第3話
杉田と生沢が国防陸軍病院に到着したのは、それから十分後であった。
病院正面の車寄せに音もなく滑り込んだ車の制御されたドアが開くのももどかしげに、二人の医師が入口の自動ドアの中へと走っていく。
両開きのガラス扉をくぐったすぐ先に、ダークスーツの上に白衣、足元はハイヒールといういでたちの女性が立っていた。待ち構えていたと思われる白衣の女は、入院着の患者や介助ロボットたちが行き交うロビーの隅にいても目立っている。
彼女はまっすぐに走り寄ってくる二人の医師の姿を一瞥すると、素っ気ない口調で言い放った。
「遅かったわね、二人とも」
低めの声は女の鋭く攻撃的な美貌と相まって、周囲の温度を低くする作用すらある気がする。
黒っぽいタイトスカートから突き出した脚は細く、しかしその上に在る半身は決して貧相ではない。均整の取れた全身に端整な、大人の色気を十二分に湛えた顔は、およそ欠点のない完璧な美しさを具現していると言えよう。涼やかな目元を強調するメイクのためにその視線は迫力を増していて、彼女が溢れさせている自信を嫌でも感じさせた。
白衣を纏っていても隆起の激しい身体を窺わせる立ち姿を前にして、杉田が気圧されたかのように立ち止まる。一方で彼よりも更に前へと進み出た生沢は、平然と荒っぽい文句を叩き返した。
「文句なら、オートナビと車のメーカーにでも言っとけよ。患者はどこだ?」
髭面の中年からいきなり本題を突きつけられるのは自らの意思に沿わない展開だったのか、女の細く整えられた眉が僅かにしかめられる。
「生沢くん。旧型なんかどこから手に入れてるのか知らないけど、身体中がタバコ臭いわよ。それに、そんな格好でこの病院に入るつもりでいるの?」
「んなこたぁ、どうでもいいだろ!早く患者のとこへ案内しろってんだ!」
話し声や案内の電子音声でざわついた受付ロビーに、生沢の怒鳴り声が混ざる。何事かと振り返るメディカルスタッフや見舞い客たちの視線をよそに、白衣の男女二人の間にたちまち険悪な空気が満ちた。
今にも口論が始まりそうなその場へ、慌てて杉田が割って入る。
「あの、大月専務……僕も生沢先生も、患者の状態は車内で確認しました。準備さえできているのなら、すぐに処置に当たれるようにはなっていると思います。彼女はどこに収容されているんですか?」
「ICUよ。そこを入ってすぐの、処置室の奥。即時オペができるように、もう手筈は整ってるわ。最新のカルテも渡すから、まずは直接状態を見てちょうだい」
自分よりも十歳ほど若い医師が控え目に進言してくるさまに、大月と呼ばれた女も大人気なく口喧嘩をしている場合ではないと判断したのであろう。彼女はすぐ突き放したような口調に戻って、二人の医師の前へ脇に抱えていたタブレットを突き出した。
全医療機関共通規格のごく薄い端末を生沢が受け取り、事前に聞いていたパスワードでロックを解除する。すると、自分たちが見ていたものからも更にアップデートされたらしいカルテが開かれた状態になっていた。
「ふむ……」
内容に素早く目を通した生沢が、低くこぼしながら一度だけ頷いた。
患者の容態は幸いにも悪化していないようだったが、いつ死亡してもおかしくない重篤な状態であることには変わりがない。一刻も早くオペに踏み切る必要がある。
「後は俺たちでやる。大月、お前はもう助手や立ち会いの連中に説明を始めとけ」
一度決断した生沢の行動は早く、彼はきびきびとした動きで顔を上げた。今も同じだらしなくよれた白衣姿であるのに、つい先刻まで愚痴りながらタバコをふかしていた姿と容易に結び付かない。
「相変わらず、危機的状況にならないと行動が迅速にならないのね。彼女はやっと手に入った、貴重なサンプルなのよ。くれぐれも、使いものにならないままの身体にはしないでちょうだい」
しかし、大月は生沢のやる気になるまでが遅いところを普段から見せつけられているのだろう。皮肉そうな口調と態度を隠そうともしない。
