5.御礼
絵理子は横浜にある自分のマンションに帰ると、そのままソファに倒れこんだ。思ったより神経が疲れていたのだろう。さっき見た部屋が思い出され、自分の部屋がひどく狭く感じた。ぼんやりした頭のなかで今日一日のできごとを思い出していた。
今朝マンションを出るまでは、とりあえず転職先を早く決めて収入を確保しなければとあせっていたのに、想像もつかないオファーを受け戸惑っていた。あんなオフィスで仕事ができるのは夢のようだった。収入も破格だ。今までは、皆と同じ小さいデスクの上に書類が崩れそうなくらい山積みになっていて、その真ん中にあるPCとにらめっこして仕事をしていた。
毎日、絶えず業務に追われていた。残業は当たり前、必要とあれば休日出勤もしていた。帝都銀行という巨大な組織の歯車のひとつとして、組織の利益のためにあくせく働いていたんだ。
私にとって仕事って何だったんだろう。
まだ新しい会社の業務はよくわからない。自分が何をすればよいかもわからない。しかし、大学院の研究室と同じ匂いを感じて少し安心した。いままで自分が住んでいた銀行の世界とは違う。自分に何ができるかわからないが、とにかくできる限りやってみよう。もしできなければ次の就職先を探せばいい。そう考えると少し気分が落ち着いた。
そうだ、仁科部長に連絡をして御礼を言わなければ。時計を見ると午後4時だった。絵理子はソファから起き上がった。そしてバッグの中から携帯を取り出し、仁科部長の直通電話の番号を選んでボタンを押した。二回のコールで出たが、相手は仁科部長ではなかった。
「はい、仁科部長席です」
「成瀬と申しますが、仁科部長はいらっしゃいますか?」
「部長はただいま会議中で離席しております。なにかご伝言いたしましょうか?」
と女の子が返事をした。たぶん、絵理子の知らない子だろう。相手は絵理子だと気がつかない様子だった。
「そうですか、ではあらためてお電話をさしあげます」
そういうと絵理子は受話器を置いた。夜にでも直接携帯電話に連絡を入れよう。
そう考えた後、今度は就職の報告をするために絵理子の実家の電話番号にかけた。
「はい、成瀬でございます」
「おかあさん?絵理子です」
「絵理子、元気にしてる?」
「次の就職先決まったよ」
「それは良かったわ。あなたが銀行をやめたと聞いて心配してたのよ。で、どんなところ?」
母の弾んだ声が聞こえた。心から喜んでいる顔が目に浮かんだ。
「コンピュータの会社よ」
「そう、お給料は安いの?」
まずお給料のことを聞いてくるなんて母らしかった。5年前父が亡くなってから、母にはわずかばかりだったが仕送りをしていた。父の遺族年金と生命保険金があるから大丈夫とは言っていたが、仕事をしたことのない母には不安なのだろう。
「いままでよりたくさんもらえるかも」
「それはよかったわね」
「送金を少し増やすね」
「いいわよ。十分足りてるわ。いままであなたが送ってくれた分もなるべく使わないようにしてるし、生活には困っていないわ。あなたの結婚費用も貯めないといけないし」
「私は当分結婚しないから大丈夫よ。自由に使って」
「あなたももう30歳なんだから、そろそろ考えないと…私だって孫の顔が見たいのよ」
「ちゃんと考えておくわ」
「それから、しっかりご飯を食べてる?健康には気をつけてね」
「はいはい。おかあさんこそ、健康に気をつけてね」
「私は最近太極拳を始めたのよ。近所のお友達と毎朝公園でやってるの。おかげで最近少しやせたのよ。今度帰ってきたらいっしょにやりましょう。いつ帰ってくるの?」
「そうね、久しぶりに帰ろうかな。おかあさん今週の土日はいる?」
「いるわよ。じゃああなたの好きなアップルパイを焼いておくわね」
母の声はうれしそうだった。
「じゃあ土曜日にね」
長くなりそうだったので、絵理子は話を切り上げた。でも久しぶりに母の声を聞いたら元気が出てきた。
絵理子は立ち上がると着ていたスーツを脱ぎ捨て、Tシャツとジーンズに着替えた。そしてキッチンへいくと夕食の準備を始めた。料理を作るのは昔から好きだった。
