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第2話

 FZ5006の最適適合者が見つかった。

 ただし、事故に遭って瀕死の状態になっての話であるが。

 一命をとりとめるために残された手段は、最早一つしか残されていない。

 生沢、杉田の両名はこれより指示する場所に急行し、然るべき対処に当たること--


 つい先刻に受けた命令が、杉田の頭の中で嫌と言うほど繰り返されていた。

 都心湾岸部の道路を疾走する自動運転のリアシートで、車体がカーブに差し掛かる度、膝の上のタブレット端末に置いた手も滑りそうになる。


 オート・ドライビングのモードは到着時間を優先してセットしてある故、多少の乱暴さには目を瞑らねばならない箇所はある。が、同じように到着時間を優先しても人間が運転するのなら、同乗者にも配慮したよりましな運転になったのではないか。

 いくら科学技術が発展したとしても、所詮機械は機械だ。完全に人間の代わりになどなれはしない。


 杉田はずり落ちてきた眼鏡を直しながらディスプレイ上に開かれたカルテを見つめていたが、考えは一向にまとまってくれなかった。

 ディスプレイではカルテの横にもう一つウインドウが開いており、そこには刻々と変わるバイタルサインや脳波が、黒い画面に鮮やかな色で描き出されている。今向かおうとしている病院からリアルタイムで送られてくる命のシグナルは健常者のそれではなく、主が生死の境に向かいつつあることを示していた。


 まさに、この人物--「最適適合者」の命は自分たちが握っているのだ。

 研修時代以降久しく臨床現場から離れている杉田の額に、嫌な緊張の汗が浮いてくる。

 彼がのりのきいた白衣の袖で無意識のうちに額を拭うと、ふと隣の座席に座っている人物が独り言のようにこぼしてきた。


「例の新薬の適合者が見つかって、その矢先に都合よく事故に遭ったとはな。世の中、うまくできてるもんだ」

「うまくって……そんな言い方、あんまりですよ」


 不謹慎な内容をぶっきらぼうな口調に乗せた言葉をそのまま受け取った杉田は、思わず嫌悪感を顔に出して返してしまった。しかし杉田の横でだらしなくシートに背を埋めている男は、無精髭だらけの口許を歪ませただけで、特に言葉を荒げたりはしない。


「皮肉だ。そんぐらいわかれよ」


 男は返答に嫌味をたっぷり含ませると、よれよれの白衣の胸ポケットに手を突っ込んで潰れたタバコの箱をつまみ出した。しかし一本取り出した紙タバコをすぐにくわえることはせず、指先で弄ぶばかりである。

 きっと杉田と同じように、送られてきた無機質なメールの全文を頭の中で反芻しているのだろう。

 冒頭部分にあったFZ5006とは、国内最大手の製薬会社であるケルビムが開発した免疫抑制剤の開発コードだ。これは臓器移植後の拒否反応を長期的に抑止できるとされ、同系列の会社では期待と注目を集めている新薬である。


 そしてその裏で十年以上前から進められていたのが、人間の身体に強化パーツを埋め込み、極めて優れた戦闘能力を有する個体を作り出す、極秘国家プロジェクト「AWP」だ。

 FZ5006が人工パーツ移植時の拒否反応においても有効なら、AWPにおいて新たな実験体の開発成功に大きく貢献する素材であることは言うまでもない。


 走り続ける車のリアシートに座す杉田とその隣の男とは、AWPでも中心の位置で移植手術を担当する医師である。自分たちがメールでプロジェクトの研究所から呼び出されたのは、つい三十分ほど前のことだった。


「上が被験者の候補を見つけるのに焦ってるのは僕も知ってましたけど……でも、このタイミングって言うのは、いくら何でも……」

「まさか俺も、こんなことになるとは考えちゃいなかった。てっきり、報酬を渡す直前に好条件をちらつかせて、釣り上げるもんだと思ってたからな」


 普通なら、それが妥当と癒えるだろう。

 それがたまたまその人物がFZ5006の治験で車両事故に遭ったのだから、これ幸いと被験者になることを承諾させようとしているのだ。火事場泥棒と言うのもまだ甘いかもしれない。被験候補者に命の取引を持ちかけるなど、倫理的な観点からも許されることではあるまい。

