困惑
「ええ!?母さん、勝手に出て来たの?!」
月の宮で、蒼は叫んだ。維月は真っ赤な目でそこに立っていた。十六夜が横に立っている。
「まあ、いろいろあったんだ。維月ばかりも責められねぇが、維心の気持ちもわかるだけに、オレは複雑なんだけどよ。」
蒼は呆然とした。瑤姫もびっくりしている。
「と、とにかく中へ入って。母さん達の部屋の準備も、侍女にさせておくよ。ひとまず、オレんちの居間へ。」
十六夜は、維月の肩を抱いて居間へ付き添っている。蒼はその姿を見て、複雑だった。夫婦喧嘩の仲裁にもう一人の夫が入るってどうなんだろう。
瑤姫にお茶と入れてもらい、蒼は維月と十六夜と向かい合って座った。落ち着くのを待って、蒼は口を開いた。
「それで、どうして維心様の所から出て来たの?」
十六夜が答えた。
「オレが月の光で連れて来た。前に龍達をここへ連れて来た光だ。」
蒼は首を振った。
「そうじゃなくて、なぜ出て来たんだってこと。」
十六夜は眉を寄せた。
「だから、いろいろあったって言ってるだろうが。オレはずっと見てたが、維月も悪いが維心も維心だ。こういうケンカは、どっちが悪いってのはないのさ。」
蒼は頬を膨らませた。
「でも宮を出て来たんじゃないか。今まで出て来なかったのに、なんで今回に限って思い切ったことしたのかってことだ。」
十六夜は維月を見た。維月はキッと顔を上げた。
「維心様は外へ出るなとおっしゃるけど、私はそんなの出来なくて、今日お留守に南の海を見に行っていたの。そしたらそこへ半神の人が来て…神の世界を知らないから、神に取り次ぎしてほしいって頼まれたのよ。そしたらそこへ維心様が火のように怒って帰っていらっしゃって…回りに当たり散らして怒っていたわ。でも、私が外へ出たくても、維心様はお忙しいし、少しも連れて出てくださることもないし…でもご自分はいろいろと出掛けてしまわれるし。慣れない宮だけど、慣れようと頑張って来たのに、怒ってばかりで、少しもわかってくださらないのだもの…。私は、もともと人なのに。神の世界で、王以外と話さず、外にも出ず、じっとしているなんて、無理。頑張ったけど、これから先、ずっと宮で暮らして行く自信がなくなっちゃって…。」
またポロポロと涙を流す維月に、十六夜はよしよしと頭を撫でた。どうも十六夜は母さんに甘い。そりゃ小さい頃から一緒だったんだから、わからないこともないけど、自分以外の夫が居るのに、その不仲を怒りもせずに聞くなんて、普通は出来ない。さすが月だと蒼は感心した。
「…お前はよくがんばったさ。維心には、お前が決めろと言って来た。もともとオレは自分が不死だから、維心の寿命が尽きるまでって約束で維月をあそこへ預けてたんだ。でも、あいつがもう無理だと言うなら、それに維月が無理だと言うなら、別に早めに切り上げたってかまわないと思うぜ。」
維月は考え込んでいる。
蒼はため息をついた。まあ、確かにそうだ。今までが不自然だったんだし。そのせいでオレ達の結婚式だって、両親共に並んでもらうわけに行かなかった訳だし。
「まあ、ここは母さんの家でもあるんだから。ゆっくりしなよ。」と侍女の入って来たのを見て、蒼は侍女に頷いた。「部屋も準備出来たみたいだ。今日はもう休んで、明日また考えたらいいさ。」
維月と十六夜は立ち上がった。そして、二人で出て行った。
終始無言で聞いていた瑤姫は、複雑な表情だった。
「瑤姫?維心様が気になるのか?」
蒼は気遣わしげに言った。瑤姫は頷いた。
「お兄様は、お母様をとても愛してらしたから…それは、きっとあちらの宮の者全員が知っていることですわ。お兄様は、まず他の者に興味がないかただったから。それがお母様には、本当に…。きっと、構い過ぎてお母様に嫌われてしまったのかもと、私は心配ですわ。お兄様、今頃どうしているのかしら…。」
蒼はどうしたものかと考え込んだ。放っておくにも気になるし、かと言って、こういうことは回りがどうこう言ってどうにかなるものでもない。
ほんとにもう、昔から母さんはこんなことばっかり持ち込んで来て。
蒼は再び大きく深い溜息をついた。
維心は、一人、寝室で気配のない月を見上げて座っていた。
今、十六夜は里へ降りている。きっと、昼間の出来事も見ていただろう。それでも十六夜は咎めもせず、ただ何かあれば手を差し伸べられる範囲で、維月を見ていたのだ。
自分は、維月を何かに持って行かれるのが怖くて仕方がなかった。ずっと自分の守りの中へ入れて置いておけば、それで大丈夫だと…でも、それは維月の気持ちは全く考えていなかったのかもしれない。
この宮へ来て、里に居た頃のような人の生活が出来なくなった。
