第15話
未来と翔子が仕事を終えて食事をし、歌舞伎町の屋内射撃場で一通りの射撃練習が終わった頃にはもう、日付が変わろうとしていた。この時間帯でも新宿駅近辺は人通りが絶えないが、見た目で明らかにわかる水商売の男女ばかりが行き交っている。
その中を若い女が二人連れで歩いていれば、ホストクラブの客引きがひっきりなしに声をかけてくる。が、未来は翔子の手を引きつつ、彼等を軽くいなしてタクシー乗り場へと向かっていた。
「ごめんね、すっかり遅くまでかかっちゃって。タクシー代は奢るから」
「いえ、大丈夫です。私のほうこそ、所長に迷惑かけまくっちゃって……」
「まあ、取っときなよ。これから暫くは、深夜の帰宅にはタクシーじゃないと駄目なんだからね」
と、未来が翔子の手にたたんだ千円札を二枚押しつけた。
タクシー待ちの行列に並んだ未来と翔子は、服や髪から硝煙の臭いを香水の代わりに振りまいていた。その臭いには図らずも周囲に向けて威嚇効果があるようで、同じようにタクシーを待つやや柄が悪い男たちも、彼女らと目を合わせようとはしてこない。特に翔子は薄いブルーのワンピースに白のジャケットという可愛らしいファッションなだけに、その効果は絶大なようだ。
翔子の射撃の腕は杉田医師と同じ程度だったが、的後方の壁に着弾させるだけ、杉田のほうがましだったと言えよう。翔子の場合は握力もないためか銃身を全く安定させられず、あさっての方向を向いた銃で発砲する度、天井や壁にまで穴を開けまくるという具合だった。
ある程度の手入れもされたベレッタM92を撃ってそうなるのは、一種の才能なのかも知れないと思い直したほうが良さそうだった。
バッグの中に入れっぱなしのベレッタが気になるのか、しきりに視線を可愛らしいバッグに向ける翔子に未来が言った。
「慣れない射撃なんかして、疲れたでしょ?明日は土曜日だから、ゆっくり休んでね」
「所長こそ、たまには休んてください。最近オフィスにも戻ってこないことが多いし。私、本気で心配してるんですよ?」
「……うん、ありがとね。なるべく早く現場に戻れるようになるから」
「そうじゃなくて……所長、今大変なんでしょう?私で良ければ、どんなことでも力になりたいって。そう思ってますから」
未来よりも更に小柄な翔子の目は真剣だ。柔らかい雰囲気の女の子だが、どこか本能的なところで上司が困難な状況に直面していることを感じているのだろう。
だが、その心遣いは未来にとって有難いものであると同時に、胸に痛みをもたらすものでもあった。
「落ち着いたら、またオフィスのみんなで食事にでも行こうか」
「いいですね!じゃあ私、美味しいところ調べておきますね。明日、携帯にメールしますから」
話の内容を誤魔化した未来の心情を知ってか知らずか、翔子が声を弾ませた。その嬉しそうな表情のまま、横付けされてきたタクシーに乗り込んでいく。
「じゃ、おやすみ」
彼女を見送るだけの未来は、微笑んで手を振った。未来が住むマンションは新宿駅から徒歩十分程度のところにあり、人通りが絶えない通りに面しているため、タクシーを使う必要はないのだ。
「じゃ、お願いします」
「かしこまりました」
翔子がタクシーの後部座席で行き先を告げると返答が返ってきたが、乗務員はいない。応答したのはナビの合成音だ。タクシーもGPSとナビを駆使した自動運転システムによる無人化が進み、よほどのことがなければ目的地まで迷うということはなくなっている。
翔子の住むアパートは中野区に程近い、西新宿五丁目方面にあった。歩けない距離ではないが、普段の勤務でも、遅くなったときはタクシーを使うようにしていた。
特に新宿西口方面は深夜ともなれば人通りが少なくなり、通行人は堅気とは言い難い輩が目立つようになる。新宿中央公園にも多くのホームレスが居ついていて、濁った活気のあるこの街の裏側に住む人々を垣間見る場所にもなっていた。
「……未来先輩、大丈夫なのかなあ……」
タクシーの後部座席でハートのバックルがついたハンドバッグを両手に抱え、翔子は呟いていた。
窓の外へふと眼を泳がせる。タクシーは東口の乗り場からガード下をくぐり抜け、西口方面へ向かっていた。
独特のオレンジの街灯が、まだ遊び歩いている若者の群れや仕事帰りと思しきスーツ姿の男たちを照らしている。疲れた顔をしている者、大声でやかましく会話している一団、その様子は様々だ。
そして、こんな時間であっても黙々と働いているロボットたちの姿も通り過ぎていく。歩道をせっせと掃除する、黒光りする箱型ロボット。二本のアームをリズミカルに操って、横断歩道を歩く歩行者を誘導するロボット。そして、誰かから用事を頼まれているらしい、汎用型雑用ロボットのHARが何体も行き交っていた。
彼らは疲れることを知らないし、与えられた仕事に文句を言うこともない。今乗っているタクシーにしても、嘗て未来の乗り物として想像図に描かれていた「ロボットカー」そのものなのだ。