幼いころから夕食の用意をするときは母の横で味噌汁を作ったり、野菜を刻んだりしていつも手伝いをしていた。しかし、銀行に勤務して一人暮らしを始めてからは残業で帰りも遅く、ほとんどがコンビニのお弁当を買って帰る毎日だった。
今日は自分の就職祝いにワインを開け、おいしものを作って食べたいと思った。冷蔵庫を開けると大したものはなかったが、それでもパスタをゆでてオリーブオイルで炒め、サラダとチーズを用意した。料理を作っているときはとても幸せだった。
思ったより美味しくできて、贅沢な気分だった。ワインをグラスに注ぎひとりで就職祝いの乾杯をした。
夕食を済ませ後片付けも済ませてリビングでくつろいでいる時に、携帯電話がなった。仁科部長からだ。
「夕方電話をいただいたようだったので電話をしてみました。何かありましたか?」
「わざわざすみません。実は部長にご紹介いただいたセキュリティ会社に就職が決まったのでお礼を言いたくてお電話しました。いろいろとありがとうございました」
「そうか、それはよかった。新天地でぜひがんばってください」
「部長、ひとつ質問してもいいですか?」
「何だね?」
「私が行く新しい会社の那智さんとはどういうご関係ですか?」
「以前、いっしょに仕事をしたことがあるんだよ」
「那智社長は東西銀行の出身なんですか?」
「いや違うよ。あまり細かいことは言えないのだが、私が旧東西銀行のシステム開発課長時代に、ある政府機関の手伝いを依頼され、そのときいっしょに働いたことがあるんだよ」
「そうなんですか、どんな方ですか?」
「そうだね、割りに口数は少ないんだが、とても頭がきれて、ITのスキルも高くて自分の信念をしっかり持った方だったよ」
「そうですか」
「いい仕事ができることを祈っているよ。ではこれから会議があるので、これで」
「会議?これからですか?」
時計をみると午後9時を回っていた。
「うん、ちょっと事件が起きてね。大きな声では言えないんだが、うちのホームページが改竄されたんだ。いちおう修復したけどこれからが大変だ。こんな時に君がいないことが悔やまれるよ」
「そうでしたか。大変ですね。仁科部長、がんばってください」
「ありがとう」
携帯を切ると、絵理子はため息をついた。帝都銀行のホームページが改竄されるなんて前代未聞だ。自分が残っていたら間違いなく徹夜だっただろう。
今はちょっと違う意識が芽生えていた。もうやめてしまった会社の出来事ということもあるが、今日の那智といい、霧旗といい、他のメンバーといい、全く違う人たちと出会って、自分の身にいろんなことが起きたからかもしれない。私にとって仕事とは何だろうという課題をまず解決しなくちゃ。他人のことより明日からの自分の行末のほうが気になっていた。
帝都銀行では4月30日のハッカーの侵入事件を受けて、午後9時に緊急の役員会議が召集されていた。
帝都銀行役員会議室は、本店ビルの九階にあった。楕円形の役員室のテーブルのそれぞれの席に役員たちが着いた。
帝都銀行の常勤役員は十二名で、八名が旧帝都銀行の出身、残る四名が旧東西銀行の出身だった。関西統括本部と東北統括本部の二名役員を除いた十名の役員が出席した。
新しく統合した帝都銀行の頭取に就任した山之内は旧帝都出身ではあるが、リベラルな考えの持ち主で新生帝都銀行の発展のためには、旧東西銀行の出身者とも協力したいと考えていた。しかしながら、大部分の役員は旧帝都と旧東西の権益争いを行い、双方が対立をしていた。
山之内頭取が口火を切った。
「ご存知のことと思うが4月30日の深夜に何者かが当行のシステムに侵入し、ホームページを改竄されるという事件が発生した」
役員はざわついた。まだ聞いていない役員もいたのだろう。
「まず、事件の経緯をITの責任者の神崎常務から報告してもらおう」
神崎常務は一番端に座っていた仁科部長に報告書を役員に配布するように指示した。
資料が役員に行き渡ると神崎常務が説明を始めた。仁科は自分の席にもどりその説明を聞いていた。
「資料にありますとおり4月30日午前2時ごろ何者かが当社のWebサーバーに侵入し、インターネットのホームページが改竄されました。このハッカーは外部から侵入しており、当行のセキュリティシステムを突破しています。翌朝午前7時にホームページは復旧しました。現在、ハッカーの侵入経路および情報漏洩の有無を調査中です」
