1 エミオン・嫌いな人
「ドブス!」
どんな女の子も平等に傷つけることができる言葉といえば、この一言に尽きると思う。
エミオンは齢三歳にしてその威力を、身をもって知った。
第三王子ゼクス殿下とはからずも出会いを果たし、あれから十二年が経つが、あのときの心の傷はいまだ癒されていない。
それというのも、エミオンの幼心を抉ったゼクスがことあるごとに屋敷を訪ねて来ては「ブス」と罵り、イジワルをするのだ。
クアン兄さまと友達だと言ってしょっちゅう顔を見せるゼクスを、エミオンははっきりと嫌っていた。
どこの誰が「ブス」と言われて近づけるわけがない。
それなのにゼクスはいつも必ず隠れているエミオンを探しあてる。
そのたびに嫌味や皮肉を言ってエミオンをちくちくと苛めるのだ。
今日だって妹のルネと二人でクッキーを作っているところに突然現れて、ルネには愛想よく「とてもお上手だ」と褒めて味見までしたのに、エミオンに対してはそっけなく「クッキーか……」と言ったきり黙ってしまった。
――クッキーでしょう! どう見ても!
――それともなに? ルネのはクッキーに見えて、私のはクッキーに見えないとでも!?
内心怒り狂ったものの、エミオンは自分を抑えた。ここで感情的になってはゼクスの思うつぼだ。相手にしてはいけない。
エミオンはゼクスを無視することにした。
焼き上がったばかりのクッキーを、形崩れしないよう一つずつ皿に移していく。
「……」
嫌なことに視線を感じる。
渋々背後を確認すると、案の定ゼクスはすぐ傍にいて、エミオンの手つきをじっと見つめている。
嫌々ながらエミオンは訊ねた。
「……召し上がりたいのですか」
「そうではない」
だったら見なければいいのに。
文句を言いたい衝動をなんとか鎮める。
「そうですか」
「だが、あなたがどうしてもと言うのであれば、一つ試してみてもかまわない」
ムカッとした。
なぜそんなことを言われてまでせっかく焼いたクッキーをあげなければいけないのか。
「無理に召し上がらずとも結構で――」
エミオンは訊ねなければよかった、と後悔しながらゼクスに背を向けた。
早く帰ってくれればいいのに、と憤るエミオンの肘をゼクスが掴んだ。そのままエミオンの指に摘まれていたクッキーを口元へ運び、パクリと食べる。
エミオンはびっくりするのと、身構えるのを同時にした。
これまでの経験上、このようなことのあとで嬉しい展開になったことはないのだ。
案の定、ゼクスは顰め面をして言った。
「……甘い」
「クッキーですから!」
材料はルネと同じものを使っているのだ。エミオンのクッキーだけが甘いわけではない。
ゼクスはとにかく自分をけなさないと気が済まないらしい。
「私は甘いものは苦手だが」
「では今度、塩入クッキーを作って差し上げます」
エミオンはゼクスを睨み、皮肉のこもった声でそう言うと、なぜかゼクスは唇の片方の端を吊り上げた。
「悪くない。それならば、まずくても食してやる」
食べる前から「まずい」とは失礼すぎる。
堪忍袋の緒が切れたエミオンはゼクスを厨房から叩き出した。
こんなことが十二年も続けば十分だ。
早いところ、どこかに嫁いでしまいたい、とこの頃はよくそう思うようになった。
さいわい、社交界デビューも済ませたので縁談相手には事欠かない。
拝命十三貴族の爵位は伊達ではない。
後ろ盾を得たい下位の貴族から政治の場で発言力を強化したい上位の貴族まで、縁故関係を結びたい者が引く手数多だ。
――私を好きだと言ってくれる男性がいれば、それが一番いいのだけれど。
――それが叶わない以上、ゼクス殿下以外なら誰だっていい。
たとえ旦那様となるひとがどんな嗜好の持ち主でも、多少のよくないところには眼を瞑ろう。自分だって完全に素晴らしい淑女とは、まだまだ言い難いのだから。
エミオンは窓辺に立った。
空を見上げると鈍い月光を地上に射す三日月が浮かんでいた。上空は風が強いためか雲の流れが速く月をきまぐれに覆い隠している。
ふと、夜の闇にゼクスの髪と瞳の色を重ねていた。
どことなく陰りのある美貌、落ち着いた身のこなしは風格を備えていて、少し見ない間にまた男らしさを増していた。
そんなこと認めるのは癪だから言わないけれど。
「……あんな皮肉屋」
昼間ゼクスに掴まれた肘が不意に熱くなり、驚いたエミオンは手で擦るように熱を払い落した。
――会えばムカつく、嫌な男。
やや乱暴にカーテンを閉めて月を視界から追い出す。
エミオンはひそかに心に決めていた。
他の人には愛想よく物腰も柔らかい、ただエミオンにだけ冷たいゼクスを、誰もが羨むほど幸せになって見返してやるのだ。