第17話
重い樫のドアを開けて電灯のスイッチを入れると、高い天井に複数設けた間接照明が一斉に点った。
実家の未来の部屋は一人暮らしを始めてからも、そのままの状態になっていた。十畳ほどのゆとりがある広さで、シンプルな白木のベッドにお揃いの机と椅子、本棚二つとチェスト、オーディオセット、パソコン一揃いが置いてあってもまだ、もう一つ家具が置けるくらいの余裕がある。絨毯とベッドカバーはスモークピンクで、部屋の中央にはクリーム色のラグが敷いてあった。
ガラス製のアクセサリーボックスや小物入れと言い、出窓にかかったフリルのカーテンと言い、いかにも年頃の女の子が好みそうな、可愛い感じのインテリアだ。
後ろ手にドアを閉めて、低反発マットのベッドに腰掛ける。
子どもの頃から長らく過ごしていたこの部屋も、他人の部屋のように落ち着かない。今暮らしているマンションの家具は黒でまとめており、他のインテリアはブルーと白が中心だ。
一見すると男の部屋のように飾り気がないが、自分好みのあっさりとした空間で一番リラックスできているのだ。
「……やっぱり、ここじゃないな」
呟いて、未来は天井を見上げた。蛍光灯の温かみがある色が、部屋の要所を照らしている。
自分の居場所はここではない。一人暮らしを始めてから実家に戻ってくる度にそう感じていたが、それでも一人になれる場所にいると、幾らかは気分が落ち着いてくる。
真っ先に頭をもたげてきたのは、先の母との会話にあったサイボーグの話だった。
十年近く昔に作られたサイボーグは、改造の末に精神に異常をきたして処分された。つまり、不良品と判断されて消されたのだ。
改造の程度はわからないが、手術を重ねる過程で、未来も確かに気がおかしくなると感じたことはある。身体が徐々に人間以外のものに変わっていく恐怖と不安に押しつぶされそうになり、並みの精神力ではとても持ち堪えられなかっただろう。
「……じゃあ、いつかは私も?」
心臓が肋骨に当たるほど跳ね上がり、背中に冷たい汗がどっと湧いたような気がした。
いつか自分も不良品と判断されれば、処分されてしまう可能性が高いということだ。
自分が殺されるかも知れない?
それも信頼しているメンバー、一度命を預けた杉田や生沢、リューたちの手によって。
未来は自分を守るように肩を両手で硬く抱き、小さくその場にうずくまった。無意識のうちに、両目もきつく閉じられる。天井の明かりが、初めて改造手術を受けた時の手術台の冷たさを思い出させた。
その時、ポケットの携帯電話が着信を告げて震えた。はっと我に返り、ストラップを引っ張ってディスプレイ表示を確認する。
「……翔子ちゃんか」
着信したのは、翔子からの携帯メールだった。携帯電話のスリープに続いて顔認証ロックを解除し、着信メール一覧を見る。
件名が何もないが、画像が添付されていた。翔子は暇な時によく動物や可愛い小物の画像を送ってくる。母との喧嘩で乾き、ささくれ立った心を和ませるのにはいいタイミングだった。
「ん?何これ」
思わず声に出してしまう。添付画像を拡大表示にした未来は、瞬時にそれが何であるかはわからなかった。
「……!」
携帯電話ごと画面を少し離して再度確認し、吸いかけた息が止まる。
添付されていたのは昨晩の服装のまま手足を拘束バンドで縛られ、死体袋と思しき緑色のシートに包まれている、ぐったりとした翔子の画像であった。
「ちょっと……」
未来は眼を見開き、画像を食い入るように見つめた。
画像に映っているのはコンクリートの床に仰向けに寝かされ、身体の前で手首と腿を黒い拘束バンドにきつく絞められている、気を失った女性の姿だ。周りを覆っているのはジッパーを開けた死体袋で、顔が腫れているようにも見える。
しかし、確かにそれは翔子だ。悪戯だとしても、悪趣味極まりない。
画像を拡大したり、上下にスクロールさせていた未来は、もう一枚の添付画像にそこで初めて気がついた。震える手で、もう一方のそれを表示する。
そちらはくすんだコンクリートの建物の入口で、辛うじて「ニュータウン総合病院」と掲げられているのが読み取れる。
まるで意味がわからなかった。翔子とこの古びた病院に、何か関係があるのだろうか?