「まだ調査中なのか?4月30日からもうすでに6日も経っているじゃないか。セキュリティ体制が甘いんじゃないか」
声を荒げて発言をしたのは、頭取の隣に座っている営業部門の担当の高崎常務だった。年齢は50歳ぐらいだろうか、赤ら顔で目は鋭く、声が大きかった。根っからの営業の叩き上げである。
「顧客情報でも盗まれていたらどうするんだ」
「ホストの顧客情報については、侵入された形跡はありません」
「どうだか」
高崎常務は腕組みをしたまま、憮然とした。
「今回のハッカーの不正侵入の詳細は情報管理部長の仁科部長から報告させます」
神崎常務は仁科部長に詳しく説明するように指示した。仁科は立ち上がり、高崎常務に向かって、
「いまのところ侵入はその一回だけです。改竄されたのはWebサーバーのHTTPデータベースのみで、顧客情報のデータベースへの侵入はない模様です。それ以外のメインシステムへの侵入については現在調査中です。現在セキュリティレベルをHIGHにして対応中です。新たに顧客データベースへのアクセスにログイン画面を追加しています」
と仁科部長が答えた。
「甘いな。風評被害による営業のリスクも考えてもらいたい。もし顧客情報が盗まれていなくても、当行のメインシステムにハッカーが侵入したことが世間に知れ渡ったら営業業績がダウンすることも覚悟しなければならない。だから東西の連中には任せておけないんだ」
高崎常務は嫌味を言った
「まあまあ、調査結果が出たら早急にITから報告をもらうことにしよう」
山之内頭取がなだめるように言った。また、別の役員から、
「トップページの被害はどうなんですか?」
「4月30日の午前7時の時点ですべての機能が回復しています。ただし、ご存知の通りインターネットは24時間ですから午前2時から7時の間はトップページは使用不能でした。トップページが不能ということは、インターネットバンキングやその他のネット上の機能がすべてストップしていたことを意味します。7時までの時点で緊急電話には12件の苦情の電話がありましたが、すべてお客様相談室のほうで対応済みです。今後の苦情もお客様相談室で対応します。また、この件に関しての金融庁への報告は経営企画室で対応していただくことになっています。またマスコミ対策は広報部に依頼しています」
山之内頭取はうなずいて、
「よろしい。金融庁には私からも報告しておこう。なるべく事態を大げさにしないように依頼しよう。ほかにご意見は?」
また別の役員から、
「今後のセキュリティ対策はどうなっていますか?」
と、質問があった。仁科部長は、
「現在ITチームにより対策を検討していますが、まだ侵入経路の特定には至っていません。今後侵入経路の特定および遮断を行い、監視体制を強化したいと思います」
「では、今後もハッカーの侵入がありえるのでは?」
「再度攻撃を受けた場合にはたぶん侵入をふせげると思いますが、確実かどうかまだわかりません。これから対応策を検討します。しかし、今後のことも考えるとセキュリティシステムの再構築が必要と判断しています」
「再構築にはどれくらいの時間がかかるのか?」
「外部のセキュリティコンサルタントに依頼して、最低一ヶ月程度でしょう」
「外部に委託して大丈夫なのか?」
「現在の帝都銀行のメインシステムは統合時に二つのシステムを統合していますので、かなり複雑になっています。内部のITチームだけでは難しいと判断します」
山之内頭取はやり取りを聞いていて、口を挟んだ。
「わかった。セキュリティについては今後の検討課題としよう。とにかくこのような事件が起きないように最大の努力をしてほしい」
「わかりました」
と仁科部長は答えた。しかし、正直なところ次回のハッカーの攻撃を防げるかどうか仁科自身も自信がなかった。IT部門で優秀と呼ばれた人材は今回の早期退職制度で次々と退職していった。どちらかといえば退職させられていった。いまの人材でどこまでハッカーの攻撃に耐えられるか不安だった。
緊急の取締役会議は一時間ほどで終了した。




