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未熟な教授

作者: 日ノ瀬 亜樹

 片眼鏡モノクルは日本人には不向きだ。

 お洒落アイテムにもなるそれは、彫りが深い欧米人に似合いで扁平顏の日本人の眼窩にはなかなか嵌らない。ブリッジで鼻にかける、という手もあるが宇須うず千聖ちひろは、眼窩に嵌め込むからこそ格好が良い、という主観的な考えを持っていた。

 千聖は扁平顏の日本人だ。

 童顔な上に148㎝の凹凸のない身体と洒落っ気のない服装で26歳になった今でも中学生に間違われる。酒を購入するにも毎回店員に疑わしい眼でじろじろと見られ、深夜に外出すれば必ず職務質問される。そんな自分に嫌気をさすが、1度も染めたことのない髪に天使の輪が子どもの頃と変わらず輝いているのが彼女の唯一の自慢だった。

 千聖は白いTシャツに黒のジャージを履き、緩いMの形をしたハンドルが特徴のピンク色の自転車に乗って彼女は古い住宅地の細い路地を走る。道は曲がり角が多い上に軽自動車がミラーを畳んでやっと通れる幅で、住宅に阻まれて道全体が陽に当たることはない。

 どの家も道から6段程積まれた石垣の上に家がある。千聖が目指す家もそうだ。

 平屋建ての一軒家で今時珍しく部屋は全て畳敷きだ。山茶花の垣根越しに庭の花達が水滴を光らせ、生き生きとしていた。

 千聖は玄関からは入らず、いつも庭に面した縁側から上がる。ウッドデッキのような広い縁側の奥に硝子の窓と障子が共にあり、室内へと続いていた。縁側は屋根に守られちょっとやそっとの雨では室内まで入り込まない。

 千聖は玄関とは反対にある山茶花の垣根の間にある竹で組まれた裏口からいつも通り入った。自転車ももちろん一緒だ。裏口を入ったすぐの定位置で自転車を留め、家の陰に隠れて縁側を偵察するように覗き込んだ。

 彼、森脇もりわき彰文あきふみもまたいつも通り縁側の陰で紺色の着物に身を包み、黒足袋を履き、肘枕で横になっていた。周りにはいつも通り小難しそうな本が乱雑に開かれ置かれている。紙袋に入った煎餅とタンブラーがお盆に載せられ、黒い眼鏡ケースには片眼鏡が置かれていた。

 しかし、千聖はいつもとは違うことを見つけた。珍しく客が居たのだ。

「あら先生、煙草辞められたんですか?」

「辞めたのは随分前だよ」

 客は女だった。長く細い脚を組み、縁側に腰掛けていた。

「神崎くん、すまないが――」

 神崎と呼ばれた女は大人の色香が漂うキャリアウーマン風だった。7分の白いシャツに黒いタイトスカート、クリーム色のハイヒール、ファイルの入った黒いレザーのショルダーバック。

 千聖は思わず自身の胸を見た。未だに成長過程のような胸は神崎とはまるで違う。

 千聖が再び慎重に2人を伺うと、神崎は時計を見ていた。千聖は小さく鼻で笑った。神崎が森脇の嫌いな女性らしい見栄っ張りな時計をしていたからだ。

「いい時計だな」

 森脇の言葉が千聖の耳に届く。冷や汗がドッと出て、胸は早鐘を撞いたようだった。

 以前、質素倹約に努める千聖が少ない給料を遣り繰りして友人達と同じように高価な時計を購入したとき森脇は、女性のそういう見栄っ張りな所が嫌いだ、と顔を顰めていた。普段好き嫌いをはっきりと言う森脇が千聖にはあまりそのように言ったことがなかったからか、千聖は殊の外そのことを気にしていた。だからか、それ以来、その時計は少ない宝飾品と共にジュエリーボックスに眠っている。千聖は知らず識らず握っていた手をさらにきつく握る。仕事柄、爪は深爪になるくらい切っているがそれでも痛い。握った手が痛いのか、心が痛いのか、千聖にはよくわからないが森脇に対してグツグツと湧き出る怒りを感じていた。

