3 エミオン・お見合い相手は
いったいどうしてこんなことになったのだろう……?
もう涙も枯れ果てた。
エミオンは、ぐったりと疲れきっていたがノロノロとベッドから起き上がった。
思いっきり泣きわめいたせいで頭が痛い。こめかみのあたりがズキンズキンする。
小卓におかれていた水差しからグラスに水を注ぎ、少しずつ飲み干す。
喉の渇きは癒されたが胸の痛みは癒されない。
――ことの起こりは、六日前。
「縁談が決まった」
突然、そう父に告げられたときは驚いた。
反対していたはずなのに、急にどうしたのだろう?
おかしな点はそれだけではない。縁談の話がトントン拍子に運んだのは嬉しいが、肝心のお見合い相手も教えてもらえなかった。
ただ「決して失礼のないように」と幾度も念を押されたので格上の家柄なのだと思った。
同じ拝命十三貴族でも上位三家はやはり別格だ。特に次の当主の第一夫人ともなれば、相当高いスキルが要求される。
本当に三家のどれかだったら引きはすごいが、あまり嬉しくない。
……そんなに立派な家でなくてもいいのに。
エミオンは正直「気詰まりしそうで嫌だなあ」と思ったが、縁談を望んだのは他でもない自分だ。いまさら嫌もなにもないだろう。
――覚悟を決めよう。
動揺を抑えてエミオンは父に向って頷き、ぎこちなく微笑んだ。
「ありがとうございます、お父様。大丈夫です、失礼のないように頑張ります! お見合いのお相手を教えていただけないのは不安ですけれど、私を気に入っていただけるよう努力しますから!」
――お見合い相手が誰だって関係ない。物凄い浪費家だったり、遊び人だったり、おかしな性癖持ちだったりしなければいい。ある程度まともで、働き者で、普通の人でいいのだ。極端な話、ゼクス殿下でなければ誰だっていい。
――そうよ、ゼクス殿下以外なら誰だっていいのよ。
脳裏にふっと黒い瞳の無愛想な美貌がよぎった。
エミオンはかぶりを振って残像を追い払った。
傍にいてもいなくても苦しめられる。
――もういい加減に離れたい。楽になりたい。あの瞳から解放されたい。
結婚さえしてしまえば。
人妻になりさえすれば、会わずに済む。
夫でもない男性とそうそう頻繁に交流など持てなくなるのだから。
「精一杯きれいに着飾って、お淑やかにして、なんとか気に入ってもらわなくちゃ……」
貴族の『縁談』は、選択権は男性側にある。条件に折り合いがついた段階で見合いの場がもうけられ、男性が女性を気に入れば婚約となる。そのため女性側の身分が上で男性側が下だった場合は条件交渉が事前に交わされ、不成立だったときは見合いにまで至らない。一度見合いの席につけば女性に拒否権はなく、話がまとまった暁にはすべて男性側の総意で進められるのだ。
そして、見合い当日。
馬車が着いたのは王宮だった。
わけがわからないまま追い立てられるようにエミオンが案内された応接間に待っていたのは、ゼクスだ。
ほとんど条件反射で身構えてしまった。
――どうしてここにゼクス殿下がいるのだろう?
エミオンは驚きと不安と疑問をまとめてぶつける形で呟いた。
「なぜ……?」
美しく装ったエミオンとは対照的にゼクスは平時の恰好そのままだった。黒一色の服、礼装ですらない。
応接間のバルコニーに続く扉の前に後ろ手を組んで立っていたゼクスはエミオンが部屋に入室するとゆっくりと振り返った。
そして不審に戸惑うエミオンのもとへ静かに歩み寄り、表情一つ変えることなく告げた。
「……あなたは私の妻になるのだ」
茫然とした。
耳がおかしくなったのかと思ったほどゼクスの言葉は理解しがたかった。
エミオンは混乱して頭を振った。なにも考えることなく即座に拒んだ。
「嫌です」
「嫌でもなるのだ」
「嫌ですったら!」
エミオンは顔色をなくし金切り声で叫び、よろめくように後退した。
だがゼクスは非情な声で言いきった。
「拒否権はない。いまこの瞬間から、あなたは私の妻だ」
家には帰してもらえなかった。
そのまま南の棟――ゼクスの住居棟――の一室に押し込められた。泣けど叫べど誰も来ない。一昼夜が経過した。食事と水を運ぶ侍女の他、ゼクスもあれから一度も姿を見せない。
「どうして……」
もう何百回も同じ問いを繰り返している。
「あれほどゼクス殿下以外なら誰でもいいと言っておいたのに――よりによって、なぜゼクス殿下の妻にならなければいけないの? お父様もお母様もどうかしているとしか思えないわよ。でも、でも一番どうかしているのは……」
――一番どうかしているのはゼクス殿下だ。
なぜひどく嫌っている相手を妻に選ぶなど、ばかげた真似をするのだろう?
それとも形ばかりの妻にしておいて、愛人を囲って侮辱するつもりだろうか?
あるいは、もっと陰険な方法でいためつけられるかも……。
エミオンはしゃくり上げた。あれほど泣いて、もういいかげん涙も尽きたと思ったのに、まだ無尽蔵に込み上げてくる。
ゼクスの凛とした背を思い出す。
エミオンを妻にすると宣言した直後「仕事がある」と言って立ち去った。振り返ることもしなかった。
「……これも新しい苛めなの?」
ぞっとした。
一生ここでなぶられ者になるくらいなら、死んだ方がましだ。
――死。
不意に芽生えた暗い誘惑に、エミオンの心臓は昂った。
究極の現実逃避だ。なんて甘く響くのか。
死んでしまえば、もうゼクスにいびられずに済む。
思い返せば、数々の非道な仕打ちを受けた。物心つく前の話だけではない。デビュタントとしていった社交の場では男性と話しているだけで睨まれ、ダンスの申し込みをしようと相手を探すたびに邪魔をされる。新しいドレスを着れば無言で眼を逸らされ、新しい髪形を見れば怖い顔で凝視される。たまには褒め言葉の一つも言えないのかと詰め寄ったこともあったが、「どこを褒めればいいのだ」と吐き捨てられた。
――もう十分だ。
エミオンは嗚咽を漏らした。
命を断てば、ゼクスの心ない言葉に傷つくこともなく、嘲笑を浴びることもない。冷たく見つめられたり、手を振り払われたり、迷惑そうに拒否されたり、自分がとるにたらない存在だと――思い知らされずにすむのだ。
――終わりにしよう。
――もうこれ以上、ゼクス殿下に傷つけられるのは嫌。
――妻、なんて……心も身体もすべてを委ねなければいけないなんて拷問にひとしい。
エミオンは手の甲で眼元を拭った。
心が決まった。
――短剣がほしい。
貴族の女の自決は短剣で喉を突くと相場が決まっている。
エミオンはやっきになって部屋中を探した。だが短剣はみあたらない。それどころか代用できそうなものがなに一つない。筆記用具すら置いてないなんて、どういうことだ。
だがエミオンは諦めず必死になって考えた。
なにか、なにかあるはずだ。
そしてベッドに視線を留めた。上掛けを大きく捲り、シーツを引きはがし細く捩じる。シーツだけでは長さが足りなかったので薄い方の上掛けも使い、きつく結び目を作り首に巻きつけてから輪にした。
次第に動悸が速くなってくる。
――どこか、首を吊れる高い場所……。
思い詰めて部屋中を見回すエミオンの耳に控えめなノックが届いた。