 車に揺られる二人の男たちは、言葉に出さずとも互いに感じていることは同じであった。

 無精髭の隙間からタバコをくわえ、安っぽいライターで火をつける男の様子を尻目に、杉田が再びタブレットに向き直る。


 患者のデータを常に確認できる位置に移動させてから、今度はブラウザを起動させた。先に届いたメールでは患者の巻き込まれた事故の情報が全くなかったため、インターネットで情報を掴んでおこうと考えたのだ。

 ブラウザのアドレスを、ブックマークしてあるショートカットから交通ニュースの専門サイトに切り替え、見出しをざっと拾い読みする。

 だが、規模の大きな事故であると想定されるのにもかかわらず、それらしい記事は見当たらない。白い背景で、時刻と事故の概要だけがずらりと並んだ簡素なサイトに目を走らせ続けながら、杉田が呟いた。


「結構な規模の事故だっていうのに、どこにも情報が流れてないなんておかしいですね」


 最適適合者発見の続報として受け取ったメールには、事故は治験参加者の乗るバスが高速道路の高架から落下して炎上したとあった。これほど大きな事故なのに、ネットに何もないのは不自然だ。

 眼鏡を直しながら首を傾げる杉田に、隣から皮肉っぽい言葉が向けられる。


「情報統制だろ。大月の奴、適合者だけを軍の病院に運ぶよう手配したらしいからな。一人だけ違う系列の病院に搬送したことが後でわかったら、面倒なことになりかねねえんだよ」


 タバコをふかしている男は、流れる車窓の景色を眺めつつも苛つきを隠そうとはしていない。

 オートモードで目的地へ向かう車は、運転に慣れたドライバーと同程度の速度で走り続けている。しかし、この男にとってはそれがもどかしいのだ。口では渋々ながらも重傷者の処置に当たるという姿勢でいるものの、本心ではその容態が気になって仕方ないのであろう。


 それが杉田と同じ立場でもあるこの男、生沢慎吾の性分であった。

 伸び放題の髭面に着古した白衣、その下はやはり数年は着回しているラフな私服姿の生沢は、四十手前のベテラン医師としての威厳とは全く縁がない。初対面の者など、彼が「奇跡を呼ぶ男」として名高く、外科手術の世界的権威であることが信じられないだろう。


「ちっ。まだあと三十分はかかりそうだな。それまで何とか命が保ってくれればいいが」


 送付されてきている電子カルテをもう一度確認しようと杉田がタブレットの画面を切り替えた横で、生沢は乱暴にシートへ背中を投げ出した。

 その言葉が、身体の内側を嫌な感じで締めつけたのだろう。杉田はふと手を止めて傍らに置いた鞄を漁り、中からプラスチックのピルケースとミネラルウォーターのペットボトルを取り出していた。


「また胃薬か?飲み過ぎると、しまいにゃ効かなくなるぞ」

「生沢先生こそ、旧型たばこの吸い過ぎですよ。いくら天才外科医でも、自分の肺癌を手術はできないんですからね。せめて、電子たばこに変えたらどうです?」


 白い錠剤を口に放り込み、味も素っ気もない水で胃に流し込む後輩の棘がある言葉に、生沢がむっと言い返す。


「んなこたぁ、俺の勝手だ。俺は、煙が出るたばこを落ち着くまで吸う主義なんだよ。わかりもしねえ将来のことで、いちいち耐えてられるかってんだ。お前は俺なんかのことより、患者のことを考えてろ。皮膚や臓器だけじゃなく、今回は手足そのものの複製だって必要になるんだからな」

「……そうですね」


 ペットボトルを口から離した杉田は、溜め息と返事が半々だ。

 生沢の言う通り、杉田の仕事は手術の共同執刀だけではなかった。

 患者の傷ついた基礎器官は最優先で再生させる必要があるし、特に手足に至っては、複製後に強化パーツを埋め込んでからの再移植が必須となる。更に細かく言えば、カメラや超高感度レンズを仕込む必要のある眼球や、身体全体の人工パーツを統括する調整装置を取りつける脳にも細工をせねばならない。


 全体的な作業量から言えば、杉田の負担の方が生沢よりもずっと多いと言えるだろう。患者の命を無事に助けることができたら、その後にやることの方が山積みだ。

 これも杉田が二六歳の若さにして再生医療分野の第一人者であるためであったが、その技術を最大限に活用できる最初の機会は、彼自身が望んでいたものとはかなりかけ離れた場所に位置していた。


「ぼく、おとなになったら……きっと立派なお医者さんになる。それで、かならずきみのからだを動くようにするんだ。約束するよ!」

「ありが、と。うれ、しい……よ」

「絶対になってみせるから。男と男の誓いだ!」


 杉田の脳裏に、亡き友と指切りした幼き日の時の言葉が蘇り、口に出ない呟きが心へとこぼれる。


 --僕は、一体どこへ向かおうとしているんだろう?