そして、これらのロボットは安価なものは翔子が働くユースフルでも未来がいない間に導入され、ずいぶんと助かったものであった。
未来はオフィス開設後間もなく事故に遭って、怪我が治るまでかなりの間は仕事に出られなかった。しかも事故には政府関係者の車両が巻き込まれており、収容されていた病院もただの病院ではなく、軍関係のところだったと聞いている。
そのおかげでろくに連絡も取れずにスタッフは苦労した。しかし、未来は自分がいない間のことを非常に申し訳なく思っていたようで、その間にかかった資金やスタッフの損失は後に完璧にフォローされた。一部未払いだった賃金が支払われ、特別手当が各人に支給された後に仕事を辞める同僚がほとんどいなかったのも、未来の人選が功を奏していたからだろう。
今一緒に仕事をしているメンバーはその頃から変わっておらず、所長の義理堅さに心から感謝していると、事故から二年経った今でも語り草にするほどだ。
だが、また未来が厄介なことに巻き込まれたのだ。彼女は皆に心配をかけるまいとして普段と変わらないように振舞っているが、それでもかなり神経を尖らせていることは伝わってくる。それは自分たちが学生だった頃から全く変わっていなかった。
未来は周囲のことを優先して考え、自分のことは二の次、三の次にするのが当たり前だと思っている節があった。正直、翔子には何故未来がそこまで自分をないがしろにするかがわからない。
それでも、未来は自分にとって大きな存在だった。何かと鈍い自分の面倒を優しく見てくれ、就職の世話までしてくれたのだ。今の仕事がなければ、特にこれといった技能がない翔子は路頭に迷い、道端で男たちに身体を売らねばならない運命だったかも知れない。
だから未来の役に立てるのなら何でもやりたかったし、心から彼女のことが心配でもあった。射撃も上手くなっておけば、少なくとも未来の悩みの種は一つ消えるだろう。
この週末は、自分の家の近所の射撃場を探して特訓してみようか?
「……あれ?」
そう思ったとき、タクシーのスピードが落ちているのに気がついた。場所は丁度新宿中央公園の脇で、まだ木々がこんもりと葉をつけているのが夜目にもわかるほど、遅くなっている。
「あのう、ここはまだ降りる場所じゃないんですけど」
翔子は遠慮がちに声をかけたが、ナビは何も答えない。遂には歩行者程度の速度にまで落ちたかと思うと、タクシーは完全に停車してしまった。
「ちょっと……やだ、こんなところで」
声にも戸惑いが表れ、きょろきょろしてしまう。自動運転のタクシーはよく使っていたが、こんなことは初めてだ。どこかに信号があるのかと思ったが、それらしい光はすぐ前方には見当たらない。
不安に駆られて、ナビの画面を後部座席から首を伸ばして確認する。しかし、これといったエラー表示は出ていない。ナビの故障でもないとしたら、ガス欠かエンジントラブルでも起きたのだろうか。
外は深夜の公園だ。人気が全くないところに長時間留まっていては、若い娘でなくとも危ない。
「もう、タクシー会社に連絡するしかないのかな」
翔子が溜息をついて、携帯電話を探そうとハンドバッグに手を突っ込んだ時だ。
鋭く大きな衝撃音が車内を裂き、助手席の窓ガラスが内側に破裂するように砕けた。
「きゃあ!」
翔子が悲鳴を上げて耳を塞ぐ。その視界の隅を黒いものが過ぎり、夜の暗闇に口を開けた助手席の窓から何かが飛び込んできた。硬く閉じた眼を恐る恐る開けた途端、消火栓から水が漏れるような噴出音が上がり、助手席に転がった黒い金属から煙が噴き出した。
その煙が後部座席に流れた瞬間、焼けつくような痛みが翔子の鼻と喉を襲った。呼吸するのに通過する空気でさえも酸性物質のような刺激となり、激しい咳が体内の酸素を奪っていく。苦しさから、息をすることもままならない。
タクシーに設置された警報装置がけたたましく鳴り響き、自動で全てのドアが開く。バッグを膝から落として、翔子は崩れるように車外へ逃れた。その間も粘膜の刺激は止まず、涙と咳で眼もろくに開けられないまま、その場にしゃがみ込む。思考も完全に停止し、何が起こったのかですら把握できなかった。
「……あ!」
翔子がくぐもった声を上げたのは、背後に走り寄ってきた男二人に無理やり立たされ、羽交い絞めにされた時だった。
次の言葉はない。
黒い手袋をつけた大きな手に口を押さえられ、鳩尾に素拳を一発入れられただけで、小奇麗な若い娘は意識を失ってしまったのだ。
ガスマスクを装着した上で催涙弾をタクシーに撃ち込んだ男二人は、座席に残されていた可愛らしいハンドバッグを持ち去ることも忘れない。
ぐったりと気を失った翔子を抱え、タクシーの前方に停めてあった黒い車に彼女を押し込む様子も、彼らがマスクを取り走り去る姿も、誰も見た者はいなかった。