3.転職 その2
絵理子は顔を上げた。
霧旗が微笑んでいた。彼の笑顔をみると不思議と気持ちが和む。
「あなたみたいな若くてきれいな女性は大歓迎だよ。なんせ男ばかりの会社だから色気がなくて」
「もう、若くありませんわ。あの、私、面接を受けにきたつもりだったのですが、採用になったと思っていいんでしょうか?」
「那智さんは、最初からあなたを採用するつもりだったみたいだよ」
「そうなんですか」
「ゴールデンウィーク前には、あなたの新しい名刺と携帯電話の手配を依頼されたし…」
絵理子はたったいま受け取ったばかりの名刺と携帯電話をみた。ゴールデンウィーク前では応募の履歴書がまだ届いたばかりのはずだ。やはり採用になったのは仁科部長のおかげに違いない。あとでお礼をいわなくちゃ。
「私がもし入社を断ったら無駄になったかもしれないのに・・・」
「でも入社するんでしょ?・・・じゃあ、いいじゃない」
「そうね」
絵理子は、霧旗という若者を観察した。鋭い雰囲気の那智とは対照的に、女性受けする甘いマスクのイケメンで、親しみやすさがあった。絵理子と同い年ぐらいだろうか。
「こちらの会社のことをもうすこし詳しく知りたいんですが…」
「うちの会社の業務は、一言で言うのは難しいんだけど、ITに関するトラブルの解決をしているって言えばいいかな」
「どんなトラブルを?」
「ウィルスの感染やシステムへの不正アクセス、それに恐喝、情報漏洩、その他もろもろ。警察に頼めないような依頼が多いかな。クライアントは、一流企業だったり、政治家だったりすることもあるよ」
確かにITに関わるトラブルは警察に依頼してもなかなか埒があかない。警察にはまだそれだけのスキルがないことが多い。またスキルがあったとしても痛くない腹を探られるのは迷惑なのだ。したがって警察へは通報のみで、通常はこの種のトラブルならシステムを開発したソフトウェアメーカーに依頼をする。しかしウィルスやシステムへの侵入については、自前で解決しなければならないケースも多い。まして情報漏洩などが発生した場合は、他に漏らすこともできない。絵理子も銀行時代は、システムのセキュリティに神経を張りつめていた。こんな商売もあるんだと絵理子は思った。
「こちらの会社には何人ぐらいの方が働いているんですか?」
「ぼくを入れて7人、あなたが8人目」
「えっ!」
絵理子は口を押さえた。このビルの入り口で30階にはこの会社の名前しか掲載されていなかった。恵比寿のインテリジェントビルのワンフロアを借り切っているぐらいだから、少なくても100名くらいはいるのではと絵理子は思っていた。
「少なくて驚いた?」
「ええ…」
絵理子はうなずいた。どおりで女性がいないはずだ。
「うちは5年前にできたばかりで、ITバブルのときの会社と違うから、小数精鋭なんだよ。でもぼく以外は、みんな変人ばかりだ」
「変人?」
「今から紹介してあげる。社内を案内するよ」
そう言って霧旗は立ち上がった。霧旗の態度はついてくるならどうぞというような少しなげやりな印象を受けた。絵理子はあわてて受け取った名刺や携帯電話をバックの中にしまうと立ち上がった。
絵理子は霧旗に従って、さきほど那智が出てきたドアを開けて部屋にはいった。そこには50㎡くらいの部屋があった。
「ここはミーティングルーム。毎週水曜日の十時から、それぞれの業務の報告を行う場所なんだ。といってもそんなに堅苦しい場じゃないよ。それぞれの分野についての意見交換をしている感じ」
その部屋は会議室というよりは談話室だった。中央にどっしりとしたチーク材の低めのテーブルが置かれ、それを囲むようにソファが配置してあった。十五名くらいがゆったりすわれる広さがあった。部屋の隅にはドリンクバーがあり、コーヒーのサイフォンが湯気をたてていた。
