6.初仕事
出社1日目、絵理子は何だか今日は気分を変えたかったので、パンツスーツをやめて、久しぶりにスカートをはいた。上下そろいの鶯色のスーツに白いブラウスを着た。そしてふだんはつけないイヤリングを、なるべく小さいものを選び耳につけた。
横浜のマンションを出ると東急東横線に乗った。銀行は8時30分出社だったので、満員電車に押し込まれての通勤だったが、今日は10時出社なので乗車した時間がいつもより遅く、車両もさほど混んではいなかった。中目黒で地下鉄に乗り換え、9:30に恵比寿に到着した。霧旗は出社時間は決まっていないから何時に来てもいいと言われたが、こんな時間に出勤するなんて今までは考えられなかった。とりあえず那智と約束した10時には間に合った。
エレベータで30階に上がると、昨日受け取ったセキュリティカードで扉を開け、自分に与えられた個室に入った。
正面の大きな窓からは五月の澄み切った青空と新宿御苑の新緑が飛び込んできた。こんなところで働けるなんて…。これが自分の部屋だとは信じられなかった。上着を脱ぐと右側のクローゼットに入り、ハンガーに上着をかけた。広いクローゼットに上着が一つポツンとあるのも妙だった。明日にでも何着か持ってこようかな。
それから絵理子はデスクのところへ行きにあるパソコンを起動させた。引き出しには昨日霧旗が言ったマニュアルが入っていた。それを見ながらメールの初期設定を行った。メールを開けてみると、すでに一通のメールが入っていた。メールは那智からで、簡単な就業規則と給与口座や健康保険などの福利厚生の手続き方法が記載されているものだった。非常に丁寧に記載されていて、手順通りに手続きをすることができた。
絵理子は作業が終わると、立ち上がり背伸びをした。
さて、何をしたらいいんだろう。霧旗は自分の好きなことをすればいいといってくれたが、まだ何も思いつかなかった。しかたがない那智に相談に行こう。
絵理子はもう一度デスクもどり那智に電話しようと受話器をあげたところで、昨日の霧旗のメモを見つけた。その内容が気になって、そのまま受話器をもどすとそのメモを開いた。そこには、
-今日のスカート姿は女らしくてとっても素敵だよ-
と書かれていた。最近男性からほめられることがなかったなと思いながら、ちょっと気恥ずかしさを感じた。しかし、はっと気が付き、これは昨日書いたものだったことを思い出した。昨日はパンツスーツだった。なぜ今日スカートをはいてくることがわかったんだろう。絵理子は昨日のマジックを演技してくれた霧旗の姿が浮かんだ。これもマジックかな。
そのとき、那智から電話が入った。
「おはよう、早速仕事だ。ちょっと名刺を持って応接室に来てくれ」
「わかりました。すぐにうかがいます」
絵理子は名刺と手帳とペンを持ち、昨日那智に面接をしてもらった応接室に向かった。
「失礼します」
と絵理子は応接室に入った。そこには那智のほかには霧旗と、知らない男性が二人いた。
那智はその二人に向かって、
「紹介します。この件を担当させていただきます成瀬絵理子さんです」
二人の男性は立ち上がって名刺を差し出した。最初に差し出したのは年配のいかにも貫禄のある男性だった。そこには『帝都クレジット株式会社 専務 岩崎義雄』と書かれていた。『帝都クレジット』はクレジットカード業界の中堅であり、絵理子がいた帝都銀行の関連会社でもあった。絵理子は昨年帝都銀行と統合するとすぐにこのカードを作らされた。それから隣にいた金縁のめがねをかけた神経質そうな男性の名刺には、同じ会社の『IT担当部長 早川幸彦』となっていた。絵理子はすばやく二人の役職と名前を記憶した。
そして自分の名刺を取り出し、二人に丁寧に手渡した。
「成瀬です。よろしくお願いします」
絵理子はお辞儀をして、ソファに腰かけた。
「では、詳しく状況をお聞かせください」
那智にうながされて、早川という部長が資料を取り出し説明を始めた。
「実は私どものカード会員から購入していない商品が利用明細に載っているとの問い合わせが10数件入りました。その後調査をした結果、IDとパスワードが不正使用されていたことが判明しました」
「スキミングですか?」
と霧旗が尋ねた。
