第23話
未来の目覚めは唐突だった。
コンクリートの地面にうつ伏した姿勢から、勢いをつけてがばっと起き上がる。後ろには先ほど脱出した病院の裏口が口を開けており、内側についたぼろぼろのカーテンが風に揺れていた。
辺りはまだ暗く、気を失っていたのはほんの短い時間のようだった。
「……翔子ちゃん?」
反射的に辺りを見回した未来が、驚いて呟いた。
裏口横に座らせていた翔子の姿がない。薬が切れて目を覚まし、助けを呼びに行ったのだろうか。
だが、傷ついた未来を放っておくような娘ではない。もしかしたらまだ敵の生き残りがおり、再び捕らえられてしまったのではないか。
悪い予感が未来の胸を過ぎった。
幸い、リューへの連絡はもうついている。急いでこちらに向かってきてくれているはずだ、と自分を励まし、彼女は立ち上がった。
途端、バランスを崩しそうになり慌てて踏みとどまった。とてつもなく手足がだるく、まるで骨が鉄か鉛に変わったかのようだ。
先ほどまで傷の激痛をモルヒネで抑えて戦っていたのだから、少し意識を失っていたからと言って回復していないのは当然だ。
「……殺せ」
その時不意に、遠くない位置からしわがれた男の声が上がった。
左に振り返ると、建物の陰からアサルトライフルを構えた男たち三人が、足を引きずりながら迫ってきていた。先に倒したと思った、テロリストの連中だ。
彼らの服や装備は穴だらけで血まみれだった。顔を見ると、ゴーグルが外れて眼球が飛び出している者までいる。
「あんな状態になっても、まだ生きてたって言うの!」
顔をしかめて、未来は足のホルスターからデザートイーグルを抜いた。
彼らは麻薬中毒にさせられて痛みを感じていないとは言え、瀕死の重傷を負っている苦しみはあるのだろう。
今度こそ引導を渡すべく、続けざまに三度デザートイーグルの引き金を絞った。
それぞれの弾は彼らの胴、頭、胸に命中し、血飛沫と肉片を爆発させるように飛び散らせた。
「殺せ……」
恨みが込められた低い呻き声は、まだ止まらない。
男たちは倒れなていなかった。中には頭がないのに、まだ歩いてくる者もいる。
「化物め、殺せ……」
「……ちょっと……うそだよ、こんなの」
頭を吹き飛ばされた状態で、何故動けるのか。普通なら胸と胴を撃ち抜かれただけでも即死するはずだ。
彼らは未来のことを化物と言っているが、自分たちのほうがよほど化物ではないのか。
「化物……殺せ……」
繰り返される言葉。未来は激しく頭を振った。
「やめてよ。あんたらみたいな連中に、化物呼ばわりされたくない!」
上ずった声で呻く未来の背中と掌に、じわりと汗が湧いてきた。
血まみれの死体も同然の男たちが迫り来るおぞましさに吐き気を覚え、じりじりと後退りする。彼らには手に持つアサルトライフルを撃とうという気はないようだ。
ならば、ここは一旦引いたほうがいい。
直感して、未来が敵に背を向けて走り出そうとした時である。
「未来ちゃん、化物の肩を持つんでしょう」
そこに、いるはずのない母が佇んでいた。
驚いて足を止めた未来に向けられた目は、母親のものとはとても思えないほどに冷たく、侮蔑に満ちた色だった。
「お母さん、貴女を化物になるような子には育てていないのよ。そんな仕事してるから、人間じゃなくなってしまったのね。お母さんが思った通りになってくれなくて、残念だわ」
やめてよ。
私、今大怪我してるんだよ。
一言も慰めてくれないの?
化物なんかじゃない。
血が通った人間なんだよ。
お母さんの娘なんだよ。
それなのに、何でそんな冷たい目で見るの?
もうやめてよ!