「コーヒー飲む?ここのコーヒーはおいしいよ。ただし、使ったら自分で片付けること。砂糖とミルクは?」
「いえ、ブラックで」
「はいどうぞ」
「ありがとうございます」
霧旗は白いマグカップにコーヒーを入れ、絵理子に差し出した。絵理子はそれを受け取り、口をつけた。コーヒーの香りが口の中で広がった。コーヒーってこんなにおいしかったっけ。銀行では休憩時間に自動販売機の缶コーヒーを流し込んでいて、味わう暇なんかなかったな。
「ここではお茶汲みの仕事はないから安心して」
「はい。ありがとうございます。ところで、ここはスーツ着用なんですか?」
「ああこれ?」
と言いながら、霧旗はスーツの襟を引っ張った。
「いやみんなそれぞれだね。ぼくはこのほうが仕事をしてる気になるから。スーツを着て『さあ仕事だ』と思わないとなかなかエンジンがかからないほうなんだ」
絵理子はクスリと笑った。
「IT関連の企業はカジュアルな服装の方が一般的なので、ちょっと不思議でした」
ふたりはコーヒーをもったまま廊下に出て次の部屋に向かった。
「ここは那智さんの部屋」
「勝手に入ってもいいの?」
「この最初の部屋までは大丈夫。次の部屋はダメだけどね。次の部屋は那智さんのプライベートルーム」
那智はいなかった。部屋の中には執務用のデスクと応接セットが置いてあった。
壁には応接と同じような絵が掛けてあった。
「この絵は素敵ですね。さっきの応接室にも同じような絵が掛けてありましたよね」
「これは那智さんが描いたもの」
「えっ?」
「那智さんの趣味。なんとかっていう展覧会に入選するぐらいの腕前だって」
絵と反対側の壁は一面本棚になっていた。半分ぐらいが洋書で残り半分はIT関連の書物で埋められていた。
「あ、そうそう、うちでは肩書きは何にもないから、呼ぶときは『さん』づけでいいよ。那智さんも那智さんって呼べばいい。ぼくのことは『峻』って呼んでくれればいいよ」
「シュン?」
「ぼくの名前。霧旗峻」
「峻さんね」
「峻でいいってば。ぼくのほうが2つ年下だし」
「私の歳を知ってるの?」
「30歳でしょ。履歴書で見たよ」
霧旗は悪びれた様子もなく言った。
「私のほうがお姉さんなのね」
「そういうこと。それから他の人のほとんどはコードネームで呼ぶことが多いけど」
「コードネーム?」
「つまり、あだ名。といってもほとんどぼくが付けてる」
そういうと霧旗はさっさと廊下に出て次の部屋に向かった。
「ここは『ウィルス研究家』の部屋」
と、いいながら霧旗は次の部屋のドアをノックした。内側から返事があり、扉が開いた。
「よう、新入りを紹介しにきたよ」
声をかけられた『ウィルス研究家』は、パソコンに向けていた目をあげ、鼻めがねでレンズのうえから見上げるように絵理子をみた。青いワイシャツに紫のストライプのネクタイを締め、薄手のベージュのベストを着ていた。体型は痩せていて、ちょっと神経質そうな印象を受けた。絵理子より二,三つ上だろうか、まだ三十歳前半くらいだろう。
部屋の広さは80㎡はあるだろうか。机の上も本棚も整理整頓されていた。
「よろしく」
とウィルス研究家は立ち上がって絵理子のところまで、近寄ると右手を差し伸べた。
「成瀬絵理子です。よろしくお願いします」
絵理子も右手を差し出し、挨拶をした。
霧旗はウィルス研究家のパソコンをのぞきこみながら。
「新種のウィルスは発見した?」
「いや、亜種ばかりだよ。最近は自分でプログラムを書くような奴はおらんね。他人が作ったウィルスの一部を修正して、さも自分が作ったような顔をしてばらまいているガキのクラッカーばかりだ。いわゆるスクリプトキディだね。おまけに内容がよくわかっていないから、たちが悪い」
