2.転職 その1
ゴールデンウィークが明けた日の午後、成瀬絵理子は、恵比寿にあるインテリジェントビルの30階の『ガイア(GA1A)』というITセキュリティ会社に転職の面接に来ていた。
3月末に帝都銀行を退職する際に、上司である仁科部長に紹介してもらった会社である。銀行を勢いで退職してしまったので、先のことはあまり考えていなかった。そのときは退職をしてもどこか就職できるだろうと安易に考えていた。仁科部長に迷惑はかけたくはないと思い、履歴書を携えて自分なりに就職活動をしたが、この1ヶ月に応募した企業はすべて玉砕した。
女性の大学院卒を雇ってくれる会社はそうざらにはない。すべての会社で不採用の通知を受け取ったときは、自分の甘さに愕然とした。銀行の退職金もたいした額ではなく、今後の生活を考えやっと仁科部長が紹介してくれた企業の面接を受ける気になったのである。しかしどんな仕事をしている会社かよく知らなかった。面接を受けるのだから、もう少し会社の内容ぐらい調べておけばよかったと後悔した。
絵理子はインテリジェントビルの30階のエレベータを降りると、しっかりとした足取りでその会社の受付に向かった。銀行では男性と対等に業務をこなすことをいきがいとしていた。今日も黒のパンツスーツに白のブラウスを着ていた。イヤリング等の装飾品はつけていない。銀行時代から動きやすいパンツスーツが好きで、業務の邪魔になる装飾品も一切つけない。
ガラスの扉の入り口を入ると50㎡ぐらいの広い受付があった。帝都銀行の役員室の受付のようだった。そこには誰もいなかった。近づくとその受付はテレビ電話になっていて、受話器をあげると若い男性が画面に現れた。絵理子はその男性に名前を告げた。しばらくすると受け付けの右側のドアが開き、きちんと黒のスーツを着こなした20代後半ぐらいの男性が、丁寧な応対で絵理子を応接室に案内した。
100㎡はある広く明るい天井の高い応接室に通されて、しばらく待たされた。とても座り心地のよいソファとガラスでできた大きなテーブルが配置されていた。左側の壁には美しい少女を描いた60号くらいある絵が掛けられていた。正面は床から天井まで全面が窓になっており、澄み切った青空に東京タワーが見えた。青空を眺めるなんて久しぶりのような気がした。
15分ほど待ったところで、応接室の右側のドアが開き、ひとりの男性が近づいてきた。年齢は40代前半ぐらいに見えた。上下ともセンスのよいダークグレーのスーツを着ていた。ワイシャツもグレーで、ネクタイは銀と黒のチェック柄だった。外資系企業の印象を受けた。背は高く、がっしりとした体型で日焼けをした精悍な顔つきをしていた。
絵理子は思わずソファから立ち上がった。
「代表の那智です」
そういうと彼は名刺を差し出し、さらに握手をもとめて手を差し出した。大きな手だった。絵理子はぎこちなく手を握りかえした。
「成瀬絵理子さんですね、おかけください。」
絵理子は勧められて、ソファに座りなおした。浅く腰掛け、脚を斜めにそろえて手は膝の上に重ねておいた。ひどく緊張していた。
「お待たせして申し訳ありません。急用でさきほどニューヨークからもどったところなのです。当社で働きたいというお話でしたね。帝都銀行の仁科部長からお話はうかがっています」
「よろしくお願いします」
「うちは企業の要望に応じてIT関連のセキュリティを業務にしています。といってもふつうのソフトウェアメーカーのようなものではありません。具体的な販売商品があるわけではなく、セキュリティサービスのみを提供しています。あなたにはとりあえず、セキュリティコンサルタントをやっていただこうと考えています。具体的には、クライアント企業との窓口として、うちのITのスペシャリストをつなぐ役割です。詳細はおいおいお伝えすることにしましょう。」
「わかりました」
無駄な話はなくてきぱきとしたしゃべり方だった。絵理子は圧倒されていた。
「年収は業務レベルによってさまざまですが、あなたには、とりあえず年収1000万円でと思っていますがいかがでしょうか?」
金額を聞いて絵理子は驚いた。前職は600万円ちょっとだった。それでも同期入社の女の子たちに比べると多いほうだった・
「そんなに、よろしいんですか?」
「業績次第ではもっとお出ししたいと思っています」
「ありがとうございます。でも十分です。まだそこまでの自信はありませんが…」
「謙虚な方ですね」
那智は笑みを浮かべた。やさしい笑顔だった。
「あなたさえよければ、すぐにでもうちで働いていただきたいと思います。いかがでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
「結構。いつから仕事に来られますか?」
「明日からでも来られると思います」
「では明日の10時にここへ来てください」
そう言うと、彼はスラックスのポケットの中から懐中時計を取り出し、時間を見た。
「申し訳ありません。次のアポイントがありますので私はこれで。ぜひ当社であなたのやりたいことを見つけてください。これから先は霧旗というものにもう少し詳しくご説明させましょう」
那智が合図をすると先ほど彼がはいってきたドアから、もうひとり男性がはいってきた。さっき受付で絵理子を応対した若者だった。
「霧旗くん、こちらは成瀬さん。明日からうちで勤務することになった。」
