4.転職 その3
「ここは『図書館長』の部屋。ITに関するありとあらゆる図書がある。特にITの法律については館長に相談すると何でも解決してくれる」
霧旗はそう言いながら扉を開き、
「館長、新入りを紹介しにきたよ」
と、声をかけた。
大学の図書館を思わせるほど大きな部屋だった。書架がずらりと並んでいた。手前にはゆったりと書籍を調べるテーブルとその横にコピーとスキャナーが設置されていた。
「そんなに大きな声を出さんでもよろしい。ちゃんと聞こえてるわい」
と奥の書庫から声がして、白髪の老人が出てきた。濃茶色のスーツをきちんと着こなしていた。
「館長、こちらが新しく入った成瀬さん」
「はじめまして」
「ほう、あなたが成瀬さんか。きれいな娘さんだ。この若造にだまされんようにな。女の子には手が早いというもっぱらのうわさだからのう」
「館長にはかなわないや」
霧旗は頭をかいた。
絵理子は自分のことを知っているかのような館長の口ぶりに、
「私のことをご存知ですか?」
「ああ、那智くんから聞いている。とても優秀なお嬢さんが入社すると」
「ありがとうございます。一生懸命頑張ります」
館長は自分の娘をみるような目で微笑んだ。
館長に挨拶を済ませると、二人はさらに次の部屋に進んだ。
「ここはぼくの部屋」
おしゃれな部屋だった。部屋の真ん中に大きな熱帯魚の水槽があり、壁には六十インチぐらいのディスプレイとオーディオ機器、そしてCDがずらりと並んでいた。
彼がオーディオのスイッチを入れるとスローテンポのジャズが流れた。
「それぞれの部屋は防音装置がついているからほとんど音は漏れないよ」
「霧旗さん、あなたはどんな仕事をしているの?」
「さっき言ったよね?『峻』でいいよ。ぼくの仕事はいろんな企業のシステムに侵入して、セキュリティホールを探すことが仕事。いままでに100以上のセキュリティホールをみつけたよ。どんなプログラムも完璧というものはないね。」
「セキュリティホールを見つけてどうするの?」
「見つけるだけ。入り口を開けたらあとは他の人たちが好きなようにやってる」
「ふうん」
「先週あなたがいた帝都銀行のセキュリティホールも見つけたよ」
「えっ!」
「早くパッチを作ったほうがいいよね。でも、もうやめたから関係ないか」
絵理子は驚いた。帝都銀行のセキュリティは決して甘くはない。銀行だから当然である。システム統合の際も外部からの侵入には神経を使った。今でも公開されているセキュリティホールは毎日すべてのパッチを手当てしているはず。
絵理子自身だって外部からの侵入ができるかどうか自信はない。それなのにこの霧旗という若者は帝都銀行のセキュリティホールを見つけている。ということは、いつでも帝都銀行のメインシステムにアクセスできるということである。
「峻くん、帝都銀行には知らせないの?」
「どうして?」
霧旗はなぜそんな質問をするのかというように不思議そうな顔をした。
それはそうだ。彼がセキュリティホールを見つけたとしても、帝都銀行に知らせる義務はない。セキュリティホールを利用して見つけただけで、システムに侵入しなければ不正アクセスにもならない。
霧旗のようなセキュリティホールを見つけることを生きがいとしたハッカーがいることは聞いたことがある。彼らはセキュリティホールを見つけると、さも得意にインターネットに公開する。そしてそれを見た別のハッカーが攻撃をしかける。絵理子たちは、セキュリティホールが公開されるたびにパッチで手当てをしなければならなかった。
絵理子はため息をついた。
そしてさらに隣に部屋に移動した。
「そしてここはあなたが使う予定の部屋」
「え!私の部屋まであるんですか?」
霧旗はその質問には答えず、絵理子からセキュリティカードを受け取り、扉の右にあるカードリーダーに通した。音もなく扉が開いた。
「あとで指紋登録をしよう。そうするとカードがなくても指紋で扉が開くようになるから」
