19 エミオン・猜疑心
エミオンは離れていくゼクスの後ろ姿を苦々しい顔で見送った。
「黙って行ってしまわれるなんて……お嬢様のお声が聞こえなかったのでしょうか。残念でございますね」
チャチャが慰めの言葉を寄せてきたがエミオンは違う、と思った。
聞こえなかったのではない。聞こえていたのに、無視したのだ。
多忙の身でこんなに近くまで足を運んでおきながら、ひと声かけるでもなく立ち去る。気まぐれな風のように。
ゼクスはいつもそうだ。
ふと視線を感じて眼を上げると、彼が遠くからこちらを見ていることが何度もあった。
そのくせエミオンが気づいたそぶりを見せると決まってすっと物陰に隠れ、身を翻す。
なにも言わずに。
なにか……言いたいことがあるならばはっきり言ってくれればいいのに。
切なげに細められた黒い瞳――沈黙する唇。ゼクスほど寡黙な男をエミオンは他に知らない。どうしてああまで口数が少ないのか。それともエミオンの前でだけとても無口で、他では違うのだろうか。
エミオンは胸苦しくなり、ギュッとドレスを掴んだ。
場を取り繕うようなチャチャの声が明るく弾ける。
「まあ、おいしそうなイチヂクですこと。お嬢様のお好きなキュプリ産のものですよ」
「チャチャ」
「はい、なんでしょうか」
チャチャはイチジクの籠を腕に持ち、小首を傾げた。
「……」
エミオンはゼクスが消えた径の先を眺めながら呟いた。
「……ゼクス殿下には、他に想う女性がいらっしゃるのではないかしら」
口にした瞬間に後悔した。たちまち苦い痛みが押し寄せる。
ゼクスへの気持ちを自覚したあの日から、消えない猜疑心。何度打ち消しても胸に燻り続け、澱の如く溜まっていく。
結婚を強いられ、名ばかりの夫婦となって二年。
互いの心は見えないままだ。
エミオンはこれ以上余計なことを言わない方がいいとは思いながらも、止められなかった。鬱屈した負の感情が堰を切って流れ出る。
「だってそうとしか考えられないでしょう。私はただのお飾りの妻。こんな離れに軟禁されて、毎日毎日することもなく、お互いの顔を見るのは夕食のときだけ。本来なら王子妃の外交職務や社交界への出席、お客様のおもてなし、慈善活動、そのほかにもいくらだってやることがあるはずなのに――なにもさせていただけないなんて、おかしいじゃないの」
まるで、その役目を務める者は他にいると、暗に言われているようだ。
「……私を世間の眼に触れさせるのが嫌なのだとしか思えないわ。だったら、そうする理由はなに? 私を隠す真意はどこなの? ゼクス殿下の態度はまるで――」
エミオンの手から日傘が離れる。エミオンは両手で顔を覆った。しゃくり上げる。
以前、「誰にも渡さない」と告げられたことはあった。その類いの言葉は何度も聞かされた。
だが、「必要だ」と言われたことはない。「必要」とされたことがない。
無論、愛を告げられたことも、一度もない。
エミオンは自嘲気味に微苦笑した。
……愛されていないのだから、当然と言えば当然だけれど。
それでも、みじめだ。
エミオンは悔しくて、情けなくて、苦しくて、辛くて、涙が止まらない。
嗚咽とともに漏らした。
「――まるでどなたかを待っているようだわ。本命の恋人がどこかにいらっしゃって、私は替え玉……いつでも退けられるよう、いっときここに置かれているだけ……或いは、態のいい身代わり」
「お嬢様」
「あり得ないと思う?」
「はい」
チャチャの返答に迷いはなかったが、エミオンの耳には空々しく聞こえた。
「あの……」
尚もチャチャはゼクスを弁護しようという姿勢を見せたが、エミオンは胸の中のものを一気に吐き出した虚脱感でひどく疲れてしまった。
「部屋に戻ります。少し一人にして」
エミオンはベッドに突っ伏して気のすむまで泣いた。なにがこれほど悲しいのか、自分でもわからなくなっていた。ただ心が悲鳴を上げていた。寂しい――と。
泣き疲れてそのまま眠ったらしい。
眼を醒ましたとき部屋は薄暗く、灯りは一つしか点いていなかった。
横になったまま、ぼんやりと考える。
ゼクス殿下の好きな人……。
どんな方なのだろう。美しいだろうか。可愛らしいのだろうか。いや、容姿よりも心映えの優れた人なのかもしれない。
その方には殿下も優しくされるのだろうか。他愛のない話をしたり、笑ったり、一緒に歩いたり、共に眠ったりするのだろうか。
「嫌……」
そんなの嫌だ。
嫉妬のあまり胸が引き裂かれそうだ。悲しくて悲しくて悲しくて、どうしようもない。
エミオンは小さく呻いて膝を抱えて丸まった。蹲り、また泣く。
切なくて、苦しい。
自分の夫に片想いしているなんて、笑い話にもならない。
いつまで。
いつまでこんな日々が続くのだろうか。
「泣くな」
突然、低い声がすぐ近くで聞こえてエミオンはビクッとした。
「私だ……驚かせてすまない」
ゼクスは恐縮したように詫びた。
まるで気がつかなかったが、ベッドの傍の椅子に居心地悪そうに腰かけている。
「……なぜ……」
エミオンは茫然とした。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま信じられないものを見るようにゼクスを見つめる。
「あなたの体調がすぐれないと聞いて、心配で……」
「心配……?」
「なにが、『嫌』なのだ?」
「え?」
ゼクスは口ごもり、いったんエミオンから視線を外したものの、また眼を合わせて言った。
「そんなに眼を腫らすほど泣いて……なにが『嫌』で泣いているのだ? 私で解決できることであればなんでもする。言ってくれ」
真剣なまなざしに射貫かれてエミオンは震えた。
いまここで本当のことを告げたらどうなるのだろう。
あなたが他の女性を想うのが嫌なのだと。私だけを見てほしいと。
身を投げ出して縋りついて懇願して叶うのであれば――そんなことで心が手に入るのならば、ためらうわけがない。
でも……。
エミオンは顔を伏せながらゼクスに背を向けた。
「なんでもありません」
「私では役に立たないと?」
「そうではなく……誰にもどうにもできないことなのです」
「どうして」
「人の心なんて動かそうと思って動かせるものではないでしょう? 好きな気持ちは止められない……断ちたくても断ち切れない……引き止められるものならよかったのに……」
行かないで、なんて言えない。
傍にいて、なんて口が裂けても言えるわけがない。
散々、嫌って、冷たくして、避けてきた。
それなのに、いまさら。
相手の心が自分にないとわかってから自分の気持ちに気づいてみたところで、遅すぎる。
また涙がせり上がってきた。
エミオンは手の甲で涙を擦ろうとした。その手首を不意に掴まれ、気がつけば背後から抱きこまれるようにゼクスのたくましい腕の中にいて、怒りとも悲しみともつかない瞳に覗き込まれていた。