「スキミングって、カードリーダーでカードの磁気情報を読み込んでコピーする手口ね」
と絵理子が口をはさむと、
「そう、あやしい飲み屋でよくやってるやつ」
と、霧旗が茶化すように答えた。
早川はめがねをかけ直し、まじめな顔で、
「私どももスキミングかと思いましたが、ほとんどのお客様はICチップ型のカードでスキミングの可能性は低いと思われます。また、ここ数日で発生しているのも、東京だけでなく長崎、新潟と全国にまたがっています」
霧旗はさらに質問を重ねた。
「早川さん、被害者の方の共通点はありますか?」
「いまのところ見つかっていません」
「発生したのはいつごろからですか?」
「このゴールデンウィークからですね」
那智は霧旗のほうを向き、
「霧旗くん、どう思うかね」
霧旗は腕組みをしたまま、
「フィッシング詐欺の可能性が高いですね」
その答えに、早川も頷いた。
「私どもも、どうもそうらしいと考えています。ただし、被害者に確認しても怪しいメールを開けた記憶はないと言ってますし、その偽画面を確認したわけではないのですが」
「わかりました。お引き受けしましょう」
那智は帝都クレジットの二人に向かって、言った。
二人はホットした顔つきで、お互いの顔を見た。
岩崎専務が手を差し出しながら、
「助かります。弊社の被害が甚大になる前になんとか対処をお願いします」
「ではのちほど契約書をお送りします」
と那智は事務的に伝えた。
「私どもはどうしたらよろしいでしょうか?」
と、早川が尋ねた。それに対して霧旗は笑顔で、
「こちらで少し調査をしてそれから御社にうかがいたいと思います」
「わかりました」
霧旗は腕時計をちらりと見て、
「午後二時にはうかがえると思います。そのときに御社のホストDBのRootの権限を私と成瀬の二名分をご用意ください」
「承知しました」
帝都クレジットの二人は立ち上がり丁寧にお辞儀をすると、応接室を出て行った。絵理子が二人を受付のところまで見送って、また戻って来た。
絵理子がソファに腰掛けると、那智が絵理子のほうを向いて、
「成瀬さん、出社1日目から申し訳ないが霧旗くんといっしょにこの件を担当してください」
「はい、わかりました。実はどんな仕事をすればいいのか迷っていて、相談にうかがいたいと思っていたところでした。まず仕事のやり方をしっかり霧旗さんから学びたいと思います」
那智は、絵理子のまじめな顔ににこやかに軽く手を振り、
「仕事のやり方なんてありません。それに霧旗くんの真似をしたら大変なことになります。あなたはあなたの視点で事件を解決に導いてください」
絵理子は那智の言葉を掴みかねていた。すると、にやにやしながらやり取りを聞いていた霧旗が横から、
「あなたのようなまじめ人間がぼくの真似をしたら、すぐ捕まっちゃうよ。まあ、最初からそんなに気負わなくても大丈夫だよ」
那智もその通りだというように頷いた。霧旗は早川が置いていった書類を手にもち、
「向こうへ行く前に打ち合わせをしよう」
「はい」
絵理子は、霧旗の後ろについて廊下に出た。歩きながら霧旗は絵理子に話しかけた。
「フィッシング詐欺は知ってる?」
「名前だけは」
「フィッシング詐欺は通常、偽メールを送りつけて、偽の画面にアクセスさせて、クレジットカード番号とパスワードを入手する。そしてそれを悪用して商品などを購入する手口だ」
「実際のフィッシング詐欺の画面なんて見たことありません」
「ぼくはフィッシング詐欺の画面を作ったことがあるよ」
絵理子は驚いて立ち止まり、
「フィッシング詐欺をやったことがあるんですか?」
「事件解決のために犯人のクレジットカード番号が必要になって、ちょっとね…」
霧旗はさもあたりまえのように答えた。フィッシング詐欺の画面を使って事件を解決する。那智が言うとおり霧旗の真似なんかとてもできそうにないことを悟った。
「でもうちでフィッシング詐欺はあんまり扱ったことはないね」
「どうして?」
「フィッシング詐欺の場合、被害者に落ち度がなければクレジット会社は不正使用された金額を請求しないから、被害者が困ることがほとんどない。だからあまりうちには相談に来ない」
「なるほどね」
霧旗は自分の部屋を通り過ぎ、まっすぐ歩いていった。