「ふふ、ありがとうございます。 それじゃあ先生、また今度」

 神崎は玄関のある方へと歩き出した。その後ろ姿を見詰めながら、千聖は口を尖らせた。

 キィーという高い音が鳴り、門を閉める音が千聖には遠くに聞こえる。

「教授!」

 千聖は小走りになって森脇に駆け寄る。森脇は起き上がり、猫背で胡座をかいて大欠伸をした。

「昨日の続きをするなら今日こそ完成させてくれよ。 おかげで部屋が狭い」

「ちょっと製作を置いたくらいで。 あれくらいで狭くならないってば」

 千聖は森脇を教授と呼ぶ。だが、森脇は教授ではない。

 そもそも何故そんな渾名が付いたのか。

 それは千聖がまだ小学5年生の時、森脇と老いた森脇の父がこの家に越して来て1週間後のことだった。その日、森脇父は買い物帰りに雨に降られ駄菓子屋の軒先を借り、雨宿りをしていた。その駄菓子屋は千聖の祖母の店だった。それを見つけた千聖が傘を貸したことが縁で森脇父や祖母が亡くなった今でも森脇と千聖の近所付き合いは続いている。 初めて森脇の家を訪ねた時、彼は23歳の精悍な青年で、縁側に寝転がり、片眼鏡を嵌めて新聞を読んでいた。

 森脇の祖母がイタリア人で、4分の1の血でも彫りの深さは千聖には羨ましい限りだった。話してみると森脇は博識で、体躯はがっしりとしており身長もある。大雑把ではっきりとものを言い過ぎる所を除けば女に人気のある男だ。

 相違点はあるが、千聖は森脇がある小説に登場する犯罪の天才に似ているように思えた。名探偵が追う犯罪が起こるといる影の黒幕だ。そう考えると森脇、という名字も犯罪の天才の名前に似ている。そう思い、すぐさま森脇にそれを伝えると、森脇は大笑いし可笑しなことに、光栄だ、と喜んだ。それからずっと千聖は彼を教授と呼んでいる。

「なんで⁉︎ なんであの人の時計はよくて、私のは駄目なの⁉︎」

 千聖は土で汚れたスニーカーを脱ぎ散らかして、縁側に怒り任せに地団駄を踏んだ。

「ちぃ、靴」

「なんでっ⁉︎」

「千聖」

 森脇が鋭い視線で千聖を咎める。千聖は口を尖らせながら、踝までの靴下で沓脱石まで降り、靴を拾い揃えた。

「なんでなの?」

 千聖の目から今にも涙が溢れそうだった。森脇の真ん前にペタリと座り込んだ。口はへの字をして、恨みがましい視線を森脇に向けている。

 森脇は深く息を吐き、身体の膝を鳴らしながら立ち上がった。そのまま千聖に背を向け、部屋へと向かう。

「ちぃ、茶」

 背中に感じる視線に愛想無く森脇が言葉を発した。千聖はジャージのポケットから煙草を模したシガレット菓子の箱を森脇の後頭部に投げ付けた。派手な音もなく当たったそれは、森脇の頭を若干前へと倒した後、床に落ちその身を弾ませ、また床に落ちた。

 ぶつぶつと不満を漏らしながら千聖は台所へと向かう。その後姿を森脇は後頭部を片手で押さえながら、あんぐりと口を開けて見送った。

 森脇はシガレット菓子を拾い、開けると1本取り出し笑いながら咥えた。

 千聖は昭和の団地にあるような台所でいつも通りに戸棚から森脇愛用の湯呑みと揃いの千聖の湯呑みを取り出し、四人掛けのテーブルに置かれた電気ポットから湯を注ぐ。

「何が、ちぃ、茶、よっ! 私はお手伝いさんじゃないんだからねっ!」

 不貞腐れた顔でポットの横にあった急須の蓋を開け、茶筒に入っていたスプーンで茶葉を乱暴に入れた。湯呑みからお湯を急須に入れ、均等な濃さになるように順番に湯呑みに注ぐ。

 戸棚の下の開戸を開け盆を取り出し、机の下の竹籠を見れば、煎餅やチョコレート、袋菓子が入っていた。千聖は煎餅を5枚程袋に入った状態で盆の上に置いた。

「ちぃ、煎餅!」

 部屋から森脇が声を張り上げた。

「ちぃ!」

「わかってるってばっ!」

 湯呑みも盆に載せ、縁側に面した部屋に戻ると座卓に伏せた森脇の姿があった。

 縁側から続くその8畳ほどの部屋で森脇は1日の大半を過ごす。座卓には箱に入った原稿用紙が山ほど積まれ、その上に削りたての鉛筆が3本と消しゴムが置かれている。床の間には富士の墨絵の掛け軸とその下に昨日千聖が活けた花が飾られていた。円形の照明が天井から吊るされ、白壁には天井まで届く黒色の本棚に乱雑に本が収められている。床の間の前には千聖が半分に切った牛乳パックが12個並び、3分の1は側面に可愛らしい椿の絵が描かれた布が貼られている。

