24 ゼクス ・夜会にて・4
どれくらいぶりだろう、こんなに近くでエミオンの顔を見るのは。
憔悴して疲れた美貌が痛々しい。以前の天真爛漫な明るい瞳はなりを潜め、いまはすっかり陰りを帯びて憂いが晴れることはない。
その上、眼元や白い頬にひどく泣き腫らした痕が残っている。
ゼクスは抑えきれないくらいの怒りを感じてエミオンに再度問い質した。
「あなたの耳にろくでもない戯言を吹き込み泣かせた不埒者は、どこの誰だ。教えてくれ。私が始末してくる。それとも、どうしてもあなたの口から言いたくないのであれば後日調べて片をつけると約束する。だから頼む。そんなに悲しい眼をしないでくれ――あなたに悲愴な顔をされると、私は……」
苦しくて堪らない。
どう慰めればいいものかわからなくて、とても困る。
ゼクスは深刻な表情で言葉を切った。
……もし相思相愛の相手ならばいくらでも慰める方法はあろう。抱き寄せて髪を撫で、口づけをし、優しい言葉をかける。温もりと愛情を一身に注ぐことができれば、安らぎを与えることはできよう。
それが許されるなら。
――だが。
許されぬ身の上であるときは、どうすればいい。
ゼクスは震える息を吐いて視線を落とした。無力な自分が厭わしい、と歯ぎしりする。
ゼクスに思いつくのは、せいぜい花を贈るとか、好物を届けるとか、犬を与えるとか、そのぐらいだ。 他の誰でもできることばかりで、心から寄り添い傷心の妻を労わる夫らしいことは、ひとつも出来やしない。
ゼクスは掴んでいたエミオンの二の腕をそっと放し、ゆっくりと足元に跪いた。
「声を荒げて、すまない」
つい感情が昂って怒鳴りつけてしまったことを、ゼクスは詫びた。
「……その、繰り返し言うが……私はあなたを嫌ってなどいない。むしろ私こそが、あなたに嫌われているだろう」
直視したくない現実だが、他でもない自分の日頃の行いが招いた結果だ。
ゼクスはただでさえ悪い顔色をよりいっそう悪化させながら俯き、のろのろと口を開いた。
「わかっている……これまで私があなたにしてきた数々の非礼を省みれば、嫌われるのは仕方のないことだし、理解に足る。だから……あなたが私をまともに相手にしたくなくても、やむを得ないことだと思う。卑怯な手であなたをむりやり娶った私を、許せなくてもあたりまえだとも……思う。私は、あなたに一生憎まれることも覚悟の上で、一方的に我儘を通したのだ……」
懺悔すらできない。
まぎれもなく自分勝手な横暴だったと自覚している。
許されることではないと、重々承知の上だった。
――どんな手段をとっても、エミオンを他の男に渡したくなかったのだ。
己で紡いだ自虐の言葉が矢の如く胸にぶすぶすと突き刺さる。
おそらく、とてもひどい顔をしているだろう。それこそダンに見られようものならば主治医を呼ばれて即、面会謝絶にされかねない。
ただでさえ不眠症気味なのに加え、ここのところのエミオンとの不和のせいで余計に眠れない日々が続いていた。
だがゼクスにとって、ただ黙々と政務をこなしているときだけがエミオンのことを考えずに済む時間であり、身体は疲労困憊でも心は冷静さを保っていられた。
ところがひとたび仕事を終えてしまうと、意識はすぐにエミオンのもとへと向く。
いまなにをしているのか、なにを考えているのか、どんな夢を見ているのか……。
恋しくて、寂しくて、会いたくて、何度も部屋の前まで行っては、引き返した。扉をノックするため持ち上げた手を、そのまま下ろして立ち竦んだ。
いまもって、わからない。
なぜゼクスが自分を殺せと言っただけで、エミオンがあれほど怒り狂ったのか。
ゼクスにしてみれば、自分から別れることも離れることもできない以上、エミオンの手で殺されるなら本望だったのに。
率直にそう告げてみたのに、エミオンは涙目でゼクスを罵り、部屋から叩き出した。
―ーそのまま現在に至る。
どうして冷戦状態になったのか。
たとえ嫌いな男でも自ら手にかけるのは嫌だったのだろうか?
自問自答を何度繰り返しても正解はわからずじまいで、苛立ちばかりが募ってゆく。
ゼクスは深い溜め息を吐いた。
頭も身体も、鉛のように重い。手足は指先まで冷たい。
いま、エミオンはどんな眼で自分を見つめているのだろう?
ゼクスは訥々と呟いた。
「……私は、あなたを他の男に奪われることは我慢ならなかった。それくらいならいっそ、憎まれようと恨まれようと謗られようと、どんな手を使っても私の妻にしようと心を決めていたのだ。あなたを幸せにはできなくても、大事にしようと、誰よりも大事にしようと、それだけは心に決めていたのに……それすらも、なかなかうまくいかないものだな……」
語尾は掠れて、静寂に消えた。
ややあってエミオンの戸惑ったような声がゼクスの耳に届いた。
「あの」
「なんだ」
「わ、私の、自惚れかもしれませんけれど……」
ゼクスは身を固くした。次にエミオンがなにを言うかと想像がつかなかった。
「……もしかして、殿下は……」
続きを待った。
だがいくら待っても、その先が続かなかった。
ゼクスは渋々と顔を擡げた。訝しげにエミオンを凝視したところ、今度はエミオンが顔を伏せてしまった。
「……なにか言いたいことがあれば、聞くが」
「……」
沈黙が返ってくる。
ゼクスはエミオンの態度に気が動転した。またなにか失言をして怒らせてしまったのだろうか? と肝を冷やしたものの、それにしてはどうも様子がおかしい。
頬に手をあてたり、首を振ったり、口元を掌で覆ったり、ぶつぶつとなにか呟いている。
明らかに挙動不審だ。
ゼクスはまた無視をされるかもしれないと思いつつ、声をかけてみた。
「……そういえば、私に話があると言っていたな。どういった内容の話だ?」
問いかけると、エミオンがビクッとし、気を落ちつけてからようやく顎を上向かせ、ゼクスを見た。真剣な瞳だ。極度に緊張しているためか、頬が強張り唇も震えている。
「お話をする前に、ひとつ、お訊きしたいことがあります」
「なんだ」
「もしかして、殿下は……」
さきほどとそっくり同じセリフを繰り返し、また黙る。
口ごもり、言いにくそうにするエミオンを見つめ返して、ゼクスは静かに促した。
「私が、なんだ?」
エミオンは意を決したように一度唇を横に結んでから、たどたどしい調子で言葉を紡いだ。
「わ、私を」
「姫を?」
「す、す、す」
「す?」
ゼクスが首を傾げると、エミオンの頬が闇の中でも鮮やかに赤く染まった。
一瞬にして色香を纏ったエミオンにゼクスが眼を奪われたそのとき、耳を澄ましていなければ聞き逃してしまいそうなか細い声でエミオンが言った。
「私を、好き、なのですか……?」