他の人と同じ80㎡くらいの広さがあった。部屋の中央には応接セットがあり、その奥に執務用のデスクがあった。右側には棚が配置されていたがまだ何も置かれていない。先ほどの応接室とは反対側の位置にあり、床から天井までの窓から見える眺望は、新宿御苑の緑が鮮やかで、その先に新宿の高層ビル群が見えていた。
「すごいわ」
絵理子は思わず窓のほうへ歩み寄った。
「応接セットとデスクは那智さんの趣味。変えてもいいよ。ちょっと地味だよね。パソコンはとりあえず、デスクトップと、持ち運びができるようにノートPCも用意したよ。OSはどちらもWindowsをインストールしておいからすぐに使えるようになってる。あと、必要なものは何でも言って。スーパーコンピュータだろうが何だろうがそろえることができるから」
絵理子は回りこんで自分のデスクに腰掛けてみた。机は大きくてがっしりしていた。椅子は帝都銀行の役員室の椅子より立派だった。机の上にはPCが置いてあり、革製のペンケースにはボールペンが二本入っていた。非常に書きやすいペンだった。
デスクトップのPC起動してみた。
「メールの初期設定は、マニュアルが引き出しの中にあるから自分でやって。それから給与口座の登録もしておいてね。給与は毎月20日払で、経費精算はメールで那智さんに送ると給与といっしょに銀行に振り込まれる仕組みになっている。スケジュールは各自が入力することになっているから、あなた自身の分も入れておいて。ほかの人のスケジュールもお互いに見られるようになっている。そう、そのアイコンをクリックして」
「もう私の名前がはいってる」
「さっきぼくが入れておいた」
「峻くん、私はさしあたって何をすればいいのかしら?」
「あなたは何をしたいの?」
「指示をいただければとりあえず何でもします」
霧旗はいきなり大声で「あははは」と笑い出した。そして、からかうように絵理子の目をじっと覗き込んだ。
「ほんとに『何でも』するの?」
絵理子はとまどった。
「いいえ、『何でも』はできないかも…」
「うちでは自分の得意なスキルを自分で磨いて、そのスキルをさっき話したトラブルを解決することに、皆で役立てることになってる。だからルーティーンの仕事はないよ」
「自分の得意なスキル…」
絵理子はとまどった。
「一日中インターネットを見ててもいいし、音楽を聴いててもいいよ。何をしてもいいよ。だからうちには変人が多いのかも」
自分のスキルを磨けといわれても自分には何ができるのだろうとあらためて自問した。ITについては大学院で専門的に学んだ。しかし、銀行に就職して実務を担当すると、大学院で学んだことはあまり役に立たなかった。しかも仕事は上司からほとんどこなせないくらいの指示が飛んできて、それをがむしゃらにさばいていた。どうしたものやら。
絵理子があたりを見回していると、霧旗はさらに右奥のドアの方へ歩いていった。
「ここはクローゼット。那智さんが女性だから必要だろうって」
絵理子も続いて入った。そのウォークインクローゼットは20㎡はあった。
「だんだん自信がなくなってきちゃった。私、お茶汲みでもいいかな…」
絵理子はため息をついた。
霧旗は机のボールペンを取り上げると、メモ用紙に何かを書き込んでいた。
「これは明日出社したら読んでみて。それまでは見ちゃだめだよ」
そういうとその紙をペンケースのところに折りたたんで差し込んだ。
「何かしら」
霧旗はその質問には答えずに、
「ぼくは高校生のときにマジシャンを目指していたんだ」
そういうと、ポケットからコインを取り出した。そして指をパチンと鳴らすとあっという間にコインが消えた。
絵理子はあっけにとられて見ていた。今度は彼女の両手をとり、目の前で握らせた。そして左右ど らかに入っているのを当てる仕草をして、右手を指した。絵理子が右手を開いてみると、コインが入っていた。いつ握らされたのか全くわからなかった。
「峻くん、すごい」
霧旗は左手を胸にあて観客に向かってお辞儀をするようなまねをした。
「全然わからなかった」
「さっきのメモもマジックの1つだよ。明日楽しみにしてて」
霧旗はそう言うと絵理子に微笑んだ。