逆に生沢本人は、患者をあくまで実験体としてしか見ようとしない大月に、抑えていた憤りが再び膨れ上がるのを感じていた。が、少なくとも今は個人的な感情を優先させるべきではない。思わず鋭い舌打ちを漏らし、彼は冷たい美しさを湛えた同僚の顔を横目で睨んでから言った。
「今はお前の嫌味に付き合う時間も惜しい。杉田、行くぞ」
「あ……は、はい!」
言うが早いか、早足でICUへと向かった生沢の背を杉田は慌てて追いかけた。
それでも去り際に大月へ短く頭を下げたのは、言葉で多くを発しなかった若き医師の女上司に対する苦手意識の現れであった。
杉田と生沢は、ICUの入口を監視している受付ロボットの目にIDカードを突きつけ、認証用コードを読み込ませた。彼等が病院関係者であることが一瞬で認識され、丸っこく愛嬌があるロボットの胸に内蔵されたLEDが青く光る。
「お通りください」
合成音の一言とともにガラスの自動ドアが開くと、隣接している救急処置室からの慌しい雑音が二人の耳に飛び込んできた。
患者はその反対側にある一番奥のベッドに横たわっていたが、「間未来」のネームプレートがなければ、きっと彼女の肉親でも気づかないに違いないであろう。
そう思えるほどに、彼女の姿は事故前の写真とはかけ離れた外見になっていた。
若く、女の一生のうちで最も美しさが輝いている時期にある筈の肢体は、殆どが包帯で覆われていた。その下からも体液が滲み出し、褐色の不規則な模様を浮かび上がらせている。点滴やカテーテルを挿入するため、僅かに覗かせた皮膚さえも火傷で真っ赤にただれ、医療従事者でなければ反射的に目を背けるであろうほどに痛々しい。
彼女の顔も、ほぼ同じ状態であった。頭全体に包帯が巻かれ、僅かに露出した目鼻と口許も水ぶくれが酷い。それでもまだ何とか命を肉体に繋ぎ止めていることは、ぼんやりと視線を散らした瞳がしきりにまばたきを繰り返していることから判別できた。
ベッド脇では生命を維持するための様々な機器が働き、接続されているチューブや電極が無数に細い身体に突き立てられている。人工呼吸器からはしゅうしゅうと規則正しい音が漏れ、心電図や脳波を休みなく取り続ける複合測定器からも、小さな電子音が上がり続けていた。
それらは、女の身体が弱々しく上げる悲鳴を必死に伝えようとしているかのようだ。
二人の医師が更にベッドのすぐ側まで来ると、血と薬品の臭いが混ざった悪臭がむっと鼻の粘膜を刺してくる。
応急処置は一通り施されているが、早急に手術しなければならない危険な状態だと、生沢と杉田は一目で判断がついた。にもかかわらずもっと積極的な治療が行われないのは、AWP責任者たる大月の指示である。
「間……未来さん?」
杉田が声をかけると未来の虚ろに開いた瞳が僅かに動き、「はい」と言おうと唇が震えた。しかし、喉を切開して人工呼吸器を繋いでいるせいで声は出ない。
救急担当の医師や看護師の話では、未来は搬送直後の処置中から「お母さんに知らせないで」と呟き続け、肉親への連絡や麻酔の使用を拒み続けていたらしい。看護師が彼女が望むまで連絡はしないことを約束すると、やっと大人しく処置を受け入れ始めたという話だ。
普通であれば家族にも知らせて当たり前の重態なのに、何故そうまでして彼女が身内を拒絶するのかがわからない。生沢と杉田が先に閲覧した治験開始時のデータでは、身元もきちんとした家庭の娘だった筈である。そこに合わせて貼られていた顔写真にも、育ちの良さを窺わせる知的さがあったのだ。
こんな瀕死の状態でなければ、未来はあの写真と同じように愛らしくも聡明そうな女の子だろう。
目の前にいる全身大火傷の重傷患者が、資料にあった写真と同じ人物だとは到底判別できない。写真と患者の顔とを頭の中で見比べていた杉田の表情が、悲しげに曇った。
この患者に、運命を左右する重大な決断を正常に下せるわけがない。命が助かる可能性があるなら、それが何であっても藁にもすがる思いで処置を望んでくるだろう。
命を助けるために改造手術を施すのに間違いはないが、それは一企業の利益のため命と引き換えに、人生を差し出すよう要求することでもあるのだ。
杉田は胸の奥に鈍痛を覚えた。
死にかけた若い女性に、一体何と言えばいいのだろう?
