第26話
ミーティングが終了したのは、午後八時になろうかという頃だった。
たっぷり五時間はかけた話し合いだったが、結局翔子の処遇は最後まで未決のままだ。
長時間のミーティングにぐったりした男性一同は、ふらふらと外の新鮮な空気を吸いに廊下のガラス戸から外廊下に出ていた。三人が並んで壁に背中を預け、研究所内の明かりに揃って照らされている。
「で、生沢先生。本当に彼女を関係者にするつもりなんですか?」
「当たり前だろ。それが平和的に解決できる唯一の方法なんだからな」
自動販売機で買った熱いカップコーヒーをすする杉田の隣で、生沢がタバコをふかしている。
「大月が反対しようが何しようが知らん。現場の責任者はあくまで俺だ。この件に関しては、あいつにゃ口出しさせん。何かあったら全責任は俺が取るから、任せとけ」
「大丈夫なんですか、そんなこと言って。もし本当に何かあったら……」
「お前は女を見る目がねぇなあ、杉田。鈴木翔子は未来を女神みたいに思ってる。その子が、未来と愉快な仲間たちから頼まれごとをすれば嫌だと言うわけがないだろ」
「私は、少なくとも愉快じゃありませんが」
杉田の更に隣でぼそりと呟いたリューが飲んでいるのは、ホットチョコレートだ。
「まあ、とにかくだ。守秘義務の誓約書くらいは取らなきゃならんが、鈴木翔子を関係者にする目的はもう一つあるんだよ」
「何です?」
「お前まで、そういう大月みたいな目で俺を見るなよ」
生沢が吸い殻を携帯灰皿に突っ込んだところで、胡散臭そうな視線を向けてきた杉田を見返した。
すっかり縮んでいる白衣の袖をまくってから、髭面の医師がのんびりと二本目のタバコをくわえて火をつける。
「彼女に未来の監視をやってもらうんだよ。未来もあれでなかなかに気難しい奴だからな。いくら俺たちが主治医だと言っても、腹を割って話せないことだってあるだろう」
「それは……そうですね。特に僕たちには弱いところを見せまいとしてるみたいですし」
「あいつが、自分の脆さを毛嫌いする傾向にあるのは確かだ。だから今まで身体に不調があってもすぐに伝えてこなかったようだし、俺たちだって定期メンテ以外ではそんなところまで目が届かん。その点鈴木翔子なら、未来の異常にすぐ気がついて知らせてくれるだろうさ」
やや冷えてきた夜の空気に向かって煙を吐き出す生沢へ、杉田が驚きに満ちた目を向けて頷いた。
「なるほど……さすがですね。僕はそこまで考えつきませんでした」
「おいおい、俺をおだてても何も出ないっての。それよりここから先はお前の仕事だからな、しっかりやれよ」
「……へ?」
「何、鳩が豆鉄砲喰らったような顔してんだよ。鈴木翔子を関係者にするのはお前がやれ。俺が必要な書類を用意しとくから」
生沢の方へ身を乗り出していた杉田の、眼鏡の奥にある瞳が見開かれていた。が、すぐにはっと我に返ってくってかかっていく。
「そんな!言いだしっぺは、生沢先生じゃありませんか。ここで責任逃れするつもりなんですか?」
「責任逃れ?心外だな。女嫌いのお前に、更正する機会をくれてやった良き先輩だと言えよ」
「僕はそんなことを頼んだ覚えはありません!」
「そう言うな。あんなかわいこちゃん二人を一度に相手できるなんざ、野郎だらけのこの研究所内じゃ滅多にない機会なんだ。お前も後になって、俺に感謝する日がきっと来るさ」
「……かわいこちゃんって、死語なんですが」
いつの間にか壁に背をつけたまま、しゃがんでいるリューが小声で突っ込みを入れる。
「リューも!ココア飲んでないで何とか言ってくれよ!」
「私は三次元より二次元の人ですから」
助けを求めたつもりが、呟いたリューの言葉に杉田は敗北を認めざるをえないようだ。
「そういうこった。お前なりに頑張れよ」
タバコをくわえたまま生沢がにやりと笑い、後輩の背を叩く。
「そうと決まれば善は急げだ。あんまり遅くなると、鈴木翔子も寝ちまうだろうからな。それに深夜に女の部屋に忍んでいくのは、余計に気が引けるだろ」
「わかりましたよ、わかりましたから手を離してください、生沢先生!」
そのまま杉田が着ている白衣の襟首を掴んで、生沢が強引にその細身の身体を入口の中に引っぱった。
じたばた暴れる杉田を見るリューは、我関せずとばかりにホットチョコレートをすすり続けているが、一瞬杉田の視線が恨めしそうに顔を横切っていく。
