第1話
「あ、私。例の件って、どうなった?……先方は、この金額でいいってことなんだよね?そっか。この調子で行けば、私も夕方には戻れると思うから……そう。それまで、ブツは……そうだな、銃の保管庫にでも入れといて。あそこなら頑丈なロックができるし、事務所が爆破されたって大丈夫だから」
仕事用の通話機能しかない携帯を頬と肩の間に挟んで続けながら、私は手元のタブレットの画面に指先を滑らせていた。
何気なく視線をやった窓の外では、防音壁に囲まれた殺風景な景色が猛スピードで流れていく。
このバスの中で声を出してるのは私一人だけど、百キロ以上のスピードに乗り続ける騒音に上手く紛れて、物騒な会話の内容まではわからないだろう。
画面には作りたてほやほやの、クライアントとの電子契約書が開かれている。そこに羅列された条件と金額を見比べて、ファイルチェックソフトの結果がグリーンであることも確認すると、私は自然と頷いていた。ポニーテールに結った軽い茶髪が、さらりと耳元で軽い音をたてる。
「まあ、悪くはないね。帰社時間が遅くなりそうだったら、また連絡するから。じゃ、よろしく」
よっしゃ、契約成立!
嬉しさで思わず弾みそうになる声を、私は慌てて抑えた。
何とか低く通話を終わらせてから、私は素早く周囲の様子に目を走らせる。
……こっちに注意を向けてきてる奴や、おかしな気配を漂わせてる奴はいない。
二十ほどあるバスのシートでは、楽して稼げるからっていう文句に踊らされたのだろう野郎どもが、だらしなく眠りこけていた。
見たところでは、留年して学費に困ってる感じの老け顔学生とか、仕事にあぶれたホストみたいなチャラ男とかか。数は十人くらいいるけど、その中に自分と同じ、若い女の子なんていやしない。
可愛くて愛想のいい、話上手な女の子がいれば、メディカルセンターの殺風景な部屋でだらだら待機してるだけの退屈さも、随分紛れさせることもできただろう。
と、つい余計な情報まで拾ってしまうのが最近の私の癖。
今私がいるのは、東京を目指して高速道路をかっ飛ばすマイクロバスの中。大手製薬会社がコネのある人間だけに情報を公開した、免疫抑制剤のメディカルテスト中で最後のセンター間移動だ。
そんなところにまで、私の商売敵である同業者や、クライアントの敵が潜んでいるわけなかった。これまで私が幾度となく参加してきた、一般から被験者を広く募集しているメディカルテストとは状況が違う。
もっとも私は、どんなテストも若い女なんかいないものだと知っていた。
嫁入り前の娘が!とかって、自分の体を実験体として差し出すような真似、普通の親はまずさせないだろうし。
私が座ってる席は、オート・ドライビングモードで突っ走るバスの最後部。
最新型だとドライバーロボットが運転席にいることもあるけど、これは空の運転席でカラフルなLEDが煌めいているだけだった。
もっと資金が貯まったら、うちの事務所でもこういうのがリースで借りられれば便利なんだけどな。大勢の人を運ぶ仕事も、思いがけずあることだし。
寝る以外にすることがない野郎共や静かな運転席を尻目に、私は超小型タブレットのページを忍ばせた手帳を閉じた。
タブレットの細かい字を見続けて少し疲れた目を癒そうと、私は車窓の隅の方にあるセンサーに指を触れさせる。すると、今まで暗かった窓の色が徐々に明るくなっていき、その中に外の景色が見え始めてきた。
寝てる人たちの邪魔にならない程度の明るさのところでセンサーから指を離し、顔を窓に近づけてみる。外は初夏が近づいた爽やかそうな空気と、新鮮な陽の光とに満ちていた。もっともそう見えるのは、防音壁の切れ目から時々見える輝かんばかりの緑が、目に入ってくるせいかも知れないけど。
今日は五月一五日。ゴールデンウィークも明けて、一番過ごしやすい時期だ。
私も真っ当に親の言うことだけ聞いてれば、大学生活最後の一年の頭となるこの時期をキャンパスの中で過ごしていたのだろう。
私、間未来は二一歳。
大学を中退して、便利屋事務所「ユースフル」を始めたばっかり。
法に触れなきゃ汚部屋の掃除から夜逃げサポート、人探しまで何でもやるっていう稼業。
ただし、まだ客がつかなくてカネコマに陥ってる……ぶっちゃけ資金繰りに困ってるのは、このバスで寝てる連中と同じだ。
だけど私は、スタッフの生活を預る所長の身。どんなことをしてでも、彼らのことは守らなきゃならない責任がある。薬の副作用で身体が鉛みたいに重くて、頬杖一つつくことさえ面倒になってても、そんなことはさして苦痛じゃない。
それに、新薬のテストなんてこれが初めてじゃないんだし。
今回の免疫抑制剤のテストも、特に深く考えずに応募した。今は十日に渡る日程の最後で、被験者用のメディカルガウンを着たままだ。施設到着後に最後の検診を受けると、やっと報酬の二百万円を受け取れる手筈になってる。
しかし、女子供は百メートル歩けば白昼でもカツアゲされるこのご時世だってのに、報酬はまさかの現金で手渡し。
か弱い女子が、たった一人で被験者の中にいるんだっつの!