彼は未来に声をかけたはいいが、次の言葉を考えあぐねているようだった。その様子を見て、杉田の隣に立つ生沢が未来の顔に軽く手を翳し、制するようにして言った。
「声は出さないで。今から俺たちが状況を説明する。幾つか質問するから、『はい』ならまばたき二回。『いいえ』ならまばたき三回。わからなければ目を閉じて。いいね?」
ゆっくりと、未来がまばたきを二回する。
「ようし、いい子だ」
生沢が優しく未来に頷いて見せ、ベッドの脇に膝をついた。顔を近づけてから、彼は諭すように話を切り出す。
「まず俺は生沢真吾、こっちは杉田理人。君の主治医だ。次に君の今の状態だが……すぐに手術をしないと危ない。あの事故で両手足は複雑骨折、内臓も酷く傷ついているし、全身に大火傷を負っている。今は薬が効いてるからあまり痛くはないだろうけど、このままでは君は死ぬことになる。わかるね?」
丁寧に生沢が説明すると、未来のまぶたが二度まばたきをした。頷いて、話を続ける。
「ただ、普通の手術では元通りの身体にはできないかもしれない。そこで」
一度息をつき、なるべく穏やかな口調で医師は言葉をつないだ。
「身体の損傷が酷い部分を、人工のものと取り替える。ただ、これはまだ人間に使われたことがない。医療用に作られたものじゃないから、本来の君とは違う姿になってしまうかもしれない。でも、こうしないと治せない可能性が高いんだ。ここまではいいかい?」
二度のまばたきが、話の続きを促した。
「そして、これを使った場合だけど。治った後も身体を保つため、これを作った研究機関で君の身体を診ていく必要がある。言ってみればテストで……君の治療に使わせて欲しい。君を助けるためにはこれしかない。それでもいいかな?」
今度は素早く、二度のまばたき。薬で虚ろな未来の瞳に、僅かながら生気が戻ったような錯覚さえ覚えさせた。
「よし。俺たちが、必ず君を助けてあげる。だから今は安心してお休み」
もう一度、生沢が温かさを感じさせる口調で言った。
それで落ち着くことができたのか、未来の半開きになっていた瞳が静かに閉じられる。今まで気を張って、何とか意識を失うまいとしていたのだろう。ようやく、鎮痛剤の効果に身を委ねる気になったようだった。
患者が眠りに落ちたことを確認し、生沢が立ち上がる。
「よし。すぐオペにかかるぞ」
「……はい」
すぐに踵を返して外で待つ大月と合流しようとする生沢に対し、杉田の返事は遅く重い。
生沢が振り返ると、生真面目な青年医師が苦い表情のままで立ち尽くしている姿が視界に飛び込んでくる。
先にした未来への説明が不十分であること、やはり命を交換条件にして軍用サイボーグの被験者となるのを承諾させたことに、納得が行っていないのだろう。頭ではわかったつもりでいても、感情がついていかないのだ。
しかし生沢は、後輩の骨ばった肩先を普段と何ら変わらない顔で軽く叩いた。
「今はこれしかできることはねえ。彼女の命を助けるために、全力を尽くす。それが、俺たち医者なんだ」
天才外科医は未だ積極的でない杉田を叱責するでも、激励するでもない。ただ自分が考えたことを率直に伝えるだけの、さらりとした話しぶりだ。
それだけに、自らが医師であることの覚悟と重さとを却って感じさせる。
医者ならば、消え行こうとする命を放っておけない。まして、救うための方法がはっきりしているのなら。少なくとも今は、それ以外のことを考えるべきではない。
先に車中でも感じた思いを再度心で反芻し、杉田は雑念を取り払おうと無言で頷いた。
「僕の作業に必要な細胞採取と培養の器具は、一通り揃っているんですよね?」
「ああ、ここには何だってある。俺たちの手で、あの子を救うぞ。必ずな」
眼鏡を無意識に直していた後輩の声が活気と張りを見せ始めたことを受け、生沢が最後の一言に重きを置く。
「はい!」
杉田も自らの持てる全てを尽くして救命処置に当たる姿勢を、返答に込めた力強さで示した。
とにかく、何もせずに命を失わせることは二度とごめんだった。
目に見える範囲の生命をできる限りは守り、救いたい。
幼き日に感じたあの無力感を、自分の見知った人物の死を確かめることすらできなかった虚しさを、もう繰り返して味わいたくはない。
自らが医師を志したときの誓いを心に呼び出した杉田は、生沢の広い背中を追って走り出していた。