不意に右手に持った携帯電話が震えて画面が切り替わり、ディスプレイが点滅する。
表示された名前は「鈴木翔子」だった。
「もしもし?」
即座に受話キーに触れて、携帯電話を耳に押し当てる。
「画像は確認したか」
翔子の携帯から響いてきたのは、聞いたことがない男の声であった。
『……あの子は、生きてるんだろうな』
相手が言葉を発する前に、細く息を吸う音が聞こえた。意外にしっかりとした口調だ。この電話を受け、状況を掴んだのだろう。
「今のところはな。我々が普通にお前を呼び寄せても応じまいと思ったのでね。多少不本意だが、人質としてゲストに招いたまでだ」
男が低い声で続けた。四方をコンクリートで囲まれた冷たい空間で、ガラスのない窓から差し込む頼りない月の光が、その巨大な体躯の輪郭を浮かび上がらせている。黒で統一した服に防刃、防弾ベスト。甲の部分にクッション材がつけられたグローブ。腰のマガジンポーチやナイフを始めとする、様々な装備品。僅かに覗いている肌には、幾多もの傷が治癒したものと思われる傷跡。
荒廃した日本であっても、男の姿は明らかに異質なものであった。
『で、いくら用意すればいい?』
電話口の女は努めて平静を装っているようだ。思わず口元を歪め、含み笑いを漏らす。
「金などに困っていない」
『じゃあ、何の情報が欲しい?それとも、部下の誰かに恨みでも?』
間髪を入れず彼女は突っ込んでくるが、少しでも通話を引き延ばそうとしているのが見え見えだった。
部屋の隅に気絶させて転がしてある人質の女を横目で見やり、太腿のホルスターに収めたスミス&ウェッソンM500に触れる。
「我々が用があるのはお前自身だけだ。九十分以内に画像の場所まで、必ず一人で来い。これは命令だ。従わなければ、人質の命はない」
『待て!あんたは何者なんだ!』
通話を終わらせる素振りを見せると、女は初めて狼狽を声に出した。
「サージェントと呼ばれている」
次に相手が声を出す前に、巨大な手が終話ボタンを押した。
「もしもし!もしもし!」
いくら未来が呼びかけても、無情な話中音が返ってくるのみだった。
ようやく状況が飲み込めた。翔子は何者かに誘拐され、自分が指定の場所まで時間内に行かなければ殺されるのだ。
「……畜生、何でこんなことに!」
思わず携帯電話を握り潰してしまいそうになり、怒りを抑えるだけで必死だった。
何故翔子がさらわれたのか?仕事の依頼主か関係者で、恨みを持つ者の仕業なのか?翔子は生きてはいるが、暴行されたりしていないのか?
様々な感情と疑惑がない交ぜになって、波のように脳の中で渦巻いている。身体もかっと熱くなり、訳がわからなくなりそうだ。
「……駄目だ、慌てんな……」
未来は低く声に出して眼を閉じ、額に両手の指先を当てて自分に呼びかけた。情報を整理して、次にどう動くか即時で判断しなければならない。
一分ほどしてから目を開けて、送りつけられてきた建物の画像を確認する。
ニュータウン総合病院。
学生の頃に一度、肝試しで行ったことがある場所だということを思い出した。関東圏では有名な心霊スポットだ。ゴーストタウンに取り残された地上五階、地下二階の巨大な廃墟で、車を飛ばしても一時間以上かかる距離だった。急がねば間に合わなくなってしまう。
未来は自室のドアを破らんばかりの勢いで開け、転げ落ちるように吹き抜けの階段を下りた。
「どうしたの未来ちゃん、そんなに慌てて」
「ごめん。急な仕事の連絡があったから帰るよ」
「また貴女は!嫌な気分のままで帰ることはないでしょう!」
床をやかましく踏み鳴らす音に驚いた母が玄関先に出てきたが、暗い明かりでは娘の顔色が悪く、ひどく焦っていることに気づかないようだ。
今は母の癇に障る声を気にしている暇はない。憮然とした母を玄関に残し、重厚なつくりのドアを荒っぽく開ける。
黒のローファーを足先に引っ掛けてポーチに飛び出した未来は、芝生と常緑樹で覆われた庭の隅まで走り、五メートルは下の道路に飛び降りた。
着地までの刹那、ガレージのロックを開ける。上がりかけたシャッターの隙間に足から滑り込み、素早く起き上がってビートルに乗り込んだ。
キーを挿してエンジンをかけ、丁度ビートルが通れるくらいまでシャッターが上がると同時にクラッチを繋いでアクセルを踏み、ハンドルを左に切った。タイヤが高い軋みを上げ、ビートルが人通りの絶えた車道に急発車する。シルバーの車体は程近い幹線道路に入ると、目的地に向けてスピードを乗せていった。