製薬会社の担当者は、一体どこまで非常識なんだか。ったく。
だから私は護身用の愛銃、ベレッタM29も持って来てた。
そういや、マガジンに弾はあと何発あったっけ。
私はマガジンを確認すると手が火薬臭くなるってことも忘れて、隣に置いたバッグを掴み上げた。
いや。正確には掴み上げようとしたら、その手が「スカッ」と音が聞こえてきそうなぐらいの見事さで、持ち手すれすれのところを空振りした。
「え……わぁ!」
間抜けな叫びを漏らした私の耳に、ブレーキの上げる耳障りで甲高い音が飛び込んでくる。
と同時に私は身体を横倒しにしてくる強烈な力と、舌を噛みそうになるほど激しい振動に襲われていた。そのままシートに倒れ込み、お気に入りのバッグに勢いよく顔を突っ込む格好になる。
どういう理由かわからないが、バスが急ハンドルを切って車体が大きく振られたのだ。
「っはあ!ちょ、何……!」
顔の形に凹んだバッグから頭を上げて起き上がろうとしても、横にかかってくる重力のせいで身体が言うことをきかない。それどころか私は、崩れた体制のままずるりとシートを横滑りして、今度は床に投げ出される羽目になった。
「きゃ!」
悲鳴は短く途切れた。
背中にどんという鈍い衝撃と同時に重い痛みが走り、呼吸が詰まる。
その時、マイクロバスに同乗してる野郎たちも似たような状態になっていることに、ようやく気がついた。私が倒れた狭い通路にも寝ぼけ眼の皆が放り出されており、打ちつけた背中や腕を押さえて呻いている。
次の瞬間、今度は逆方向にハンドルが切られたようだった。私を含めた若者たちは成す術なく床を滑り、揃って車体の片側へと転がされる。
「おい、何だよこれ!」
「ちょ、やべぇ!マジでやべ……!」
車内は目を覚ました若者たちの驚きと恐怖の叫びが響き、バッグやデイパックが舞って、身体のどこかを無様にぶつける音が不規則に混ざる。
恐らく全員が、異常事態の発生を悟っていた。何が原因なのか、バスが完全にオートシステムの制御から外れているのだ。
私は右に左に振られ続ける車体の中で、シートに掴まって必死に立ち上がった。
「誰か、オートを止めろ!止めろって!」
前の方で悲鳴に近い怒号を上げたのは、私と同じようにシートにかじりついたホスト崩れの兄ちゃんだった。
この突然暴走を始めたバスのスピードは全く落ちておらず、ブレーキがかけられた形跡が全くない。ふと見てみれば窓の外の景色は猛スピードで流れ続けており、それが緩くなるどころか却って加速していることがわかった。
「おおおい、ま、前まま前前!前を!」
絶望に彩られた声で、また他の誰かが叫ぶ。
バスは不安定に軋む車体を揺らし、目前に迫った急カーブへとさしかかろうとしていた。
ここで誰かが無人の運転席に飛び込んでオートドライビングシステムを解除し、バスを緊急停止させる。そしてそいつは一躍ヒーローの仲間入りで、このエピソードは映画化決定!とかになるだろう。
しかし。
現実は非情だ。
私たちが次に瞬きを終えた時に見たのは、数メートル手前にまで迫った高架の壁。
そこに全く減速せずに突っ込む、バスのフロント。
死ぬのにはまだ早すぎる者たちが必死で己が生命にしがみつき、言葉にできぬ執着と、それが叶わない絶望にまみれた極色彩の叫びを迸らせる。
