家出
今日は天気がよかった。
維心はあまり維月を外へ出してくれないので、維月はいつもこっそりと、維心の留守に近くの結界の中を飛んで空中散歩していた。
なぜ結界の中かというと、結界に触れると維心に即座に気付かれて、一瞬のうちに連れ戻されるからだ。月の力があれば結界を破るのは簡単だが、それゆえに維月は結界の中におとなしくしていた。
今日は、南の方へ行こうと決めていて、維心が会合に出るのを知っていた維月は、そわそわと落ち着かなかった。
ふと、正装を整えている維心が振り返った。
「…維月。主、朝から何をそわそわしておる。」
維月はドキッとした。本当に良く見ていらっしゃる…。
「…なんでもございません。」
維月はしゅんとした。見つかったら、維心から命を受けた居残りの臣下が、命を懸けて維月を止めるので、その監視を掻い潜って出掛けるのは困難だからだ。
維心は鋭くこちらを見ていたが、ふいとあちらを向いた。
「会合でなければ連れて参るものを」維心はぶつぶつと言った。「良いな。おとなしく我の帰りを待っておるのだぞ。」
維月はこくんと頷いた。
「はい。」
維心はため息をついて、居間の出口へ向かいながら言った。
「出立する!」
皆が一斉に頭を下げて見送る。維月はいつも出口まで見送りに行くよう言われているので、維心に付いて慌てて歩いた。
歩き出た回廊では、全ての者が頭を下げて維心を送っていた。出口では、準備を整えた義心達軍神が膝をついて待っていた。維心は維月を振り返った。
「行って参る。すぐに帰るゆえ。」
維月は微笑んだ。
「お気を付けていっていらっしゃいませ。」
維心は頷くと、飛び上がった。軍神達がそれに続く。
そして見る間に、それは空の彼方へと消えて行った。
維月は、庭へぶらぶらと出る振りをして、奥の方から岩場の間を抜け、宮の外へ出た。
この道で出ると、宮の結界の外へなんなく出ることが出来る。維心の結界は二重構造で、宮の結界、山の結界とカプセルを二つ被せたかのようになっているのだ。維月は考えていた通り、南へ向かって飛んで行った。
南には、海がある。維月は久しぶりに間近で見る海に、胸が躍った。人であった幼い頃、よく父と母に連れて来てもらった…そして自分も人の世で子供を育てた時、5人を連れて海を眺めた…。
ここは、維心の結界のぎりぎりだ。これ以上行けば、維心に気付かれてしまう。維月はため息をついて、そこの岩場に腰を掛けた。
遠く船が行き来する。自分がこんな身になっても、人の世は変わらず動いているのが、なんだか不思議だった。
維月は、完全に油断していた。
こんな寂しい、しかも切り立った岩場に、人が来れるとは思っていなかったのだ。しかし、維月が気付くと、そこには人が立っていた。維心様の結界があるのに?でも…維心様は、悪い「人」以外は、山の結界では跳ね返したりしないのだったっけ…。
不意打ちだったので、維月は絶句して、そのままそこに腰かけていた。相手は、信じられない面持でこちらを見ていたが、口を開いた。
「…こんな所に、どうやって登ったのですか?その着物で…。」
維月は人に会うことを想定していなかったので、いつもの着物に上の打掛を羽織った状態で居たのだ。普通なら、いやもし登山用の服を着ていたって、ここまで女が一人登ってなんて来られない。維月は言い訳も思いつかず、ただ黙っていた。
その「人」は言った。
「あの…私は、人の形をしておりますが、半分は神であります。母は虎、父が人で。」
維月はやっと合点がいった。そうか、半神だったんだ。
「…私は、陰の月です。元は、人でありました。」
相手はホッとしたような顔をした。
「ああ、やっぱり。人がこんな所にと思って、とても驚きました。」
維月は笑った。
「確かに、身は人でありまするゆえに。」
相手は、近くに腰かけた。良く見ると、蒼に似ている気がする。人の男と話すのは、本当に久しぶりの事だった。
「私は翔馬と申します。あなたは?」
維月は答えた。
「私は維月と申します。」
翔馬は頭を下げた。
「私は、人として育ちました。ですが、そろそろごまかし切れなくなって参りましてね」と相手は海の方を見て悲しげに言った。「見ての通り、見た目はまだ30代ほどですが、もう80を過ぎています。これまでは顔を見せずに電話やハガキで友とやり取りしてそれでなんとかなっていたのですが、それも限界です。だから、ここから落ちたことにして、人の世の自分を殺そうと決意したんですよ。」
だから、こんな所へ来たのか。維月は頷いた。
「私ももう人の世では死んだことになっておりますわ。息子も皆私のことを知っているので、遠い親戚や友達の間と、戸籍上ですけれど。」
