13.深夜
絵理子が時計を見るとまだ午後10時前だった。銀行ではこのくらいの時間はまだ残業していた。
土日は実家の母と過ごそうと考えていたので、今与えられた宿題のレポートは今日中に済ませたかった。大して酔ってもいないので、恵比寿駅に向かっていた足を目の前のガイアのビルに向けた。
自分に与えられた個室に戻りドアをあけると、正面の窓から新宿の夜景が飛び込んできた。窓際まで歩くとデスクの上にバックを置き、夜景にみとれた。
「きれい」と絵理子は思わずつぶやいた。明かりをつけるのがもったいなかった。五分ほど美しいネオンサインに見とれていたが、我に返り明かりをつけ、パソコンの電源を入れた。
デスクにすわりレポートを書き始めた。このデスクは今までの小さな机と違い広々と使えて、椅子もゆったりとかつ姿勢よく座れて、仕事がスムーズにはかどった。
銀行のIT部門の席は隣の人との距離も近く机の上には書類が山積みになり、やっとマウスが動かせるのが普通だった。作業環境がいいと仕事の効率が上がるということを初めて感じた。とは言うもののこれを進言する上司もいないが。
今日のクレジットカード会社のフィッシング事件の経緯のレポートを書き上げると、代表である那智へメールに添付して送った。夜11時を回っていた。
部屋を出て那智の部屋の前を通り過ぎようとすると、明かりが漏れていた。絵理子はちょっと話がしたくなってドアを開けた。部屋に入ったがそこには那智はいなかった。もうひとつ奥の部屋のドアが少し開いていて、そこから明かりがもれていた。あの部屋は入ってはいけないという言葉を思い出し、帰ろうとすると、
「成瀬さんだろ。はいりたまえ」
と奥の部屋から那智の声がした。
「失礼します」
絵理子は初めて那智の次の部屋に入った。
部屋の真ん中にはグランドピアノが置いてあった。左横の壁には女性を描いた絵がいくつか飾られていた。BGMにクラッシックが流れていた。
那智はネクタイをはずして、シャツの一つ目のボタンをはずしていた。
絵理子が入ってくるとデスクから立ち上がり、すぐ前にある応接セットのソファを指しながら、
「どうぞ、おかけなさい」
「あのう、どうして、私だとわかったんですか?」
「うちの会社でハイヒールをはいているのは君だけだよ。コーヒーはいかが?」
「ありがとうございます」
那智は奥の棚に行き、コーヒーサーバーからコーヒーを二つのカップに注いだ。
「砂糖は?」
「いえ、結構です」
「初めての仕事はいかがでしたか?」
那智は絵理子にコーヒーを渡し、自分はコーヒーを啜りながら尋ねた。その顔は昨日会った精悍な印象とは違う暖かいまなざしを湛えていた。
「やっていることが銀行の時とはまったく違っていてとまどっています」
「そうかもしれないね」
絵理子もコーヒーを啜った。
「先ほど、今日の状況のレポートをメールでお送りしました」
「ありがとう。仕事が速いね。よくできてるよ」
「もう読んだんですか?」
「いま目を通したところだ。これからレポートを提出するときは『館長』をCCで入れておいて欲しい。彼にはうちで扱った事件をすべてファイルしてもらっている」
「わかりました。月曜日に送信しておきます」
絵理子はソファに座りなおし、真剣な眼差しを那智に向け、
「あの、一つ質問をしてもいいですか?」
「どうぞ」
那智は笑顔で答えた。
「私を採用して下さったのは、仁科部長の紹介だったからですか?」
那智は首をかしげて、
「それはちょっと違うな。もちろん仁科さんはよく知ってるし、信頼もしているけど、彼に紹介されたからというわけではないよ」
「ではどうして?」
那智はにっこり微笑んで、
「それはきみが優秀だからだよ。今回のことがなくてもきみをいずれ近いうちにヘッドハンティングするつもりだった」
「どういうことですか?私のことを知っていたんですか?」
「もちろん知ってるよ。君が小学生のころから」
「え?」
絵理子は不思議そうな顔をした。那智はにこやかな表情でゆっくりと一語ずつ丁寧に、
「私が大学の研究室にいるとき、きみは私の先生にお弁当を届けていた」