十六夜は人との生活に慣れている。なので、維月が人として生活していた通りに、きっと生活を共にして行けるのだろう。外出をしようと咎めもせず、どこに行くにもついて出て、または月から眺めて、きっと自由にさせていたのだ。ここに来て、維月はそれすら取り上げられ、神の決まりごとの中へ立たされ、妃としての窮屈な決まりに縛られ、自分の守りに縛られて…。
きっと、言わないだけで、我慢していたこともあったに違いない。
それでも、維心には自分を抑えることが出来なかった。決して失いたくないものだから、しっかりと自分の守りの奥へと鍵を掛けて置いておきたい。それは愛すれば愛するほど、そうせずにはいられなかった。
維月は、里へ帰ってしまった。十六夜は我に決めろと言った。しかし、我がここへ戻って来てくれと言った所で、維月が帰って来てくれるのだろうか。我はこうやって、神の世界で王として生きて来た。今更どうすればいいのか、見当もつかぬ。
維心は、ため息をついた。
失いたくないあまりにしたことが、反対に失うことになってしまったのかもしれない…。
あの時、十六夜の声を聞いた瞬間に苦しくなった胸が、まだ締め付けれるように痛む。
このまま維月に、もう会えないのかもしれないと思うと、胸ばかりか手足の先まで痺れるようで、とても眠れなかった。
維月に会いたくて気が狂いそうだった。
「維月…。」
維心は我知らず、名を呼んでいた。
次の日の朝、居間で座っていると、幼い声がした。
「父上ー」
三歳の将維が、居間の横の布の間から顔を覗かせている。その後ろには、乳母が付き添っていた。
「…将維。どうしたのだ?」
将維は子犬のように維心に走り寄って来た。
「父上のおげんきがないので、われは、なぐさめにきたの。」
維心は乳母を見た。維心の侍女と、こちらを気遣わしげに見ている。そうか、侍女達が気を回したのか。
将維は何も知らず、キラキラとした目で維心を見上げている。その目を見ていると、維心は心が痛んだ。もしかしたら、自分はこの子から母親を無くしてしまったのかもしれない。もう、維月がここへ帰って来ないなら、自分のようにこの子も母を知らずに育つのかもしれない…。
維心は、将維の頭を撫でていた手を止めた。
「…さあ将維。父はもう元気になった。仕事があるゆえ、主は乳母と戻るが良い。」
翔維はちょっと残念そうな顔をしたが、父は絶対と教えられているのだ。笑顔で頷くと、乳母の方へ戻って行った。乳母は笑顔で将維を迎えると、頭を下げて出て行った。
洪が、居間へと急いでいた。
維心の侍女から、王が昨夜もお休みになっていない上、居間に座って考え込まれたまま、茶にすら口を付けないと聞いたからだ。
昨日、会合からお戻りになった時の騒ぎを思い出し、洪はため息をついた。王は滅多のことでは闘気をお出しになることはないのに、あの日は南の結界の辺りに、この宮まで届く王の気が湧き上った。
慌てた軍神達が何事かと出陣して行くのを見送った後、戻って来たのは、激怒した維心と、離れた後ろで縮こまっている軍神達と、維心に連れられた維月だった。
洪にとって、維月は月であるし、それに王がご執心で次々とお子を生み参らせ、他の神の女のように気難しいこともなく快活で、何の不満もなかった。
ただ一つの不満は、時に月の宮へ、月の妃として戻ることぐらいで、それも、王が良いのなら洪からごちゃごちゃ言うこともなかった。
維月は元は人であり、人の生活に慣れ親しんだ女で、宮の決まり事も最初は全くわからないようだったが、最近ではよくわきまえて前へ出ず、それでも神の女のように細かい事にうるさいこともなく、洪達臣下にとって、ありがたい限りであった。維心は初めての妃であるからか、大変に執着して、朝も昼も傍を離さずに居るのも、よく耐えてくれていると思ってはいたのだ。
それが、こんなことになってしまった。
確かに昨日のあの王のお怒りでは、いったいどんな目に合われたのか想像もつかない。
常々、王は奥に維月様を篭めて、外へ出す事を極端に嫌われ、維月様が宮の外とはいえ、まだ王の結界の中を散策されるだけで、怒って連れ戻されていた。きっと、人であった維月にとって、外も満足に歩き回れないなど、とても窮屈なことであったろう。王のご心配もわかるが、洪は実は心配していた。あのように執心が過ぎると、今に逃げ出してしまわれるのではないかと。
しかし、それを王に言えることはなかった。何しろ、そんなことを言おうものなら、首が飛ぶのではないかと言うほどに、王の執心は強かったのだから…。
洪は、居間の入り口で頭を下げた。
「王。」
維心は奥に腰かけたまま、目だけこちらを見た。
「洪か。何用ぞ。」
面倒そうなのはいつもと変わりないが、声に力がなかった。心なしか王の気が弱まっているような気がする。
「…王、我は他の者とも話したのですが、維月様をお迎えに、月の宮へお伺いしようかと思うておりまする。王に許可を頂きに参りました。」