未来は叫んだつもりが、どんなに喉を振り絞っても声が出なかった。
化物。
化物。
母と死人に等しい男たちから投げつけられるその単語だけが、暗く淀んだ空へ虚ろに轟いていく。
やがてその響きは未来のいる空間全てを支配し、全身を低い音で責め立てた。
目に見えぬ、耐えられないほどの重さが背中にのしかかり、彼女は膝をついた。
「やめて……私、化物なんかじゃない。人間だってば……お願いだからもうやめて!」
震える両手で耳を塞ぎ、硬く目を閉じて絶叫した未来は泣いていた。
「……先輩、未来先輩!大丈夫です、落ち着いてください!」
聞き覚えのある女性の声が、未来の耳に遠くから届いてくるような気がした。
そこを起点として、先まで感じていた恐怖が現実のものではなかったことが実感できた。
その上全身が突っ張ったように動かせず、身体の中で動かせる筋肉が強張っていることを実感させられた。
まずは全身の力を抜くことから始めていくと、息が荒くなっていて、汗まみれの不快な感触が肌にあることがわかってきた。
左手にも最初は感覚がなかったが、そのうち自分が仰向けに寝かされている状態で、毛布を握り締めていたことも感じられる。
目の周りがべたついている気がするのは、涙が出ていたせいだろう。
未来は呼吸を落ち着けてから、ゆっくりと目を開けた。
「……先輩」
蛍光灯の眩しさに思わずもう一度目を閉じた彼女が見たのは、泣き出しそうな翔子の顔だった。
「翔子、ちゃん?」
一言だけ言ってから目を再度開けたが、声はひどく掠れて低くなっていた。
「良かった、気がついてくれて……」
翔子が未来の左手を確かめ、涙を浮かべている。悪夢にうなされていた未来の手を、ずっと握っていてくれたらしい。
後輩は一度その手を離して、未来の額に浮いた汗をハンカチで拭ってやる。
「あれ、ここは……」
未来は翔子の様子をぼんやりと眺めつつ、周囲を確認して呟いた。
ここはC-SOL内にある、嘗て未来の病室として使われていた個室だ。小型のプラズマテレビやスターチスが活けてある花瓶、パソコン等の備品は全て以前のままのようだ。
未来はそのベッドに、やはり改造手術を受けた当時のように寝かされていた。
両脚には包帯が巻かれ、右腕がギブスで固定されており動かせない。毛布の上に出ている左腕にも大きな絆創膏やガーゼが貼りつけられていて、チューブに繋がれた点滴スタンドがベッドの傍らに立っている。顔に触れてみると、頬にも切り傷と打撲の治療が施されているのが確認できた。
「そっか。戦ってて……怪我して、それで」
未来はこれまでのことを思い出すまで、数分の時間を要していた。ぼんやりと呟くと、ベッドの横のパイプ椅子に座っている翔子が頷いて見せる。
「先輩、緊急手術が終わってから、三日間ずっと眠ったままだったんですよ……私、本当に心配したんです。今、コールで杉田先生たちを呼びましたから」
「……って、翔子ちゃんがどうしてここに?」
「私、あの場所に座ってて……ものすごい音がしたから、それで目が覚めたんです。何かと思ったら、ヘリが何台か飛んできてて。私と先輩を乗せてくれたんですけど、その他にも変な車が沢山来てるみたいでした。不安になってヘリに乗ってた人に聞いてみたら、セラフィムの系列会社で、パワーズの特殊警備隊だから心配いらないって言われて。すぐに私たちをここに運んでくれたんです」
「そっか……」
まだ覚め切らない意識の下、未来は呟いた。
パワーズはセラフィムのグループ企業で、武装警備員の訓練及び派遣、犯罪調査や兵器開発が専門だ。
リューが手配してくれたのだろう。元軍人なだけあって、処理の素早さは流石だ。
「翔子ちゃん……怖い目に遭わせてごめんね」
「そんな!捕まったのはもともと、私がちゃんと非常時に自分の身を守れなかったせいなんですよ。未来先輩が責任を感じることじゃありません。それよりも、助けに来てくれた先輩をこんな酷い目に逢わせたことの方が……」
未来が申し訳なさそうに声の調子を沈ませると、翔子は手と顔を振ってとんでもない、と言いたげな表情になった。
「でも、翔子ちゃんに怪我までさせて……私が事務所にまで私事を持ち込んだから、こんなことになったんだし」
「怪我って、これですか?」
未来の言葉に、翔子が顔に当てられている大きなガーゼを指差す。