絵理子は立ち上がってぎこちなくお辞儀をした。
「成瀬です。よろしくお願いします」
霧旗と呼ばれた青年は、丁寧に挨拶をした。
「霧旗です。よろしく」
那智はふたりに腰掛けるようにというジェスチャーをした。
「霧旗くん、成瀬さんに携帯電話と名刺、それからセキュリティカードを渡してくれ」
あらかじめ指示されていたんだろう。霧旗は手にしていたそれらの品物を絵理子に渡した。
絵理子は名刺の束と一台の携帯電話とセキュリティカードを受け取った。変わった電話で、日本で販売されている機種ではなかった。
「これは業務用の電話です。私と霧旗の電話番号が登録されています。二十四時間いつ電話しても結構です。また、そのセキュリティカードを使えば二十四時間いつでも会社に入れます」
そう言って、那智は立ちあがると、
「では私はこれで失礼します」
絵理子ともう一度握手をしてそして去っていった。
ほんの10分ぐらいだった。面接というよりは、入社の説明という感じだった。那智が退室すると、絵理子は彼との会話で張りつめていた緊張感が緩んだ。
絵理子が少しリラックスしたのを見た霧旗は、にっこりと微笑んでうちとけた感じで絵理子に話しかけた。
「前の会社では何をやってたの?」
「ITの部署でシステム開発のチーフをやっていました」
「なぜ辞めたの?」
「銀行というところは女性の管理職は居づらいところなんです」
絵理子はうつむいて答えた。
絵理子は帝都銀行と東西銀行が合併する前の旧東西銀行に総合職で入行した。事務職ではなく総合職を選んだのは、大学院でITを専門に学んできたので、その知識を活かしたいと考えたからだ。コピーやお茶汲みは自分には似合わないと思った。そして、旧東西銀行では抜擢されてシステム開発を任されていた。
旧東西銀行は銀行では比較的革新的で早くから女性の総合職の採用を導入していたが、それでもまだ数人しかいなかった。その中でも絵理子は同期の男性を抜いて、28歳で課長代理に昇進した。しかし、昨年の帝都銀行との合併で行内の空気は様変わりした。帝都銀行と東西銀行は、表向きは対等合併であったが、実情は資金量、顧客数とも多い帝都銀行が仕切ることになった。頭取を初め、主要ポストのほとんどは旧帝都銀行出身者が占め、旧東西銀行出身者は窓際に追いやられることになった。
絵理子自身は合併からこの1年間、2つの銀行のシステム統合のため、全力を尽くした。コンピュータシステムは旧東西銀行のほうが優れていて、絵理子は旧東西銀行のシステムをベースに開発することを提案したが、コスト面等から顧客数および支店数の多い旧帝都銀行のシステムを引き継ぐことが決まった。旧東西銀行が他行に先駆けて開発した新サービスも、システムのレベルダウンにより廃止せざるを得ない状況だった。支店の統合、顧客データの移行など、膨大な統合業務を絵理子はITチームの部下とともにがむしゃらに遂行してきた。そのおかげで、今年の1月1日の両行のシステム統合は、なんとか無事完了した。
システム統合の目処がついたころから、他部門で始まっていたリストラの嵐が、システム部門にも吹いてきた。退職金の上乗せをする早期退職優遇制度なるものが発表されたが、経営陣が目指しているリストラの人数に比べ、半分にも満たない応募だった。そのため、年齢の高い社員から肩たたきが始まった。ここでも、旧東西銀行の行員のほうが数多く対象となった。
システム統合のため絵理子の部署では旧帝都も旧東西もなく一致団結して乗り越えてきたのに、いままでいっしょに働いてきた仲間が何人も辞めさせられていくのをみて、絵理子は懸命に抗議をしたが、所詮無駄な抵抗だった。約200名いたシステム部門も120名に縮小された。絵理子はリストラの対象となった部下の再就職先を探すのに奔走した。
また、女性管理職としての絵理子への風当たりも強くなった。旧東西銀行でもしばしば男性上位の発言はあったが、それなりに女性管理職への配慮があった。とくに絵理子の場合はシステムに関する豊富な知識と適切な判断で、システム部門のメンバーからは信頼が厚かった。しかし旧帝都銀行出身者は女性に対する理解は低かった。
3月に開催された役員会議で、絵理子はホストコンピュータのセキュリティ上の問題点を指摘して、早急な対応が必要であることのレポートを提出した。旧東西銀行では、絵理子の提案はほとんど採択された。しかしながら、今回はコストがかかり過ぎるという理由で却下された。
さらにIT担当役員からは、報告は自分がするので今後の絵理子の役員会議への参加は不要と告げられた。絵理子はだんだん自分の居場所がなくなるのを肌で感じていた。
このような状況の中でシステム開発から社内のITのサポートデスクへの配置転換を言い渡された。異動の内示を受けた絵理子は自分のやりたいことは何だったんだろうと考えるようになった。部下の退職、そして自分に対する役割期待の低下を冷静に受け止め、そして退職を決意した。もう一度原点にもどって自分を見つめなおしてみたいと思った。
3月に情報管理部長である上司の仁科部長に退職を申し出た。仁科部長は旧東西銀行出身者で、絵理子のことを理解してくれていた。強く慰留を勧められたが、絵理子の意思の固さと現在の環境を考慮して承諾してくれた。そして3月末をもって帝都銀行を退職した。




