14 ゼクス ・笑顔
「朝ですったら!」
叩き起こされて(本当に叩き起こされて)、ゼクスは薄眼を開けた。
うるさい。
誰だ、いったい。
「私は朝が弱いんだ……」
ゼクスが文句の一つも言ってやろうとしたとき、視界に飛び込んできたのはエミオンの顔だった。
「……」
幻か。
そうに違いない。
エミオンが私を起こしてくれるなんてそんな夢のようなことがあるわけが――。
「あいた」
いきなり平手で顔面をはたかれる。
無論、手を出したのはエミオンで、腰に手をあて仁王立ちになり怒っている。
「『あいた』じゃありません! なにどさくさにまぎれて私のお尻を触ろうとしているんです! 痴漢は犯罪ですよ。ぜーったいに許しませんからっ」
「ち、違う! 痴漢しようとしたわけではない。あなたが私の寝室にいるなんて信じられなかったから、ちょっと本物かどうか確かめようとしただけだろう」
「本物ですとも。さ、眼を覚ましたんでしたらとっとと起きて顔を洗ってください。朝食の用意が出来ています」
「……私はいらない。朝は食さないのだ」
ゼクスはのっそりと半身を起したものの、ぼーっとしたまま答える。
半睡半醒状態のゼクスをよそにエミオンは窓を開けて部屋の換気をし、着替えと洗顔の準備を整えながら言った。
「ダメです。朝はしっかり食べないと身体が持ちません。そんなんだからいつも蒼白い顔で具合が悪そうに見えるんです。言っておきますけど、それ以上痩せたら隣に並んで座りませんから」
「……わかった。食す」
ゼクスはてきぱき動くエミオンの言うなりに身支度を整え、顔を洗い、ガーデンテラスに設けられた食卓についた。
テーブルにはイチヂクのパンと卵料理とチーズとサラダ、バター壺、蜂蜜、それに干し果物を混ぜたヨーグルトと青汁が並んでいる。
向かいの席にエミオンが座り、ゼクスは戸惑った。
「どうぞ、召し上がれ」
「……」
ゼクスは黙々と食べた。正直、まだ頭がうまく働かない。
どういう風の吹きまわしなのだろう。エミオンが朝からかいがいしく世話を焼いてくれるなんて、かつてない珍事だ。青天の霹靂といっても過言じゃない。
――もしかしたら、とうとう愛想をつかされて「実家に帰る」と言い出されるのかもしれない……。
――冗談じゃない。そんなことは断じて承服できない。だがなんと言って引きとめよう?
ゼクスが戦々恐々とそんなことを考えていると、声をかけられた。
「それ、お口に合いますか?」
気づかなかったが、じっと見られていたようだ。
「私が作ったんですけど」
「……は?」
ゼクスは既に半分ほど平らげていた卵料理に眼を向けた。
「……あなたが、作った?」
「ちょっと甘すぎました?」
「い、いや、ちょうどいい。うん、うまい」
「よかった」
エミオンが安堵したようにニコッと笑う。
ゼクスは唖然とし、ガシャン、とナイフとフォークを皿の上に落とした。
「どうかしました?」
「笑った……」
信じられない。
エミオンが笑いかけてくれた。他でもない自分に。
「……」
「なんですか?」
ゼクスは眼を細めてエミオンを見つめた。
胸が歓喜で湧き立つ。震えるほど感動した。息がつまり、うまく呼吸ができないほどだ。
だがそんなゼクスの態度をどう見たのか、エミオンは不審そうに眉根を寄せる。
「……笑ってはいけませんの?」
ゼクスはゆっくりとかぶりを振った。
「そうではない。そうではなくて……あなたが私に笑いかけてくれるのははじめてのことだから……その、少し驚いたのだ」
「まさか。そんなことはないでしょう」
「そんなことある。あなたはよく笑う方だが私に笑いかけてくれたことは一度もない。いつも怒っているか、睨んでいるか、疎ましそうに見ているか、そんなふうだ」
ゼクスがそう言うとエミオンはすかさず反論してきた。
「あら、それは殿下も同じではなくて? いつも私のことを見ていらっしゃるようですけど、たいていは不機嫌そうに見えますもの」
「悪かったな、もともとこういう顔なのだ」
「ではもう少し血色をよくして仏頂面はやめていただきたいものですわね。せめて私といるときくらいは」
ゼクスはエミオンの真意を測りかねて口ごもった。
気のせいだろうか? 口調は普段より丁寧さを欠いているものの、率直で歩み寄りを感じられる。
「……今日のあなたはいつもと少し違うようだ。なにか理由でもあるのか?」
エミオンはぐい、と青汁を飲んだ。あまりおいしくないようで顰め面をする。
「話をしようと思いまして」
話?
ゼクスは首を傾げた。
「誰と」
「殿下に決まっているでしょう」
「わ、私と?」
「他に誰がいます」
ゼクスはたじろいだ。
離婚話や別居の申し出だったら困る。
そんな話であれば応じるわけにはいかない。
「……なんの話だ」
やや身構えて問い質すものの、エミオンの返答は予期せぬものだった。
「なんでもです。自分の思っていることをなんでもぶつけ合うんです。そうでもしないと、私たちいつまでたってもこのままです。関係の改善なんて到底望めない。違います?」
エミオンはもうこりごりだと言わんばかりに嘆息した。
「私、もう嫌なんです。殿下に嫌味を言われたり、意地悪をされたり、素っ気なくされたり。だからとことん、話し合いましょう。もちろん、お仕事の邪魔をするつもりはありませんので、お時間の空いたときで結構です」
ゼクスは皿の上の料理を全部平らげてナプキンで口を拭った。
「……私は話すのは苦手だ」
いつも気持ちをうまく伝えられなくて苛々する。
言葉を選ぶのも下手だし、心とは真逆のことを言ってしまうこともしばしばある。
「苦手なら克服する努力をなさってください」
「だが私と話しても、あなたはたぶん退屈するだろう」
「退屈でも結構です。面白い話をしたいわけじゃないので。私はただ、殿下のことをもっとよく知りたいだけなんです」
ゼクスは怯んだ。エミオンから視線を外し、床に眼を落とす。
「……私はつまらない男だ。あなたが知って楽しいことはなにもない。話をしてもあなたを不愉快にさせるだけだろうし、おそらくよりひどく幻滅されるに違いない」
ただでさえ嫌われているのに、これ以上はごめんだ。
ゼクスは席を立ってエミオンに背を向けた。
「あなたは私の気持ちなど知らない方がいい……」
どこにいても、なにをしていても、いつもいつも、あなたのことを考えているなんて。
そんなことは知らない方がいい。
仕事をしているときだけがあなたのことを考えずにいられるなんて、言えやしない。
――こんな男、絶対に気持ち悪がられるに決まっている。
ゼクスは無言で部屋を出て行こうとしたところ、グイッと服の裾を引っ張られた。つんのめって驚き、振り返る。
すると、
「そんなことを言って、逃げられると思ったら大間違いです」
凄みのある低い声でエミオンが呟く。
「は・な・し・あ・い・を・す・る・ん・で・す。よろしいですね?」
そのただならぬ剣幕にゼクスが両手を上げて降参するとエミオンは満足そうに微笑んだ。