、サーバ本体裏側にあるポートに指を触れさせているP2が顔を上げる。
瞬間にリューが息を止め、構えていた消火器をラックの裏側目掛けて噴射した。
鉄製の扉をこじ開けられたラック裏は、サーバの電子部品部の保護が最も薄い箇所だ。凄まじい勢いで吹き付けられた液状の消化剤と噴霧がファンを覆うメッシュ部分を通り抜け、あっと言う間に内部を浸食する。
リューが消火器一本分の薬剤を使い切る数十秒の間に、サーバは耳障りなエラー警告のビープ音を上げて機能を停止した。
『何だ、何が起こった?』
突然真っ白になった視界を認めた若松の慌てた声が、P2の頭に響く。
「さっき逃げた奴の片割れだ。サーバに消火器を吹き付けて、破壊を試みたようだな」
『何だと!まだデータは取り出せるのか?』
「やっているが駄目だ。電源部分が完全にやられたらしい。データストレージを持ち出すのも、短時間では不可能だろう。仮に全てのストレージを取り外せたとして、こんな大きなものを壊さずに運ぶことはできん。ここが敵地でなければ別だが」
若松から浴びせられるであろう質問を全て予測して、P2は先回りに答えていた。
『情報を奪われるより、破壊した方がましという選択か。味な真似をしてくれる』
ぎりっ、と若松が歯ぎしりを漏らした。
辺り一面にはまだ消火器の粉煙がもうもうと立ちこめており、視界はゼロに近い。
P2は熱反応センサーの画像をオンにしたが、辺りにサーバ機器以外の熱源は確認できなかった。データ破壊を試みた敵は、とっくに逃げ去っていたのだ。
リューは消火器を使い切ってすぐ、マシンルームから離脱していた。
少なくともこれでデータを短時間で取り出すことはできないはずだ。
廊下へ飛び出して階段を転がるように下り、三階の武器開発室に急ぐ。火災報知器の警報がうるさく避難を促し、慌てた助手たちが非常口へ殺到する中、リューは人混みをかき分けて武器開発室に滑り込んだ。
設備がリューの研究室とほぼ同じ室内に助手たちはおらず、近くのデスクにある内線で中央管理棟に連絡を入れている杉田の姿があるのみだった。
「ええ。五階マシンルームに不審者侵入です。武器を所持している可能性が高いんですが、まずはAWP棟全体を閉鎖して、誰も……もしもし?もしもし!」
そこで杉田の顔色が変わり、受話器を叩きつけるようにして内線を切った。
「どうしたんです、杉田先生」
穏やかな彼らしからぬ様子に、側に寄ったリューが思わず声をかける。
「ああ、リューか。無事に戻ってきてくれて何よりだ。内線が突然使えなくなって」
「……そうか、内線はIP電話でしたね。P2が細工して、通信不可にしたのかも知れません」
「そんなことができるのか?P2は!」
リューが無傷で戻りほっとしていた杉田だったが、その顔は直ちに驚きに上書きされた。
「さっきマシンルームで見たんですが、奴はサーバの外部端子に触れてデータを読み取ろうとしてました。IPの設定を変えたり、無線の状態でも、アクセスポイントを介して社内システムに侵入すらできるのかも知れません」
言いながら、リューは自分用の引き出しを鍵で開けてショルダーホルスターを取り出し、愛銃であるコルト・ガバメントのマガジンに手早く弾丸を装填し始めた。
「AWP棟全体の状態はどうなってますか?」
「五階で火災発生ということにはなってるけど、中央管理棟には不審者侵入で報告した。各研究室には一括で避難命令を出してるから、もうすぐ完了するだろう。全員避難後にここは立入禁止にすると伝えようとしたけど、途中で内線が使用不可になって。未来のパワードスーツと専用装備、例の通信装置は専用エレベーターで一階に下ろして、助手の誰かが運び出したことまでは確認してる。後は大月さんたちに連絡して、僕たちが避難するだけだ」
「了解しました。流石は杉田先生、私がやって欲しかったことは漏らしてませんね。今ここに未来がいたら、見直してたと思いますよ」
リューが心から杉田に送った賞賛だったが、反応は薄い。普段通り声に抑揚がないため、今一つ伝わり損ねているようだ。
「からかうなよ。それよりもリュー、まさかP2と戦う気でいるのか?」