「んじゃ、俺は研究室にいるからな。いい結果を持って帰って来いよ」
内廊下に戻った生沢が、杉田をセキュリティエリアに向かって突き飛ばす。
ずれた眼鏡を直して最後の抗議を目で訴えてくる杉田に手を振り、生沢はさっさと研究室に戻った。
「あら、まだ休憩中?今日の議事録、明日の朝までに仕上げて提出をお願いするわね」
研究室の自動ドアを開けると、大月が個人端末を抱えて退出しようとしているところだった。が、生沢は場所を譲らずにそのまま立ち塞がっている。
「通してちょうだい。私、また本社に戻って他の重役にも報告しなきゃならないから」
早口になっている大月の気を削ぐように、生沢が溜息を漏らした。他の研究員まで届くかと思われるような深い溜息だったが、研究室にはもう誰も残っていない。
「大月。ちょっと気づいたことがあるんだが」
「明日にしてくれない?急いでるのよ」
「リューからお前に報告が行ってパワーズの特殊警備隊が現場に着くまで、一時間はかかっていなかったようだな。いくらヘリを使ったとは言っても、妙に早いと思わないか?」
大月は生沢の横をすり抜けようとしたが、生沢のゆっくりとした口調に細い眉を動かした。
「……未来がリューに連絡する前に、私に連絡をくれたのよ。その後に気絶して、一度目が覚めたときにリューに連絡した。だから、実際はもう少し時間がかかってると思うけど」
「ふうん、未来の携帯にお前の連絡先が入ってるとは初耳だ。未来もお前も、お互いあんなに気が合わず話もしないのに。そもそも、未来の携帯の発信記録にお前の番号はなかったみたいだが」
生沢の目から、いつも杉田に向けられている暖かさが消えていた。
鋭く冷たく、理性的な男の言葉が刃となって大月に滑っていく。
大月はハイヒールで床を踏み鳴らし、三歩手前に戻って生沢の顔を睨んだ。
「何が言いたいの?」
「ケルビムやセラフィムの上の連中も、俺やリューに回されなかったような詳細があるサイボーグの貴重な実戦データが手に入って、大喜びしてるだろうな。おまけに邪魔な存在だった金城も片付いた。で、お前は相性が悪くていけ好かない小娘の未来が、大怪我を負っていい気味だと思っている。AWP発足当初からこのプロジェクトに携わり、全てのサイボーグについての情報を持てる可能性があったのは、メンバーの中でお前だけだ」
「私がP1に未来を襲うよう命令したとでも?私にも、P1の情報は、軍部から伏せられていたというのに?」
冷笑を浮かべた大月の表情には余裕が窺える。そこまで言うのなら証拠を出してみろと言いたげな顔だが、次の生沢の指摘に再び細い眉を跳ね上げた。
「それにP1って、ミーティングではそう呼んでなかったよな。そいつは金城の開発コードか。未来は確か……」
「軍が寄越してきたデータにそう書かれてたし、私はこのプロジェクト発足当時からずっと関わっていたのよ。忘れたの?その当時の呼び名を知ってたって、別におかしくも何ともないでしょう」
「ということはだ。当時の軍関係者とのパイプを持つことも、さして難しくはないってことになるな」
いちいち言葉尻を救い上げてくる生沢に、大月も流石に我慢が限界に達したのであろう。
が、彼女は先のミーティングのようにヒステリックな声は上げなかった。逆に凍りついた雪を思わせる重圧のある冷たさを孕んだ声を、生沢へストレートに滑らせてくる。
「いちいち突っかかってきて、一体何のつもり?」
「聞きたいのはこっちだ。お前、これから何をしようとしてる?」
生沢の声が低くなる。
大月には聞き慣れない声のせいか、研究室全体が静まり返った気さえした。
「私は自分の職務に忠実であろうとするだけよ。それは貴方も同じじゃない、生沢先生」
「俺は医者としての本分を守る。しかし、俺の周りでモラルを崩壊させるようなことをこそこそと陰でやる奴がいたら、本気でそいつを叩き潰すつもりだ」
「そうね、ご立派だわ。これからもお互いの領分をきちんと弁えて頑張りましょうか」
涼しげな顔で言った大月が、生沢の顔を見上げる。
そこには驚きも、困惑も、焦りもない。
細い腕が熊のように大柄な身体を押しのけ、スロットにIDカードを通す。
大月のスーツ姿が廊下に消えてからも、生沢医師の瞳から疑惑の色は消えることがなかった。
「あの、鈴木さん。ちょっといいかな?」
未来の病室を覗いた杉田が囁き、翔子を招き寄せる。