絵理子は驚いて手を口に当てた。声も出なかった。
「そう、ぼくの先生は成瀬教授。きみのお父さんだ」
驚いた絵理子は一呼吸おいて、
「父をご存知だったんですね?」
「大変お世話になった」
「そうだったんですか」
「きみが大学に残らずに就職をしたいと言った時、東西銀行に紹介したのは私だ。先生は反対していたけど、きみがどうしても民間で働きたいということで、先生から頼まれて私が動いた」
そういえば、父から東西銀行はどうだと言われ、とりあえず申し込んでみたら、あれよあれよという間に就職が決まった。
「それからきみのことはずっと見ていた。成瀬教授が亡くなった時に私も研究室を出てこの会社を立ち上げた。いずれきみといっしょに仕事をしたいと思っていた」
この二日間驚きの連続だったが、その中でも一番の驚きだ。
「きみの能力をうちで最大限生かして欲しい」
「ありがとうございます」
自分でも気が付かないうちに涙が出てきた。涙が頬を伝って落ちた。バッグからハンカチを取り出した。那智はそれを見ないふりをしながら、
「今日きみの口座に1000万円を振り込んでおいた。報酬とは別のいわゆる支度金のつもりだ。これで業務に必要なものを購入してください」
「ありがとうございます。でもまだ何をすればよいのかよくわかっていません。何のお役にも立たないかも…」
「私がこの会社を立ち上げたヴィジョンを話しておこう」
霧旗は立ち上がり、窓際に歩いた。
「現代においてインターネットは生活に欠かせないものになった。しかしこのバーチャルな世界は極めて危険な世界でもある。無防備にアクセスすると、詐欺、ゆすり、たかりなどがひしめいている。特に日本は『平和ボケ』の国だから、何の武器も持たずにスラム街を歩いているようなものだ。セキュリティにお金を払うという意識がないのかも知れない。個人のPCにセキュリティプログラムをインストールしているのもまだ8割程度だ。だから気が付いたら丸裸にされていたということも日常茶飯事だ。このような人々を守るのは我々のようなハッカーしかいない。きみにもその手伝いをして欲しい。きみはもうサラリーマンではない。サラリーマンであってはいけない。会社の利益など考えなくていい。上司の顔色も見る必要はない。自分の信念にしたがって普通の市民の普通の生活を守るために働いて欲しい。きみのお父様、成瀬先生もそのことを大変憂えていらした。そのために力を貸して欲しい」
絵理子はぼろぼろと泣いていた。ハンカチで目を押さえても後から後から涙があふれてくる。那智さんは父と同じことを言っている。父もITを普通の人が安心して使える世の中にしたいと言っていた。本当にここに来て良かったと心から思った。
「がんばります」
かろうじてその言葉が言えただけだった。
那智は、絵理子の肩に手をおくと、
「何もあせることはない。自分が正しいと思うことをやってくれればいい」
「自分が正しいと思うこと・・・」
「私は成瀬教授からそう教わった。そして大学ではできないことをやりたくて会社を立ち上げた」
「そうなんですね」
「最初はうまくいかなかったよ。当時はまだITが確立していなかったため、物珍しさでいろいろなクラッカーが横行した。それらに対処することで手一杯だった。そこに足りなかったのは倫理観だ。どんなにITスキルが高くても、倫理観がなければ詐欺師や泥棒と同じだ」
「何でも悪いことが出来てしまう?」
「その通り。罰する法律もなく、好き勝手にやっていた。不正アクセス禁止法はあったものの、警察にそれを取り締まれる技術がなかった」
「そうですね」
絵理子は、確かにバーチャルな世界はまだまだ発展中だと思った。そこは楽しい世界でもあり、恐ろしい世界でもある。
「最近はAIがずいぶん発達してきたから、素人でも複雑なプログラムを組むことができる。しかし悪用するかしないかはその人の倫理観に委ねられている。その悪意から人々を守るのが、我々の仕事だ。成瀬くん、きみには期待しているよ」
絵理子は立ち上がると、ハンカチで目頭を押さえたまま、那智にお辞儀をしてその部屋を辞した。