「ところで、問題の適合者の容態はどうなんだ?できれば、人となりも見ておきたいんだが」

 目を閉じて物想いに耽りかけていた杉田は、生沢の催促で現実へと引き戻された。

「今、詳細データを出しますよ」


 努めて個人的な感情をそれ以上は出さないようにした杉田の手が、ペットボトルと入れ換えでタブレットを取り上げる。男にしては細い指先が画面を滑ると、患者のカルテの隣に個人データを記載した用紙の画像が開かれた。


 患者の名前は間未来、二一歳の女性。既往症はなく健康そのものの心身の持ち主だった。職業は、小さいながらも会社を経営する事業主である。事業内容はトラブルコンサルタントが主体だが、正式に国の認可を受けて武装も許可された合法的な会社で、法に触れるような真似も過去にしでかしたことはないようだった。

 データはメディカルテスト開始時に取得されたものであり、個人の全身及び顔のアップ写真も添付されている。


 未来の全身はスタイルの整い出した若い女性のそれで、顔は溢れんばかりの生命力を宿した大粒の瞳がまず目に入り、それでいて聡明さを感じさせる知性を窺わせる印象を与えてくる。

 無造作にひっつめた明るめの髪をほどけば、更に三歳は若く見えることは間違いない。少女の純粋な愛らしさを残した面影には、同年代の男が五人通れば四人は振り返るであろう魅力に満ちていた。


「ふうん……」


 生沢が未来という娘の事故前の写真と、病院搬送時に撮影された写真とを交互に見比べて眉間に皺を寄せる。彼は手を伸ばして覗き込んでいたタブレットの画面を無言で切り替え、生々しい傷の拡大写真とカルテとを隣に並べていく。

 バス炎上時に焼かれて赤黒くただれた顔や、血塗れでおかしな方向に曲がった手足などを二人で一通り確認してから、杉田が重く呟いた。


「かなり酷い状態ですね」

「見たところちとアウトローではあるが、若くて相当可愛い女の子って感じのようだな……くそ。虫の息だってのに、応急処置程度のことしかやってねえときたか」


 傷と火傷で、性別の判断もできなくなるほど無惨に変わり果てた患者の顔写真と、事故前の溌剌としたそれをもう一度頭の中で比較したのだろう。生沢は怒りを隠そうともせずに吐き捨てた。

 通常であれば、ここまでの重傷なら緊急オペの対象になるのが当たり前だ。ましてや、収容先は設備も医師も体勢が整っている軍の病院なのである。

 なのにぎりぎりで意識を保てるレベルの鎮痛剤投与と輸血、点滴、傷口の消毒程度しか処置を施していないのだ。患者の苦痛を長引かせるような処遇には、どんな医者でも腹を立てたくなるに違いない。


 ところが、杉田は辛さと悲しみをない交ぜにした、見る者の不安を煽りたてる表情を浮かべている。

 眼鏡の奥に涙さえ浮かべているのではないかと疑いたくなるような青年医師の顔を一瞥した生沢は、尖った口調で言った。


「おい。間違っても、患者の前で今みたいな顔はするんじゃねえぞ」


 単に苛立っているだけではない男の言葉に、杉田が顔を上げる。

 生沢は早いペースで吸っていたタバコを携帯灰皿に押し込んでから、改めて杉田の方に向き直った。


「いいか、俺たちは医者だ。患者の前では仏でいなきゃならん。たとえ、裏にどんな鬼が待ち構えていようともな」


 生沢の低い声は隣の青年に厳しく言って聞かせる調子だったが、恐らく自身に対して発したものでもあったのだろう。それは暗に患者にいい顔をして、都合の悪いことは黙っていろということを意味している。

 杉田は一言言い返さずにはいられないとばかりに、眉間に皺を寄せた。


「けど……それじゃあ、本当のことを教えないままってことになるじゃありませんか。それが正しいんですか?」

「正しいこととは言えん。しかし、死にそうな患者を救うことはできる」

「そんな!それじゃあ、患者を騙すのと同じじゃありませんか!」


 杉田が声を荒げ、生沢を睨みつける。

 自分たちは患者の命を助けるためとは言え、認可すらされていない、それも軍事用の人体強化パーツを彼女の肉体に組み込もうとしているのだ。そして一旦身体を強化すれば以降はメンテナンスが必要となり、普通の人間にはもう二度と戻れない。