「はい、お茶」

 千聖は森脇の横に膝をつき、盆を座卓に乗せた。

「……ん」

 前に置かれた湯呑を森脇は両手で持つと、立ち上る湯気に何度か息を吹きかけた。慎重に茶を飲み、一息つく。

「彼女の時計は彼女に似合っていた。 それだけだ」

 森脇は千聖を見ずに冷静に言葉を発した。

「じゃぁ、私は?」

 千聖も森脇を見なかったが、その声は少し震えていた。

「似合ってない」

 千聖はへの字の口から深く息を吐いた。それをチラリと横目で見た森脇は背を丸め、溜息を吐いた。手首に嵌めた男物の洒落っ気のない黒い革ベルトの時計を外した森脇は、千聖の左手を掴んだ。掌を空へ向け、時計を嵌める。金の固定式ベゼルが光るそれは、森脇が長年愛用しているお気に入りだった。

「ちぃにはこの方が似合いだ」

 森脇の突拍子もない行動に千聖は目を瞬かせた。

「これ……お気に入りの」

「やるよ。 どこの誰だか知らんが、あんなちぃに似合わん時計を贈る男よりマシだろう」

 千聖は一瞬何を言われているのかが理解できず、口をあんぐりと開けて森脇を凝視した。

「……は?」

「隠さなくていい。 女性同士でペアの時計を買うとは考え難い。 あれは男からだろう?」

「いやぁ……」

 千聖は首を傾げ、時計を購入した時のことを思い出した。確かにあの時計はペアの物だったが、男性用は時計の文字盤に傷がつき欠品となり、女性用のものだけが若干値引きされ売られていたのだ。千聖は元々購入予定のものよりも多少は安いそれを購入したのだった。

「いや、教授。 あれは違うよ!」

 焦り慌てた千聖はその時の状況を森脇に話した。すると、森脇の顔はだんだんと呆れ顔になり、話し終える時には大きな溜息が千聖の耳に届いた。森脇は額に手を当て俯き、暫く黙りこんでいた。千聖が森脇の顔を覗き込むとその顔をゆっくりと上げた。

「時計、返せ」

 森脇は千聖の手首に手を伸ばすが、寸でのところでそれを避けた。

「くれるんでしょ!?」

「あの時とは状況が変わった。 返せ」

「嫌だよ! くれるって言ったのに!」

「いいから返せ!」

 取り戻そうと襲いくる森脇の両手を千聖は避けながら、千聖は身体を後方へと傾けていく。森脇が千聖の右手首を掴み、引き離そうと反射的に千聖はその腕を後ろにひいた。森脇はバランスを崩し、千聖の上へと倒れこんだ。千聖は背中に軽い衝撃を受け、目を瞑った。

「すまん」

 森脇の声に千聖が目をゆっくりと開けると、目の前に森脇の顔があった。森脇の大きくゴツゴツとした手が頬を包み撫で、千聖は目を丸くし何度か瞬きをした。

「な、なに?」

 真剣な表情の森脇に千聖の心臓は早鐘を撞いていた。視線を逸らせずに、徐々に近づく森脇の顔を避けることも出来ず、千聖は口に柔らかな感触を感じた。思いがけないことに思考が停止した千聖がされるがままなっていると、森脇は千聖の両頬を挟み、口の中を侵略した。胸を叩く千聖に森脇はさらに貪るように深い口づけを続けた。

 目をギュッと瞑る千聖を目を細めて森脇が見詰める。唇がゆっくりと離れ、森脇の親指が千聖の唇を撫でる。千聖の湿った唇からは甘く、荒い呼吸がとめどなく吐かれている。

「なんで?」

 千聖は森脇と揺れる眼で視線を合わるとビクッと身体を震わせた。千聖の顎に手をかけ、そのまま森脇は千聖の唇を再び塞いだ。わずかに開けられていた千聖の口腔に森脇の舌が入り込み、千聖はそのくすぐったいような何とも言えない感触に塞がれたまま胸を再び両手で叩いた。

 唇が離れ、千聖はその柔らかな笑みを浮かべた森脇を睨みつけた。森脇は千聖の首元に顔を埋め、強く吸うと、千聖はチクッとした痛みに声を上げる。

「痛っ」

「虫除けだ」

「はぁっ!?」

 森脇は千聖の頭を撫で、そのまま髪に手を絡める。

「時間を無駄にした。 これからは遠慮はしないからな」

「なっ!」

 森脇は再び千聖の唇を塞ぎ、千聖は困惑の面持ちながらもその広い背に手を回し、目を閉じた。




ありがとうございました。


参考:Wikipedia シャーロック・ホームズ(アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズシリーズ』より)

         ジェームズ・モリアーティ(アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズシリーズ』より)

 

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