まさに阿鼻叫喚の様相だったが、それが車内を支配したのは一秒もなかった。
その次には、まるで私たちのいる空間そのものが破裂したかと思うような衝撃と、轟音。
ただの一瞬で強化ガラスが粉々に砕け散り、鉄のフレームがひしゃげ、エンジンが潰される破壊音がぐちゃぐちゃに混ざった爆音が、私たちを呑み込んだ。
バスの前の方で倒れてた人たちがそこに巻き込まれるのを見る前に、私は頭を両手で守ってシートに身を縮こまらせた。途端、吹き飛ばされたガラスの欠片や砕けた鉄が、前のシートに立て続けに突き刺さってくる鈍い衝撃が伝わってくる。
その私を次に襲ったのは、不自然な浮揚感だった。
防音壁を突き破ったバスはそれでも止まらず高架下、十メートル以上下の地面へ真っ逆様に転落しようとしている。
自由落下により、重さを失った身体がふわっと浮き上がったったことで、私にはっきりとわかってしまった。
嘘。
このまま、バスごと落ちて死ぬ?
私、これで死ぬの?
心臓が誰かにぎゅっと掴まれたみたいに、一瞬止まる。直後、却って膨れ上がった鼓動が胸を内側から大きく叩いた気がした。
身体の内側から、抑え切れない何かが込み上げてくる。
声帯を通ろうとする空気。
嘔吐感。
かっと熱を帯びた自分の血。
恐怖という感情そのもの。
全てが口から溢れ出そうになり、けれどこれを引き起こした現実を認めたくなくて、身体は咄嗟に神経の号令を拒否したかのようだった。
それでも。
本能は、生きようとあがく反射は、それを振り切った。
「きゃあああーーーーーーーーー!」
今更のように、悲鳴が私の喉を裂く。
しかしそれは、全身を突き抜けた衝撃によって強引に終わらされた……ようだった。
「……生命反応……早く……よし!」
「搬……吸入……で、……型……しろ!」
ぼんやりと、途切れ途切れに、遠くから聞こえてくる騒々しい声。
何だろ?うっさいなぁ……
人が折角寝てるってのに、ちかちかする赤い光でなんか妙に眩しい気もするし。
私は何も考えず、片腕で目を庇って寝返りを打った。
つもりだったんだけど、できなかった。
……あれ?
身体が全然、動いてくんないや。って言うか、動こうって気はあるのに、全身のどこにもその意識が引っ掛かってこない。それに、鉄臭い変な臭いと焦げ臭さが混ざった、何とも言えない悪臭が鼻についてしょうがない。
仕方なしに薄目を開くと、白いヘルメットに白衣姿の男たちが、私の顔を覗き込んでるらしいことがわかった。そのうちの一人は私の口許に手を伸ばしてるけど、不思議と人の手が触れてる感じはない。代わりに、しゅうしゅうと音を立てるものが口に押し当てられてるみたいだった。
途端、そいつらが口々に喚き出す。
「意識回復!」
「血圧、下降止まりません!」
「君!名前は?ここがどこだかわかるか?」
ああもう。
そんなにいっぺんに怒鳴んないでよ。
こちとら異常にだるくて、声も出したくないぐらいだってのにさ。
でもまあ、一言だけでも答えりゃいいのかな。
と思ったのに、またすーっと目の前が真っ暗になっていった。
まるで、誰かがそっと黒い布で私の顔を覆ったみたいに……




