7.事前調査
霧旗は『館長』の部屋の前で立ち止まると、ドアを開けて中に入った。
「館長、おはよう。あのねフィッシング詐欺の資料が欲しいんだけど?」
「あいかわらず大きな声を出しおって。そんなに大声で怒鳴らなくても聞こえるわい」
「ごめん、ごめん」
「フィッシング詐欺のファイルはG‐2の棚にあるぞ」
霧旗は書架を目指して歩きだした。絵理子は館長に会釈をすると後ろをついていった。
霧旗が棚からファイルを三冊取り出して、絵理子に渡した。
「館長、この三冊だけ?」
「そうじゃ。フィッシング詐欺はその三冊だけじゃよ」
「ありがとう」
ファイルを大きなテーブルの上におくと、霧旗は要約されたポイントを読み始めた。
「フィッシング詐欺は2003年ごろアメリカで初めて報告された。ずいぶん昔からあるんだ。現在もアメリカでは1ヶ月に2万件ほど報告されている。日本では件数は少ないが毎月報告がある。ただし、脆弱なWEBサイトがフィッシング詐欺に利用されていたり、踏み台にされていたりするケースは年間2000件ほど報告されている。このフィッシング詐欺はサイバー犯罪者の資金源となっている可能性が高い。詐欺の手口は偽メールによってフィッシング画面へ誘導する仕組みになっている。偽メールにはURLのリンクが貼ってあり、偽の画面に誘導する。偽メールは『緊急のお知らせです。あなたのカードで不正な操作が行われた疑いがあります』とか『あなたは規則違反となっています。すぐにカード番号を確認してください』などのメッセージが記載されている。メール中のURLをクリックすると偽の画面が展開されカード番号およびパスワードを入力する仕組みになっている。入力をすると別のサーバーにそのカード番号とパスワードがコピーされ盗まれる。入力した被害者に対しては無事に完了したとのメッセージが表示され、盗まれたことに気が付かないケースが多い。具合的な対策としては『不審なメールは開かない』、『個人情報を入力するときは正規のURLかどうかを確認する』必要がある」
要約を読み上げると、霧旗は顔をあげて、
「とまあ、こんな仕掛けの詐欺だね。被害者は本当のカード会社のURLと思い込んでいるからカード番号とパスワードを入力する。まさか盗まれたとは思ってもいない。ところが後から自分には見に覚えのない高額の請求書が届く」
「ひどいわね。許せないわ」
「でもさっきも言った通り、被害者には請求されることは少ないから、どちらかと言えばカード会社が被害を受けてるんだ」
霧旗は、次のファイルをとり具体的な事件の経緯を読み始めた。絵理子も残っているファイルに目を通した。どの事件も要約にあったとおり偽メールをあけて個人情報を盗まれていた。一通り読み終わると霧旗は借りたファイルをもとの棚へもどし、それから館長に向かって、
「フィッシング詐欺はどんな犯罪になるの?」
と尋ねた。館長は、
「まあ通常の詐欺罪だろうね」
横から絵理子が館長に質問をした。
「個人情報保護法には当たらないんですか?」
「個人情報保護法は企業に対して顧客などの個人の情報の取り扱いを定めたものだ。この場合カード会社が個人情報を漏洩したわけではないので当たらないな」
「なるほど。どうもありがとうございます」
と二人は礼を言って館長の部屋から出た。
廊下に出ると、霧旗はまた自分の部屋にはもどらず、別のほうに向かって歩いた。
「ファイルを読んだ限りではどのケースも偽メールを送りつけて、フィッシング画面に誘導するのが手口だが、今回の場合不審なメールをあけた記憶がないということだったね」
「そうね、いくらなんでもメールを開けたことを覚えていないことはないわよね。で、次はどこへ行くの?」
「ほんとにフィッシング詐欺メールが飛び交っていないかどうかの確認さ」
霧旗は次に『のぞき屋』の部屋に立ち寄った。
「のぞき屋くん、いる?」
「し、し、峻くん、どうしたの?」
「ちょっと調べて欲しいんだけど、最近『帝都クレジット』をターゲットにしたフィッシング詐欺メールが飛んでる?」
「ち、ち、ちょっと待って。調べてみる」
のぞき屋はPCを覗き込み、カチャカチャとキーボードをブラインドタッチでたたき始めた。絵理子は横からPCを覗き込んだ。のぞき屋は太っているせいか指も太くて短く、一個一個のキーから指がはみ出していた。よく間違えずにキーをたたけるものだと感心してしまった。
その間霧旗は棚に並んだフィギュアを眺めていた。それから勇ましい女の子戦士の格好をしたフィギュアを手に取り、スカートをめくって覗き込んだ。