 加えて軍事用サイボーグの被験者になるということは、この先は戦闘員として一生、軍隊から逃げられなくなることをも示しているのだ。


 本来ならば患者の身体がある程度癒え、体力が回復してから承諾を取るという過程が必須となる筈であろう。まさに死の淵を彷徨っている患者が正常な判断力を持つとも、まともに話ができるともとても思えない。

 ましてや、相手はまだまだ将来がある若い女性なのだ。

 杉田は一度息をついてから、考えていることを改めて口に出すために続けた。


「僕たちがやろうとしてるのは……相手の苦しみにつけ込んで、改造手術を承諾させようってことなんですよ。そんなの、僕は……」

「じゃあ、お前は患者を見殺しにできるってのか?」


 言葉を遮られた杉田は、生沢の静かな反論にぐっと詰まった。すかさず、生沢の武骨な指がタブレットに表示されているカルテを拡大して見せる。


「このカルテを見てみろ。全身の皮膚は三割近くが焼けただれて、内臓もめちゃくちゃ。手足の神経だってズタズタだ。もうサイボーグパーツを使う以外、手の施しようがねえ。このままじゃ患者は死ぬか、良くて一生ベッドから動けない身体になっちまう。自分が善人でいたいからって理由で、無責任な傍観者に成り下がるつもりなのか!」


 一喝された杉田が、声の大きさにびくりと身を震わせる。

 が、元来気弱な性格である杉田も、こんなことを看過できる腐った倫理観の持ち主ではない。彼はすぐさま怒鳴り声で言い返した。


「そんな、違いますよ!僕だって、助かる命は助けたい!助けたいけれど……でも、僕は……」


 自分だって医者の端くれなのだから、死に瀕している命を救いたい。

 けれど、命と引き換えに人生の全てを差し出せと患者に要求するのは、どうしても感情的に納得できないのだ。

 心が現実を拒否するのは、恐らくこの厳しい決断から目を背けたいが故の要求に過ぎないのだろう。

 それが甘えなのだと頭ではわかっているものの、心を覆う靄は全く晴れてくれない。

 隣のシートで逡巡を続ける杉田の表情を見かねて、生沢が再び叱咤した。 


「お前だって、誰かを救うことを望んだ人間だろう!だったら、とにかく患者を死なせないことに目を向けろ。自分が今できることだけを考えて、それ以外のことは気にするな」


 自分たちは医者だ。

 そのことを全面に押し出して威勢のいい文句を叩きつけた生沢は、杉田の複雑な色が混ざる瞳を尻目に前を向いた。

 車は高速道路を降りるために左車線に寄っており、低くなった防音壁の切れ目から見える風景にはオフィスビルが増えてきている。目的地である軍の病院には、あと十分足らずで到着するだろう。

 それまでに昂った神経を落ち着かせようと思ったのか、生沢はもう一本タバコを取り出して火をつけた。

 薄い色の煙を軽く吹かした中年医師が、低く呟く。


「俺だってなぁ……できりゃ、こんなことはしたくねえよ。しかし、この事故で生き残ったのはこの子だけだ。それも例の薬の効きが良くなけりゃ、改造したってほどなく死ぬのがオチだろう。だが、この子についてだけは助かる可能性が高いし、恐らく不自由な身体にだってならなくて済む。生きるチャンスに恵まれているのなら、俺たちはそれを全力で支えてやるしかねえんだ」


 長い独り言のようにも聞こえる髭面の男の言葉には、この状況を受け入れながらも深く苦悩する人間としての響きがある。生沢も杉田も、被験者の説得を任の一部とする医者という立場は同じだが、二人の男に違いがあるとすれば、個人の度量の深さと幅であった。

 自らの浅慮を恥と思ったのか、杉田が俯いてこぼす。


「……すみません」

「謝ってる暇があったら、処置の諸々を考えとけよ」


 若い同僚の恐縮した姿に、生沢は苦笑で応えておく。

 みるみるうちに短くなっていくタバコの灰は、下で待ち構えている携帯灰皿に音もなく受け止められていた。

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