リューの腰には閃光手榴弾と煙幕弾を目一杯詰めたポーチが下がり、ショルダーホルスターにはコルト・ガバメントが収まっている。更に参考として研究室に置いてあったアサルトライフルを両手に構えたリューを、杉田は驚愕の瞳で見やっていた。
「それこそまさか、です。P2は人間が何人束になっても、かなう相手ではありません」
P2に互角の勝負を挑めるのは、同じサイボーグである未来だけだ。
それは彼女を鍛えているリュー自身が、誰よりもよくわかっていることだった。
「私たちも逃げるんです。ただしその前に、ここに誰も残っていないか確認する必要があります。この装備はまあ、気休めですね」
と、リューが隣にあるデスクから、先日生沢医師に渡そうとした拳銃を取り上げて差し出した。
「弾は込めてあります。使い方は覚えていますね?」
緊張が混ざりだしたリューの手を拒むことはできなかった。頷いて、杉田がポリマー製の拳銃であるスミス&ウェッソンM990を受け取る。
「念のためにもう一度説明します。ただし、この後はどうなるか私にも予測がつきません。研究室から出たら、絶対に私の側を離れないでください」
東京の臨海地区を走る高速道路は、絶景を臨めるところが多い。秋の空は高く澄み、窓の外ではようやく心地良い温度まで下がった風が海から吹き渡ってきているのだろう。
ただ、生沢が吸いたいのはそんな爽やかな空気ではない。慣れないスーツを着た居心地の悪さを紛らわしてくれる、タバコの煙だった。
「私の車は絶対禁煙よ」
「んなこたぁ、百も承知だ。ライターもマッチも持ってないだろ」
助手席で火のついていないタバコを右手の指先に弄ぶ生沢を牽制し、大月が横目でちらりと視線を送ってきた。苛立ちを隠さず、生沢は大袈裟に左手を開いて振って見せる。
大月も自分の車を運転しながら、神経を尖らせているようだった。
時刻は昼をとうに過ぎ、二時を回ろうとしていた。
AWP統括担当の大月と現場責任者である生沢は、朝八時半からケルビムの緊急本社会議に直行していたのだ。会議は延々四時間、一二時半まで休憩なしに続行され、これでも急いでC-SOLに戻ろうとしているところだ。
会議の前半二時間は、吊るし上げ大会だった。
今回問題になっていたのは何と言ってもケルビムのデータベースに不正アクセスがあったことで、大月や生沢には直接関係はなかったが、その煽りを食って管理体制の甘さを指摘された形だ。
また、未来が旧型サイボーグのP1と交戦したことも話に上がった。
これは戦闘時の状況や詳細なデータが報告書と画像によって公開され、三番目のサイボーグの優れた性能が実戦時に大いに有用であることを証明したことになった。今後も実戦への投入に向けて研究を継続していく方向性がはっきりと定められ、AWPの位置づけは今までと変わらないものであることも固まった。
この長時間に及ぶ会議で、当然今の時間まで彼らは飲まず食わずだ。
空腹が二人の怒りっぽさを増幅させているだけだったが、かっちりとしたスーツに身を包んだ妙齢の男女のその様子は、恋人同士の痴話喧嘩に見えないこともない。
しかし、もし今が満腹で窓の外の夜景が美しく、このイタリア高級車が禁煙車両でなかったとしても、生沢が隣の美女に対して本能的な感情を抱くことはないだろう。彼は今までに何度も大月の車に同乗していたが、一度たりとも欲情を覚えたことがなかったのだ。
「早く降りて一服したいのは山々だがな、もうちょっとスピードは落としとけよ」
湾岸線の有明インターチェンジまであといくらもないのに、大月専務が運転する真っ赤なアルファ・ロメオのメーターは一六〇キロを越えている。
「心配しなくても、今この時間に鼠捕りはいないわよ」
「お前は早く昼飯にしたくて急いでんのか?」
「空腹なのはダイエットで慣れてるから」
言いながら大月がやや乱暴にハンドルを切って左車線に入り、速度を落とし始める。
彼女の運転に、生沢のがっちりした身体が揺られてシートベルトが食い込んだ。
「お前の運転が荒っぽいのは相変わらずだな。マニュアル車だからって、急発車ばっかり繰り返す未来よりはまだましだが」
「……悪かったわね、オートマ限定で」
再び大月はアクセルを踏み込んで、右車線に入った。すぐ先を走っていたワーゲンを追い越し、もう一度左車線に移る。