「峻くん、駄目だよ、そのフィギュアは。レ、レ、レアものなんだから」
「ごめん、ごめん」
霧旗は舌を出して、手に持っていたフィギュアをもとの棚にもどした。
「お、お、大手のクレジットのフィッシングメールはいくつかあるけど『帝都クレジット』をターゲットにしたものは見当たらないね」
「ありがとう。もし見つかったら連絡くれる?」
「オ、オ、オッケー」
のぞき屋の部屋を出ると、霧旗は腕時計を見た。12時を少しまわっていた。
「では食事に行こうか?このビルの上においしい中華料理店がある。どう?」
「あんまりお腹は空いていないけど」
「だめだよ、食事はきちんとしないと。ぼくらの仕事は徹夜になることもあるんだし」
「はいはい」
絵理子はしかたがないという表情で返事をした。
二人はエレベータで38階にあるレストラン街に向かった。このフロアからも東京が一望できた。どの店も比較的混んでいたが、霧旗が目指す中華料理店はすぐに入ることができた。
「この店は味はおいしいんだけど、このフロアの真ん中にあるので、景色が見えないんだ。だからあんまり混んでないんだよ」
霧旗は麻婆豆腐のランチを絵理子は海鮮のランチのコースをそれぞれ注文した。絵理子は点心からはじまり春巻き、海鮮あんかけそば、杏仁豆腐と食べきれないくらいの料理が出てきた。
「おいしいわ。でも食べきれない。お昼にこんなにゆっくりと豪華なもの食べたのは久しぶりだわ」
霧旗は箸を置くときょとんとして、
「いつもは何を食べていたの?」
「ほとんどがコンビニのお弁当かな。自分の席で仕事をしながら食べるのがふつうだったわ」
「それじゃ胃に悪い」
「でも仕事に追われていてそれが当たり前だった。昼食が2時、3時になることもよくあった。しかたがないと思ってた」
「不規則な食事は健康に良くないよ。そこまで仕事に振り回されなくてもいいのに…」
「そうよね。今考えるとちょっと無理してたかも。峻くん、これからいろいろと教えてね」
「特に教えることはないよ。自分に素直になればいい仕事ができると思うよ」
「自分に素直になれば…」
霧旗が飲茶を啜った。絵理子も飲茶に口をつけた。
「今日はゆっくり食事ができたわ。どうもありがとう」
「ぼくはいつもゆっくり食事をしてる」
絵理子が時計を見て
「2時にうかがう約束よね。そろそろ時間じゃないかしら」
霧旗も腕時計を見た。1時少し前だった。
「まだ大丈夫だよ。そんなに時間に縛られないほうがいいよ」
「でも『帝都クレジット』は大手町だから、山手線で渋谷に出て半蔵門線で行くのが近いかな。それならそろそろ出ないと」
「電車で行くの?車で行こうよ」
「くるま?」
「そう、ぼくの車。十分間に合うよ。じゃあ10分後に一階のエントランスで。ノートPCを持ってきてね」
二人はエレベータでオフィスがある30階に向かった。
絵理子は自分の部屋にもどりアタッシュケースにノートPCを詰め込むと、高速のエレベータで一階に降り、そしてエントランスに向かった。
霧旗はエントランスで待っている絵理子を見つけて車を回した。真っ赤な二人乗りの外車だった。霧旗は車から降りて右側の助手席のドアを開け、絵理子を乗せた。車高が低く地面が近かった。
「男性に車の扉を開けてもらってエスコートされるなんて初めてよ」
霧旗はすました顔をして、運転席に乗り込んできて、サングラスをかけた。
「どういたしまして」
霧旗はイグニッションキーを回した。軽快なエンジン音が聞こえた。
「これってポルシェっていう外車でしょ?」
「そうだよ。ポルシェカレラ911ターボ」
「初めて乗ったわ。でも地面スレスレを走ってる感じね」
「最高時速300キロ。スタートして3秒で時速100キロまで加速する」
「でもそんなスピードどこで出すの?」
「日本じゃ時速300キロなんて走れるところはないね」
エントランスから大通りに出るところで一旦停止をすると、歩いている人がこの車を見て振り向いた。やっぱり真っ赤なポルシェは目立つらしい。絵理子は自分が注目されているようで気恥ずかしかった。
霧旗はそんなことはおかまいなしに、
「この車ってすごくデリケートなんだ。乱暴に扱うとすぐに機嫌が悪くなる。いつもチューニングしなくちゃならない。結構面倒くさいんだ。ジャジャ馬を扱っているみたい。でもそこが気に入ってるのかも」
「峻くん、目立ちたがり屋でしょ?」
「うん、かなり」
車は、六本木通りから内堀通りを抜け日比谷通りから大手町に向かった。