ベッド脇のパイプ椅子に座っていた翔子が振り向くと、未来が安らかな寝息を立てて眠っているのが見えた。翔子がそっと立ち上がり、病室の明かりを暗くしてから廊下に出てくる。
「どうしたんですか、杉田先生?」
「うん、ちょっと……貴女に話があってね。ここじゃなんだから、カフェテリアにでも」
不思議そうな翔子の顔から目を逸らし、杉田は先に立って彼女をセキュリティエリアの外へ連れ出した。翔子の処遇が決まるまで、彼女にも未来と同じタイプになっている隣の個室があてがわれている。そこで二人きりで話すよりも、他の者がいる場所の方がずっと気が楽だった。
都会的なインテリアが洒落た雰囲気のカフェテリアは、AWP棟に入ってすぐの場所にある。
時間はもう夜八時を過ぎてはいたが、カフェテリアの営業時間は午後十時までだ。C-SOL全体でコンビニエンスストアを除けばここが一番遅くまで営業している飲食店のため、かなり遅い時間である今でも人の出入りは多い。
杉田と翔子は、黒っぽいカウンターでバゲッドサンドやベーグル、マフィンを買い求める若い研究員たちの側を擦り抜け、空いている席を取った。
「私にお話って、何なんですか?」
杉田が買ってきたホットカフェラテのカップを受け取ると、黒い丸テーブルに向かい合って座った杉田に翔子が目線を合わせてくる。
彼女は治検実施時に女性被験者が着用する、淡いピンクの館内着姿だった。C-SOL到着時に所持していたものは全て、別の場所に保管されている。
「えっと……何て言うか。その……」
杉田は翔子に目線を合わせられず、機械的な動作で自分のコーヒーを口に運んだ。店内に流れている落ち着いた雰囲気のジャズも、彼の心までは鎮めてくれないようだ。
杉田は、女性全般と話すのが苦手だった。大月には今でこそ口応えできるようになってきてはいるものの、初対面の頃にぎこちない態度を取り続けて、何度も不興を買ったものだ。
未来はずっと患者として見ているせいで意識しなくて済んでいるが、翔子についてはそうはいかない。
女嫌いの原因は、小学生の頃にまで遡る。
杉田は生まれつきで左腕の内側にひょうたんの形をした痣があったことと、習い事の華道が女々しい趣味だということで苛められていた。それも、陰口や集団での無視、学級の連絡事項を杉田一人に教えないなどの陰湿な苛めは、主に女子から受けていたのだ。
それ以来、母や三人の姉すら信頼できなくなっていた時期さえあった。
成人した今は流石に何とかなってはいるが、女性が苦手になってしまい、今まで彼女の一人すらいたことがない。
そんな杉田に、男の保護欲を掻きたてるタイプである翔子と一対一で話すのに緊張するな、という方が無理な話であった。
「あの……ひょっとして、未来先輩のことですか?」
「そう、それ!」
翔子に促されて身を乗り出したはいいが、やはり二の句が継げず杉田は沈黙した。
「あ……そうだな。鈴木さんは、サイボーグの存在って信じる?」
「はぁ?」
これには、翔子も口をぽかんと開けて聞き返した。
しまった、と杉田がばつが悪そうな顔になって姿勢を正す。
「サイボーグ、って……SF映画とかでやってる人造人間、じゃなくて。ロボットみたいな改造人間のことですよね。それと未来先輩が、何か関係あるんですか?」
赤面して咳払いをする杉田医師へ、翔子は訝しげに質問を返していた。
「そう。彼女……未来は、普通の人間じゃない。そのサイボーグなんだよ」
「え……」
「二年前、未来が事故に遭って会社にいない時期があったことは、鈴木さんもよく覚えてるだろう?あのときの事故で、彼女を助けるにはサイボーグ化するしかなかった。そのときの手術を担当したのが、生沢先生と僕だったんだ。ただし彼女をサイボーグ化するに当たり、ある条件があった。それは命を助ける代わりに今後一生、移植した部品のメンテナンスをこの研究所で続けることと、データを取らせてもらうということ」
杉田がそこで言葉を切ると、翔子が頷いて先を促した。
「ところが、改造に使った部品は戦闘用サイボーグのものでもあるんだ。だから身体能力も戦闘能力も普通の人間を遥かに超えてる。その彼女を狙って、とある国の傭兵部隊が攻撃を仕掛けてきた」
「……それが、私をさらったあの人たちだったんですか」
意外と素直な反応の翔子に驚きつつ、杉田が先を続ける。