「これ……実は私、薬で眠らされる前に一度、尋問されて。その時に先輩のことを何でもいいから喋れって言われたんです。死んでも話すつもりはない、って答えたら殴られて。もうちょっと、答え方を考えなきゃいけなかったんですよね」
照れたように笑い、翔子は続けた。
「でも、顔に傷は残らないって話ですから大丈夫です。折れた歯もちゃんと治してくれるって」
「そんなに強く殴られたの?」
未来の表情が曇ると、翔子は慌てて言った。
「あ!正確に言うとですね、私その平手の一撃で気絶しちゃったんですよ。だから殆ど痛いって思ってなくて。先輩が考えてるような痛さはありませんでしたから」
「……ごめんね。本当に……何て謝ったらいいんだか……」
「もう!大丈夫って言ってるじゃありませんか。先輩は私のことよりもまず、自分のことを心配するようにしてください。先輩の方が、私なんかよりもずっと重傷なんですから」
暗くなりがちになる未来に対して、翔子の言動は普段とまるで変わらない。
彼女の明るさに、幾らか救われたような気さえした。青ざめていた未来の顔に少しだけ赤みが差し、口元に僅かな微笑みが浮かんでくる。
そこへ、病室入口の自動ドアが開く音が割り込んだ。
「未来、気がついたかい」
杉田のほっとした声が聞こえた後に、生沢とリューも連れ立って病室に入ってきた。
「……みんな」
未来の表情が怯えたように温度を下げる。
「心配しましたよ。目が覚めて何よりです」
「とりあえず診察だな。お二人はちょっと出てくれるか」
珍しく安堵したような口調のリューの後に、生沢が続けた。
リューと翔子が頷いてベッドから離れると、生沢がベッドを囲っているカーテンを閉め切る。その中にHARだけを呼び寄せて、杉田と生沢が未来の診察を一通り行った。
「まだ血圧が低いようだな。まあ、目が覚めたばっかりじゃあしょうがないか」
「心拍も少し弱めみたいですね。未来、暫くは安静を守ること」
血圧測定結果を確認した生沢に聴診結果を報告した杉田が、未来の方に向き直った。
「一応君の怪我の状態を説明しておくよ。まず、右腕は手首より上が亀裂骨折、つまりひびが入った状態。これは手術とスパイダーの投入をして、亀裂部分は全部塞いである。ただ、骨膜が安定するまでは痛みがあるからね。動かさないでいること。それから、両脚に地雷の散弾として入ってた鉄の球。これも全部手術で取り出してあるけど、組織の回復まではやっぱりそれなりに時間がかかる状態だ」
「まあつまり、お前もたまには訓練を休んで、ゆっくりしろってこった。強化骨が折れたり、大きな血管や臓器を傷つける怪我じゃなかったからな。治りは早いと思うが、焦るんじゃないぞ」
真面目に説明する杉田の後ろに立つ生沢が、満面の笑みを浮かべながら言葉を継いだ。髭面の医師は茶化すような口ぶりだが、未来の状態が思ったよりも安定していることにほっとしたのだろう。
「……はい」
こくん、と未来が頷いたが、生沢は怪訝そうな顔をした。
「どうした?あんまり素直なのはお前らしくないぞ」
「だって……てっきり、みんなに怒られるもんだと思ってたから」
未来は左手で毛布を鼻の上まで引き上げ、目だけで杉田と生沢を交互に見やっている。
「一人だけで戦ったことに関してか?怒るのはいつでもできるだろ。それは、お前がちゃんと元の身体に戻ってからでも遅くないからな」
診察用具を片付ける杉田を尻目に、生沢がカーテンを開けた。
待ち構えていたリューと翔子が、ベッドの脇まで寄ってくる。
「そうです。あの過酷な状況の下、たった一人でよくあそこまで戦いました。今は何も考えずに、身体を回復させるのが貴女の仕事です」
「ありがとう。リューがそんなこと言ってくれるなんて意外だよ」
いつもの垢抜けないファッションのリューを寝ながら見上げ、未来が微笑む。
「言葉の選択も臨機応変にしなくてはなりません。それに、貴女は気づいていないかも知れませんが、身体ばかりでなく心も相当に傷ついているはずです。それを癒すために、優しさは必要なんです」
リューの言うことは、相変わらずストレートだ。
思わず杉田が苦笑し、一同に目配せする。
「未来は目が覚めたばかりだけど、まだ眠って体力を温存させる方がいいから。鈴木さん、悪いけど、未来が寝るまでここにいてもらっていいかな?」
翔子が頷くと、未来も黙って目を閉じる。
男たち一同は、なるべく音を立てないように病室から退場していった。