維心は、しばらく黙った。そして、首を振った。
「…主らが行くことではない。」
洪は頭を上げた。
「しかし、お戻りいただかねば、我らも宮の行事など、妃のお仕事も溜まって参りまする。」
維心はまた黙って、頷いた。
「では、我が聞くゆえに。我にその仕事、申せば良い。」
洪は、維心の不器用さが気の毒になった。おそらくどうすればよいのかわからず、ここで座って考えを巡らせているのであろう。それでも、維心にそのような話しをしていた炎嘉ももうこの世にはなく、誰に訊くことも出来ず、思考は堂々巡りしているのだ。
「…王、少し、お話をしてもよろしいでしょうか?」
洪は言った。維心は驚いたように顔を上げた。
「長くは許さぬが、では、そこへ座ると良い。」
洪は維心から許しを得て離れた椅子へ腰かけた。洪は、話し出した。
「王よ、我にも妻が二人おりまする。ご存知であられるかと思いまするが。」
維心は頷いた。
「主のことは生まれた時から知っておるわ。その頃も、我は王であったからの。」
そう、維心は1700歳、自分は700歳。であるのに、王は昔から、変わらず今の姿で、いつの間にか人型はその見た目の年齢を追い越してしまった。きっと自分の寿命が尽きる時も、王はこのままの姿で居るのだろう。なのに王は、その長い時を、たった一人で過ごして来られた。何事も知っている王ではあるが、こと女に関しては何も知ってはおられない。それは、洪にもわかっていた。
「我らはこの年になるまで…我らは老いておりまするので…順調にことが運んだ訳ではございませなんだ。今では笑い話になり申したが、我が二人目の妃を迎えた時は、それは大変でございまして。」
維心は思い出したのか、微かに目が笑った。
「あの時は、宮がえらいことになった。主の正妻が、我に談判に参っての。我が妃を迎えぬから、洪が二人目を迎えることになってしもうたとかなんとか。」
洪は思い出してため息をついた。
「もうあの時我は恥ずかしゅうて…まだ、300歳半ばぐらいでありました。」思い出しても身震いがする。「王の妃にと候補に連れて参った姫が、まあ小さな宮の姫であって…龍の宮へ行くことが、云わばあの女の使命になっておったのでございまするな。なのに維心様が見向きもなさらぬので、それでも帰ることが叶わぬと泣くものであるから、では我が妻にと…。」
維心はクックッと笑った。
「主は情に深いからの。」
洪は大真面目に頷いた。
「はい。しかし女とは怖いものでございまする。まさか常日頃王の恐ろしさを知っておるはずのか弱いばかりだった女が、王に談判に参るなど、考えもつきませなんだ。しかしあれより、我は妻に頭が上がらなくなり申しましてございます。」
維心は、そこは頷いた。
「そうよの。女とは力では絶対的に我らに敵わぬが、突然に何をするかわからぬ怖さはあるよの。」
洪は続けた。
「王、実はあの折り、正妻は一度里へ戻りましてございます。」
維心は意外だと言う顔をした。
「しかし、主は…」
「はい。」洪は頷いた。「今も仲睦まじく致しておりますが、あの折りこそもう駄目だと覚悟致しました。何しろ何度使いを出しても無しのつぶて、訪ねて参っても追い返される始末で…しかし、我が悪いのは分かっており申したので、根気よく毎日、宮での仕事が終われば里へ行き、明け方までがんばり、また次の日宮へ仕事に参る…という毎日を過ごしておりました。」
維心は、まさか洪がそこまでしているとは知らなかった。
「あの折り、確かにあまり顔色が良うなかったな。」
洪は頷いた。
「しかし、失う訳にはいきませんでしたので。妻は我の妻であり子の母であった。どうしても取り返す必要があり申した。そして何より、妻のことを愛しておったからでございまする。先にあれが居らぬことを考えると、我は寝てなどおれませんでした。それならまだ、あれの居る里の屋敷の前で座っていた方が、良いと思って通ったのです。」洪は遠い目をした。「そのうちに妻は折れ、我に会ってくれたのです。我はそこで、思いの全てを話し申した。それでわかってもらえぬなら、諦めも付くだろうと、必死で話しました。妻は黙って耳を傾けておりましたが、最後には、我の腕に戻って参りました。」
維心は考え込んだ。まさか洪がそのようなことをしておったなんて。我は、確かに臣下が生まれ時から知っておるが、一人一人がどんな生活をしているかなど、知ろうともしておらなんだ。ただ宮が滞りなく続いて行くよう、政務にばかり気を取られて…。
維心は立ち上がって、窓辺へ歩み寄った。
「…洪よ。主の話は我のためになったと思う。少し考えたい。」
洪も立ち上がって、頭を下げた。
「それでは、失礼いたしまする。」
洪は少しでも良い方へ行くように願って、その場を下がった。