「奴等は未来が全員倒し、貴女を救出した。ただ、酷い怪我をしたのは知ってるね。それに未来は、僕たちに今回のことを知らせることなく、一人で立ち向かった。多分、誰かに知らせれば貴女を殺すと脅されてたんだろうけど」
「でも……先輩は何かあっても、自分だけで何とかしようとする人ですから……」
翔子が目を伏せかける。翔子は、純粋に未来のことが心配なのだろう。
「問題はそこなんだ。未来はどこか身体の調子がおかしくなっても隠そうとするし、重大な事件があった場合にも、自分一人で解決しようとする。だから、鈴木さん。貴女にお願いがあるんだ」
「私に?」
驚いて顔を上げ、翔子が自分の顔を指差した。
「そう。未来の様子を見て、少しでもおかしいところがあれば僕か、生沢先生に教えて欲しい。ただ、関係者として企業秘密に抵触するところがあるから、守秘義務に関係した誓約書は取らせてもらわないといけないんだけど……」
「もちろんです!未来先輩の役に立てることだったら、私……何だってやりますから!」
話しかけの杉田の先を遮った翔子は、嬉しそうな笑顔を人懐こい顔に浮かべて声を弾ませていた。
「今からだともう遅いから、明日生沢先生と一緒に書類を持って部屋に行くよ。それに記入してもらったら、鈴木さんはもうこの研究所から出ても大丈夫だから。今日は、遅いのにどうもありがとう」
「はい!こちらこそ、ありがとうございます!」
杉田から礼の言葉を聞き、翔子が足取りも軽く椅子から立ち上がる。そのままぺこりと頭を下げると、まだ熱いカフェラテを持って部屋に戻っていった。
翔子の様子を見送っていた杉田は深い吐息を漏らし、椅子の背もたれへ脱力したように体重を乗せた。やはり、初対面に等しい女性と話すのは激しく精神力を消耗する。
この研究所の内情や詳細は伏せたままで、何とかうまく説明することができた。
それに、翔子は未来の役に立てるとわかって心から喜んでいるようだ。未来はいい部下に恵まれているのだろう、とも思う。
「よお、色男。何とかうまくいったみたいだな」
後ろからぽんと頭を叩かれて、杉田は口に含んだホットコーヒーを吹きそうになっていた。
「い、生沢先生!盗み聞きするなんて悪趣味ですよ!」
「女が苦手とか言っときながら、未来のことが絡むと普通に話せるじゃねえか。お前らが、ここにいるとは思ってなかったんだよ。安心しろ、聞いてたのは最後の方だけだ」
にやにや笑っている生沢が、翔子が座っていた椅子を引いてどっかりと腰を下ろした。手に持ったエスプレッソから湯気が上がっているのが、今の台詞が事実であることを証明している。
「それでも、緊張はしてましたよ。うまく話せてほっとしてるんです。それよりも生沢先生、まだ帰ってなかったんですか」
ふくれっ面の杉田が、生沢のために隣のテーブルに手を伸ばして灰皿を取る。
「書類の準備に手間取っててな。まだ一仕事あるから、追加で休憩しにきたとこだ」
と、エスプレッソに口をつけた生沢が、椅子に深く座り直してカップをテーブルに置いた。
「ついでだから、今話しておかなきゃならんことを言っておく」
杉田の正面を向いた生沢の顔はもう笑ってはいなかった。いつもの軽い口調ではなく、心なしか声も低いように思える。
「……何です?」
自然と、杉田の崩れていた姿勢が伸びる。
「リューにはもう言ったことなんだがな。ケルビム社内に限ってのことで、AWPで作り出されたサイボーグには開発コードが設けられている。例の金城拓也はPrototype1こと、P1ってコードだ」
杉田が頷くと、生沢がエスプレッソを一口すすってから続ける。
「で、未来はPrototype3。通称P3。俺が何を言いたいか、わかるな?」
生沢の声が更に低く響いた。
金城が初のサイボーグでP1。その完成七年後から開発が始まった未来はP3。
導き出される結論は一つだけだった。
杉田が緊張した面持ちで、呟くように言った。
「……Prototype2が存在してるんですね。そして恐らく、金城と同様に破棄された」
「ああ。そいつは五年前、俺がこのプロジェクトのメンバーになったとほぼ同時に失踪してる。厄介なのは、メインの開発者が連れて逃げたってことだ」
生沢の言葉の一つ一つが、黒いテーブルの上に重く残る。
二人の白衣の男は、夜更も更けたカフェテリアの磨かれた床に濃い影を落としていた。