「おい、危ねえな!どうしてお前はそう、未来が絡んだ話になるとむきになるんだ」
「あら、失礼。でも、むきになった覚えはないわよ」
今度こそ本気で抗議した生沢だったが、大月は涼しい顔を崩さない。
が、大月はあらゆる点で未来の存在が気に入らないのだろう。
可愛らしい容姿に生来の群を抜いた運動神経、細い身体に不似合いなほどにまで優れた、戦士としての素質。そのどれも生まれつき個人に備わっていた才能であり、今まで苦労を重ねて今の地位を築いてきた大月には、そんな若輩者の未来が自分と同じプロジェクトにいることさえ癪に触るのだ。
女の同性に対する嫉妬と言うのは、まこと厄介なものだった。
と、大月の完璧にメイクを施し整った横顔にちらりと眼をやった生沢が軽く息をついたとき、スーツの内ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。何年も使い込んで塗装が剥げかけている黒い携帯電話を引っ張り出し、ディスプレイの番号を確認してから着信ボタンを押す。
「杉田か。どうした?」
けだるそうに電話に出た生沢だったが、伝えられた杉田の言葉に片方の眉を動かした。
「何ぃ?寝言は寝てから言えって……」
生沢は更に言葉を続けようとしていたが、遮られたらしくそこで口をつぐんでいる。十数秒ほど受話器を耳に押し当てたままの姿勢でいるが、表情が次第に緊張を帯びたものになる。タバコを挟んだままの指を髪に突っ込みかけるが、掻き毟るのを忘れるほどの話が伝えられた様子だ。
「俺たちが留守にしてる間に、また厄介なことになったようだな」
生沢が低く、押し殺した声で呟く。運転している大月にも、捨て置けぬ内容であることが伝わったようだった。
「生沢くん、C-SOLで一体何があったの?」
大月が強い調子で杉田と生沢の電話を中断させる。僅かに躊躇った生沢だったが、携帯電話の外部入力をオンにして耳から離した。
「杉田くん、私よ。C-SOLで何があったのか、もう一度話してもらえるかしら」
『大月さんですか?あの、先日資料で回されてきたPrototype2、P2がAWP棟のセキュリティフロアに侵入して来たんです』
「……何ですって?そんなこと、あるわけが……」
「残念だが事実だ。一体、どこからどうやって入って来やがったんだか」
一瞬ハンドルを握る手を硬直させた大月の表情が、生沢の静かな一言で険しいものに一変した。
車中の二人は、携帯電話のスピーカーから流れる杉田の声をエンジン音から注意深く拾い続ける。
『どうやって侵入してきたかは不明です。ただ、サーバルームでデータを盗もうとしていました。それはリューがサーバを停止させたので、何とか阻止に成功しています。敵がどう動くかがわかりませんでしたから、火災発生と言うことにして所員は避難させてます。中央管理棟へは不審者が侵入した旨を報告したところで内線が不通になって……恐らく敵がIPに細工をしたのではないかと思われます。僕とリューは、これからAWP棟内に残っている者がいないかどうかを確認して、避難するつもりです』
「建物や他の研究員への被害は?」
大月が前方から視線は動かさず、緊張して尋ねる。
『今のところありません。大月さんたちは、未来に連絡をお願いします。彼女の装備と例の通信装置は助手に頼んで、中央管理棟に運んでもらっているはずです。それから、僕たちが避難した後にAWP棟は閉鎖します。未来が来るまで、他の誰も入れないようにお願いできますか』
「わかった。俺たちももうC-SOLの手前まで来てるが、直接中央管理棟に向かう。お前たちは気をつけて行って来いよ」
『大丈夫です。それより、一刻も早く未来への連絡を頼みます』
杉田はなるべくしっかりした口調で話すよう心がけているようだったが、その声が僅かに震えているのが、生沢には聞き取れた。
自分が何もできないのは歯がゆい。しかし、サイボーグのP2とはサイボーグの未来しかまともに戦えないのだ。
生沢とて野戦病院にいたわけではなく、こんな事態は初めてだった。避難が間に合っていれば負傷者が出ることはないだろうが、中央管理棟で応急処置の準備はしておいた方がいいだろう。
今は後輩たちと無事に落ち合えることを、ただ祈るしかなかった。