相手はこちらを向いた。
「あなたはお一人ではないのですね。知ってくれている子供さんが居れば、安心でしょう。私には、勿論のこと父は死に、母は小さい頃に自分の里へ帰ってしまっていたので…。」
維月は同情した。
「それは大変ですわね。でもこれからお一人で…どうなさるのですか?」
翔馬は肩をすくめた。
「どこかの山奥ででも暮らそうかと思っています。でも、ここら辺でもいいけど。」
維月は首を傾げた。
「ここは龍の王の管轄です。あのかたは寛大だから、変な気を持っていなければ、こうしてご自分の結界の中にも入れてくださるけど…住むとなると、許可が要りますわ。人ではないのですから。」
翔馬は驚いた顔をした。
「…では、神に知り合いが居ないと、お手上げですね。私は神の世界のことは、何も知らないので。」
維月は気の毒になった。
「…確かに大変ですわね…。」
翔馬は維月を見た。
「あなたは、どこにいらっしゃるのですか?息子さんの所ですか?」
維月はびっくりした。あまりに必死に聞いて来るからだ。気持ちは分かるが。
「私は…息子も人ではないので、息子の所と、龍神様の所を行き来して住んでおりますが…。」
翔馬は維月の手を握った。
「どうか!どちらかにご紹介いただけませんか?!私はこのままでは人の世界も神の世界も失ってしまいます!」
両手を掴まれて必死に懇願され、どうしようかと困った。自分はそんな権限はない。蒼も人から人外になったばかりで詳しいことはわからないだろうし…でも維心様に頼むにも、ここに私が来ているのも怒るだろうに、他の男と知り合いになって話したなんて知れたらどれほど怒るか。
「あの…では、息子に相談してみますわ。私…」
激しい突風が吹き降りて来た。これは普通の風ではない。気が巻き起こしている風だ。維月は驚いて立ち上がった。これはきっと!
「…我が結界内で何をしている」維心だった。「我が妃に触れるな!!」
翔馬はその気の圧力に吹き飛ばされて、後ろの岸壁に叩きつけられた。維月は維心にガッツリと抱えられ、宙へ浮いた。維心の体からは、闘気が湧き上って、回りの木々は圧力で大きくしなっている。
「維心様!」維月は叫んだ。「おやめくださいませ!」
やっと追い付いて来たらしい義心達軍神が、維心の後ろに浮かんだ。皆ぜいぜいと肩で息をしている。
怒りで、維心の青い目が光を帯びていた。維月はまた叫んだ。
「おやめください!あの「人」は半神で、人の世から神の世へ移り方が分からぬと、神への取り次ぎをしてほしいと、偶然会った私に言っておっただけなのです!」
遠く宮からも、王の闘気を感じ取って軍神達が駆けつけて来るのが見える。
「王!」義心が進み出た。「確かに虎の気が致しまする!」
維心はいくらか気を沈めた。そして維月を端へ立たせると、翔馬に近付いた。
「…我の結界も気付かず、主はここへ参ったのか。」
翔馬はふらふらと膝を付いて起き上がった。
「私は人に育てられました。全く神の世界は知りません。これからどうやって生きて行けばいいのか分からず、人の世の自分を殺すためにここへ来てみたら、そちらのかたに会って…ご相談をしておったのです。」
維心は憮然として言った。
「あれは我が妃だ。我に許可なく話し掛けることは許さぬ。まして触れることなど以ての外ぞ!」
「そんな!」維月は離れた後ろから言った。「知らなかったのですわ!私も話しておりませんから!」
「主は黙っておれ!」維心は叫んだ。維月は黙った。かなり怒っている。「だが、我が妃が勝手に一人、ふらふらとこのような所に出て居ったのもまた事実だ。今回はこれ以上咎めぬ。以後、重々気を付けよ。義心!」
義心が前に進み出て膝を付いた。
「御前に、王。」
「こやつの身の振り方を決めてやるがよい。」
義心は頭を下げた。
「御意。」
維心はそちらにくるりと背を向けると、維月の方へやって来た。眉は寄り、かなり機嫌が悪いのは一目でわかった。維月は怖くて、維心に背を向けて、海の方へ飛ぼうとした。
維心はそれを後ろからガッツリ捕まえると、宮の方へ向かった。
「離してくださいませ!自分で帰りまする!」
維月は暴れたが、維心は無言で離さない。仕方なく諦めて、維心に運ばれるまま、維月は宮へと帰って行った…。
宮では、王の帰還に臣下が走り寄って来た。
「王!王の闘気が湧き上っておると、軍が南へ…」と腕に掴まれている維月を見て、「はて維月様?何をなさっておいでなのですか。」
「こやつが南へ出ておったのよ!」維心は言った。臣下はその形相に縮み上がった。「部屋へ帰る!」
