5 エミオン・わからない
なにを言っているのだろう。
エミオンは唖然とした。
本当になにを考えているの、この人は。誰にも渡さない? そのセリフをそのまま受け止めれば情熱的に口説かれているみたいだけど。
――まさか。
――ありえない。
深読みしたらばかをみる、エミオンはぐらつく心を抑え込み、冷静にそう考えた。
思わせぶりな態度のように見えても真意は違うところにあるのだろう。
甘い言葉とは裏腹にゼクスの眼は凍結していて温かな情など一片もない。鋭利なまなざしに射殺されそうだ。
思えば――ずっと昔、幼い頃からゼクスの視線を感じていた。ふと気がついて振り向けば、いつも見つめられていた。
冷たく凍りついた、それでいてなにか物言いたげに細められた瞳。
放っておいてほしいし、放っておきたいのに、いつまでもじっと見つめられるものだから気になって仕方ない。
我慢できなくなったエミオンがゼクスに詰め寄ったことも数知れない。
「用があるならさっさと声をかけてください」
「用などない」
「用がないなら見ないで!」
「……それは断る」
「なんでよ!?」
「なんでもだ」
埒の明かない会話に頭にきて幾度食ってかかったことか。
無意味なやりとりをもう何回繰り返したことか。
――私のことが嫌いなら近づかなければいいのに。
エミオンは苛々しながら無言で見つめてくるゼクスを無視した。
――負けるものか。
なぜ執着されるのかはわからない。訊いてもまともに答えてはくれない。本当に理解不能な男だ。
まったく不意に、エミオンはゼクスのために死のうとしたことがばかばかしくなった。
エミオンはよろよろしながらベッドから下りて、慌てて駆け寄ってきた侍女のチャチャを背中に庇った。キッ、と眼で威嚇し、ゼクスと対峙する。
「チャチャ――私の侍女にもその家族にも手を出さないでください。私も二度とこのような真似をしないと誓いますから」
ゼクスの黒い瞳が僅かに細くなる。
「……本当に?」
「本当です」
誓いを証明しろと言われたらどうしよう、と考えたがそんなことは言われなかった。ゼクスはエミオンが拍子抜けするほどあっさりと頷いて言った。
「わかった。あなたを信じよう」
そのまま寝室を出て行きかけたゼクスだが、去り際に一度だけ振り返った。
「……」
無言の凝視の意図を読み取れない。
どこか傷ついているように見えたのは、たぶん気のせいだろう。
ゼクスの足音が遠のいて、エミオンはようやくひと心地ついた。途端にまた激しく咳き込む。緊張の糸が切れたのだ。喉が焼けるように痛い。
すぐにチャチャが水のおかわりを持ってきた。
「早く傷の手当てをいたしませんと。痕など残っては大変です。お医者様を呼んで参ります、お嬢様は横になられていてください」
てきぱきとチャチャが動く。外見の印象より機敏で有能な侍女なのだ。
部屋を出ていったと思ったらチャチャが引き返してきた。オレンジ色のラクの実を盛った器を両手で抱えている。
「お召し上がりになりますか?」
果実を眼にした途端、クー、と腹が鳴った。
身体は正直だ。めまいを覚えるほどの空腹感をおぼえて、エミオンは器を受け取った。
「ええ」
ラクの実は大好物だ。喉は皮膚が擦れて痛むがゆっくり咀嚼すれば大丈夫だろう。
エミオンはさっそく一切れ口にした。瑞々しい。甘い果汁が胃に沁みる。
「すごくおいしい……これ、チャチャが持ってきてくれたの?」
「いえ、ゼクス殿下の差し入れにございます」
にわかに噎せた。
まさか毒は入っていないだろうが……。
エミオンの懸念を察したチャチャが言い添える。
「毒は入っておりません。ゼクス殿下が手ずから剥いてくださったものを、殿下のご配慮で私が一つ味見いたしました」
エミオンは呼吸をするのも忘れるほどびっくりした。
「……嘘でしょ」
――ゼクス殿下が果物の皮剥きを……?
エミオンは戸惑った。皿の上のラクの実を疑わしそうに見る。
――だいたいゼクス殿下がなぜ私の好物を知っているのだろう?
エミオンは若いのに老成したゼクスの顔を思い浮かべた。
意地悪でそっけなくて気遣いなど無縁なほど冷たいくせに、差し入れ?
「どういう風の吹きまわしなの……」
懐疑的に呟くと、横からチャチャが深い安堵の吐息をついた。
「でもギリギリ間に合ってようございました。お嬢様のお命が助かったのはゼクス殿下のおかげです。もしあのとき殿下がお部屋を訪ねてくださらなければお嬢様は……」
チャチャの声に怯えが混じり、しりすぼみになる。
エミオンもいまごろになってじわじわと恐怖が込み上げてきた。
突然、チャチャは床に跪いた。
「お願いにございます。もう二度と、もう二度と! このような恐ろしいことをなさらないでくださいまし。お嬢様の身にもしものことがあれば、チャチャは、チャチャは……」
エミオンに嘆願しながらチャチャは泣き崩れた。エミオンもつられて泣いた。二人で身体を寄せあってしゃくり上げる。
先行きの見えない不安に押し潰されそうだ。
――家に帰りたい。
――見合いなど望むのではなかった。
後悔しても手遅れだ。
エミオンは嗚咽を漏らした。
――この結婚はわからないことだらけ。
唯一はっきりしていることは、ゼクスと円満な夫婦になどなれない――ということだけだ。