ナビによれば、目的地の八王子ニュータウン近辺まで所要時間八十分。ぎりぎり間に合うかどうかだ。それまでは、これから予想される有事について考える時間として当てることにした。
C-SOLでの狙撃事件があったのが一昨日の木曜日。これは一五〇〇メートルの距離から軍用ライフルを用いて動いているターゲットに命中させ、全く正体を掴ませずに立ち去れるような人物が犯人だ。
翔子が誘拐されたのが昨夜。恐らく、先にニュースで聞いた無人のタクシーの一件がそれだろう。こちらも犯人や被害者の手がかりは全く残されていないが、自動運転システムで走行中のタクシーを停めて襲うなど、単独での犯行は不可能に近いと考えていいだろう。
催涙ガスが使用された痕跡もあったようだが、素人はそんな物騒なものの扱い方など知らないだろうし、まず使おうと思い至らないはずだ。
未来の周囲で、この二つの事件が間を置かずして起きたのは偶然にしては、不自然極まりないように思えてならない。
更に、先ほどの電話で「サージェント」と名乗った男の存在。
サージェントは、英語で軍曹の意味だ。この男が通話で「我々」と言っていたことから、犯人が複数であることを示唆している。
以上の点から狙撃事件と翔子を誘拐した犯人は同一で、軍隊出身者がいる一団である可能性が高い。
だとすれば、目的は何なのか。
サージェントは未来自身のみが目的だと言っていたが、言葉通りに受け取るとすれば身体そのものが狙いと思われた。日本の科学技術、軍事機密の粋を集めた強化人間の存在を他国が掴んでいたら、喉から手が出るほど情報を欲しがることは間違いない。
そこまで考えて、未来の胸の奥に新たな怒りがくすぶり始めた。
そんな輩のために、翔子や自分の命を差し出すつもりなど毛頭ない。何としても翔子を救出し、犯人全員を叩きのめさねば気が済まなかった。
だが、とそこで頭に上り詰めた熱い血液が下がっていく。
果たして自分に犯人たち全てを倒せるのだろうか。
相手はプロの武装集団で、人質まで取っている。銃火器を準備し、未来を殺すつもりで待ち構えていることは想像に難くない。未来の身体が欲しいだけなら、生死は無関係の筈だ。
今回の事件に絡んだことで未来が犯人たちの命を奪っても、さして問題にはならないだろう。軍事機密に絡むとして全ては闇に葬られ、法的責任も発生しないことは目に見えている。
それよりも、未来が今までの人生で人を殺したことがない、ということのほうが重大だった。
戦いが終わるまで、人を殺すという行為に精神が耐えられるのか?
その上こちらはサイボーグとはいえ、味方が誰一人としていない。全く孤立無援の状態で戦わねばならないのだ。
今までの訓練が、都市戦で建造物の内部制圧を想定したものを中心にプログラムされていたのがせめてもの幸いだった。その内容を基本とし、各種の訓練も思い出しながら対処する他にない。
ただ、訓練は全てパワードスーツを装着して実施していたが、今回は生身の状態で戦わねばならない。スーツが一般的な対人兵器を完璧に弾き返す強固な装甲であるだけに、何とも心細かった。
それでも、やらねばならない。自分のせいで、無関係な翔子を巻き込んでしまった責任は取らなければならないのだ。
画像で見た後輩の顔が、ふと頭の中を横切る。彼女の愛嬌がある顔は腫れ上がり、顔を殴られていることが明らかだった。
「翔子ちゃん……ごめんね。必ず助け出すから」
バックミラーに映った未来の眼が細められる。
目的地に到着したらまず、リューに連絡を取って指示を仰ごう。
決意を新たにした未来のビートルが、高所得者特別居住地区と一般地区の境界にさしかかった。検問所では軍の大型銃器携帯許可証と市民IDを警察官に見せ、自動化された火薬チェックを車ごと受ければいいだけなのが有難い。
一般地区に入ってからスピードを少し上げ、並走する車両のマナーが見た目に悪くなった道路に負けじと入り込んで行く。調布インターチェンジから中央道へ上がってからは、更に深くアクセルを踏み込んだ。
他の車は少ない。一四〇キロまで速度を上げ、オレンジ色の街灯に照らされたビートルが八王子インターチェンジを目指して疾走した。
未来の全力疾走よりもやや早いくらいのスピードが、もどかしく感じられた。