「自分で新種を作っちゃえば?」
「もちろん作れるさ。でもぼくはウィルスを発見し、退治するワクチンを作るのが専門だからね」
「がんばって」
霧旗は笑顔で挨拶した。絵理子は丁寧にお辞儀をして部屋を出た。
さらにとなりの部屋へ移った。
ノックをすると返事があった。
「ここは『のぞき屋』の部屋。独自のスパイウェアを作って、ホームページからメールまでありとあらゆるところをのぞきに行ってる。芸能人のスキャンダルから政治家の汚職まで何でも知ってるよ」
「…?」
絵理子は首を傾げた。
「おじゃましまーす」
と霧旗は部屋に入った。
「よ!のぞき屋さん、新入りを紹介しにきたよ」
「よ、よ、よ、よろしく」
のぞき屋は絵理子を見て、顔を赤らめてどもりながら挨拶をした。赤い可愛いセーターを着ていたが、太っていてはちきれそうだった。
広さは先ほどの部屋と同じくらいあった。部屋の中はアニメのポスターがいたるところに貼ってあり、棚にはフィギュアが所狭しと並んでいて、ちょっと圧倒された。間違いなくオタクの雰囲気。
絵理子も丁寧に頭下げ挨拶をした。
「成瀬絵理子です。よろしくお願いします」
「彼はどんなところへも侵入できて、痕跡を残さずにいろんな情報を収集するのが得意なんだ。とくにチャットをのぞき見るのが好きなんだ」
のぞき屋はさらに顔を赤らめながら、
「峻くん、チャットだけじゃないよ。メールやLINEだってちゃんとのぞきに行けるんだから」
「ははは、そうだね。三面記事について知りたかったら彼に聞くといいよ」
そう言いながらドアを出て次の部屋に向かった。絵理子もお辞儀をして部屋を出た。
霧旗は次の部屋をノックした。
「ここは『壊し屋』の部屋。彼に狙われたらどんなコンピュータも二度と使えなくなる。
時限爆弾なんかを作るのが大好きなんだ」
ここはトレーニングジムのようだった。鉄アレイや腹筋マシンなどが部屋いっぱいに置いてあった。
「壊し屋くん、忙しい?」
「峻、いまトレーニング中だ。いっしょにやるか?」
「いや、遠慮する。今度入社した成瀬絵理子さんを紹介に来たんだよ」
霧旗が声をかけると、腕立て伏せをしていた筋肉質の男性が立ち上がった。身長が高く絵理子は思わず見上げてしまった。ランニングシャツにトレーニングパンツという格好で全身から汗が噴出していた。彼は近くにあったタオルで顔や腕を拭いた。
「ようこそガイアへ。運動不足の解消をしたくなったらいつでもお越しください」
「ありがとうございます」
絵理子はそういうと握手の手を伸ばした。壊し屋はちょっとためらいそれから丁寧に手を拭いてから握手をした。大きな手だったが、緊張しているのが伝わってきた。根は意外にうぶなのかも。
壊し屋の部屋を出たところで、絵理子は霧旗に話しかけた。
「みなさん、ちょっと変わってるかも・・・」
「ちょっとじゃないよ。か・な・り」
絵理子は思わず吹き出した。おかげでもう少しで手にしたコーヒーをこぼすところだった。
さらに次の部屋をノックした。返事はなかったが、霧旗は中に入っていった。
「ここは機材室。その奥が『手配師』の部屋。彼はハイヴィジョンカメラから、盗聴器まで業務に必要なものはなんでも調達してくるよ。これが結構事件解決に役立つんだ。でも今日はお出かけみたい。また今度紹介するよ」
絵理子はそこに並んでいるものを興味深く眺めた。盗聴器なんて初めて見た。
「そしてさらにこの奥がホストコンピュータルームになっていて、最新のサーバーが各種設置されているんだ」
二人は機材室をでて、さらに次の部屋に進んだ。