その後には、誰も付いて来なかった。
居間へと入ると、侍女達が着替えをと出迎えたが、維心は一喝した。
「よい!下がれ!」
なんだかわからないが、王がものすごく怒っている。
侍女達は飛び上がるように下がって行った。一方維月は、ずっと掴まれ続けて来た腕が、とても痛かった。
「い、痛いです、維心様…」
遠慮がちに言うと、維心は維月を睨み、奥の部屋の寝台へ維月を放り投げた。
「きゃ!」
維月は小さく悲鳴を上げた。維心は刀を外して脇へ放り投げ、上の袿を床へ落とした。そして維月に向き直ると、自分も寝台乗り、唸るように言った。
「宮でおとなしくしておるように言うたな」目がうっすらと光っている。怒りの気でそうなっているのだ。「なぜに我の言う事が聞けぬ!」
維月は寝台の奥へジリジリと下がった。こんなに怒るのを見るのは初めてだ。
「い、維心様…」
維月は怖くて声が出なかった。怯えて離れる維月を見て、維心は腕を掴んで自分の方へ引っ張った。
「…あのような男とあのような所で」維心は思い出して、さらに怒りの気が膨れ上がって来る。「手など握られよってからに!」
維心は維月を組み敷いた。維月はただ怖くて震えた。
「主は我が妃ぞ!軽々しく他の男の目に触れる事さえ腹が立つものを、何度言えばわかるのだ維月!」
維月は涙ぐんだ。だって維心様は外へ出るなとそればかりで、ご自分はお忙しくて少しもどこにも連れて出てくださらないのに…。
維心は、その表情を見て、目を反らした。
「…そのような顔をしてもダメだ。もしもあの男が変な気でも起こしておったらどうするつもりであったのだ!我は、いつなり助けに行ける訳ではないのだぞ!」
維月は小さな声で反論した。
「私は月です。そんなことぐらい自分で逃げられます。十六夜も呼べばすぐに来ます。」
維心はキッと維月を睨んだ。
「…主は今、我が妃であるのだぞ!なぜに十六夜に頼っておるのだ!」
維月は悲しくなった。確かにそうだけど。でも十六夜はこんなに閉じ込めたりしないもの。私は人だったのに。もっと外も見たい…。
「維心様…酷いです…。」
維月はポロポロと泣いた。ここにも慣れようと頑張ったし、なるべく維心様の言い付けも守るようにしているのに。維心様は、外に出たらすごく怒るのだもの…。
維心は目を反らしたまま、身を起こした。維月が泣くと、滅多に泣かないだけに、どうして良いのかわからない。
「…主が心配であるのだ。神の世界は略奪もする。人の女は子が生めぬので良いが、主はもう月、いつさらわれてもおかしくはない。我の守りの中に居れば安心であるのだ。」
維月は起き上がって、背中を向けた。どうせ自分の部屋に帰ると言っても、維心は帰してくれない。それならここで、こうしていた方がいいからだ。
「維月?」
維心は呼び掛けた。維月は答えなかった。維心は立ち上がった。
「では、そうしていれば良いわ!」
維心は居間の方へ出て行った。部屋の中から維心の気配が消えると、維月は窓辺に歩み寄って、月を見上げた。維心様の事は愛してる。でも、時々息が詰まって苦しくなる…。
「どうしたらいいの…?」
十六夜が、答えた。
《あいつは墓穴掘ってんだよ》維月がびっくりしていると、続けた。《お前が大切で仕方ねぇんだ。オレも結婚前に、お前がさらわれそうになって神を封じた事があったろう。あの時は気が気でなくて、留守にするのが怖くて仕方なかった。維心の気持ちはわかるがな。》
維月はまた涙ぐんだ。
「でも、私じっとしてるのつらいわ。」
十六夜はわかってるというような声で言った。
《お前は人だった頃から外出が好きだったからな。しばらく帰ってくるか?オレは別に構わんがな。》
維月は悩んだ。維心様…。
「十六夜…」
維月は手を差し出した。
《…知らねぇぞ、もっと怒るかもしれねぇのに。》
困ったような声がしたが、月から光が降り、維月はそこから消えた。
居間で、維心はハッと頭を上げた。月の光が明るくなった。
維心は走って寝室へ駆け込んだ。「維月!」
そこに、維月の姿はなかった。気を探りながら窓の方を見ると、月が出ている。維心が窓際に駆け寄って月を見上げると、十六夜の声がした。
《…維心》維心は心臓を掴まれたような気がした。《維月は連れて帰る。お前の気持ちはわかるが、オレはアイツが泣いてるとほっとけないんだよ。どうするかはお前が決めろ。オレは別にこれからは一人で維月を守って行ってもかまわねぇ。お前がもう無理だと言うなら、それも仕方ないさ。じゃあな。》
十六夜の気配が、月から消えた。おそらく里へ降りたのだろう。
維心は取り残されて、一人で月を見上げていた。