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ナイルに消えた使徒

作者: たんすい
掲載日:2025/10/11

――ある名の誕生と消滅――



【一 教授の部屋での問い】


 秋の午後、大学の一室に静寂が満ちていた。


 古びた革張りの椅子に腰を下ろした教授の前で、若い学生が身を乗り出す。


 机の上には、色あせた地図と魚のスケッチ、そして分厚い古書。

 窓から差す光が、紙面の上でやわらかく滲んでいた。


「教授。ある弟子が発見して“ファハカ”と名付けた魚を、その師匠が横取りして“リネアートゥス”と改名したそうですね。まるで科学界の盗作事件です」


 教授は眼鏡を外し、わずかに微笑んだ。


「その話は単純ではない。歴史とは、表層よりも深く流れるものだ。――座りたまえ。ナイルの流れを辿るように、真実を追ってみよう」


 紙が擦れる音が、遠い時代の扉を開いた。



【二 ナイルの守護者】


 ナイル川の水面は、黄金の陽光を反射してまぶしく輝いていた。


 そこに棲む――

 Tetraodonテトラオドン lineatusリネアートゥス

 体長四十センチを超える大型の淡水フグである。


 黄色い体に暗赤色の縞を刻み、まるで古代の護符のように人々を見つめていた。


 その名は“ファハカ”。アラビア語に由来し、膨らむ姿から「不満」や「憤怒」を意味する言葉でもあった。


 古代エジプトでは、この魚の姿がヒエログリフに刻まれている。

 怒りの象徴として、あるいは守護の印として。


 ナイルの民にとって、ファハカは単なる生物ではなかった。

 神話と毒、そして生の神秘を宿す存在だったのだ。



【三 秩序の創設者】


 十八世紀、スウェーデン・ウプサラ大学。


 若き博物学者カール・フォン・リンネは、混沌とした自然界に“秩序”を与えようとしていた。


 彼が生み出したのは――

 二名法にめいほう

 属名と種小名の組み合わせによって、世界中の生命に唯一の呼び名を与える体系だった。


 それは、神の言葉を再構築する試みでもあった。


 リンネのもとで学ぶ弟子たちは「使徒しと」と呼ばれ、世界各地へと派遣された。

 そのうち七人が命を落とすほどの過酷な旅だったという。

 彼らの旅は、知識を求める信仰にも似ていた。



【四 ナイルに消えた使徒】


 その一人――フレドリック・ハッセルクヴィスト。


 1749年。彼はリンネの指示を受け、スウェーデンを離れた。

 目的地は聖書の地、レヴァント東部地中海沿岸。


 乾いた風、熱病、孤独――それでも彼は観察を続けた。

 そして1750年、ナイル川で“ファハカ”に出会う。


 現地の人々がそう呼ぶ魚を、彼は細密にスケッチし、縞模様を記録した。


 手記には、こう記されている。


「怒る魚。だがその眼は、人の嘆きを知っている」


 しかし、1752年。

 帰国の夢は叶わなかった。スミルナ(現在のイズミル)で病に倒れ、わずか二十九歳で没する。

 彼の遺稿と標本は、債権者に差し押さえられた。


 この知らせを聞いたリンネは、女王に資金を懇願してそれらを買い戻す。

 そして1757年、『パレスチナ紀行』として出版し、弟子の名を歴史に刻んだ。


 ――だが、その書には不可解な沈黙があった。


 ハッセルクヴィストが命名したはずの“ファハカ”という記録が、どこにも見当たらなかったのだ。



【五 命名の掟】


 教授はゆっくりと語った。


「動物の命名には、厳格な掟がある。

 国際動物命名規約こくさいどうぶつめいめいきやくは、1758年を出発点としている。

 ハッセルクヴィストが“ファハカ”を記したのは1750年。ゆえに彼の名は無効となり、

 リンネが1758年に Tetraodon lineatusテトラオドン・リネアートゥス として発表した――これが正式な学名なのだ」


 学生は納得したように頷いた。


「なるほど。つまりリンネは弟子の功績を奪ったのではなく、正式な形で残した。

 “後見人こうけんにん”だったんですね」


 ――その時、部屋の隅から声がした。



【六 心理の断層】


「後見人……ですか? 私には、知的帝国を築こうとした支配者の姿が見えます」


 ずっと黙っていた大学院生・高山が、冷徹な声で言った。


 彼女は立ち上がり、机の前に進み出る。


「リンネの行動には、彼自身の心理の断片が見えます。

 彼は自らを“神に選ばれた分類者”と信じ、神聖な使命感を抱いていました。

 心理学で言えば、自己重要感の過大評価――信仰と独善の紙一重です」


「彼にとって弟子たちは、科学の王国を広げるための“使徒”であり、資源でもありました。

 ハッセルクヴィストの死は、個人的悲劇ではなくプロジェクトの危機。

 彼は遺稿を“救済”したのではなく、“再利用”したのです。

 彼にとって“救う”とは、“取り込む”ことでした」


「これが初めてではありません。植物画家エーレットの功績を記さなかったり、

 弟子ロランダーの標本を盗んだという話まで残っています。

 もしハッセルクヴィストが“Tetraodon fahakaファハカ”と命名していたのなら――

 リンネはそれを削除し、自らの“二名法帝国”の秩序を守ったのでしょう」


「彼の命名行為そのものが、支配の表れです。

 人間を気質で分類して人種差別の基盤を作り、

 “ファハカ”のような現地名をラテン語に置き換える――

 それは文化の多様性を切り捨てる傲慢そのものです」


 鋭い分析に、若い学生は息を呑んだ。



【七 秩序の代償】


 教授は、高山の挑戦的な視線を静かに受け止めていた。


「君の分析は鋭い。だが、少し現代の倫理観に寄りすぎているかもしれない」


 教授は言葉を選びながら続ける。


「十八世紀当時、師が弟子の成果を自分の体系に組み込むのは、珍しくない慣習だった。

 リンネの行動には、混沌とした博物学界に“秩序”をもたらすという大義があった。

 彼の執着は、科学の未来を思う情熱だったのかもしれない」


「たしかに、弟子との対立は多い。だが、彼は学びもした。

 使徒の一人テルンストレムが亡くなった時、その未亡人に非難されてからは、

 彼は“使徒を未婚者に限定”するよう方針を改めている。

 つまり、彼は非情なだけの人間ではなかった」


「ハッセルクヴィストの遺稿回収も、支配欲だけでは説明できない。

 散逸しかけた貴重な科学遺産を、国家を動かしてまで守った。

 それは、科学の未来のための――非情な愛だったのではないかね」


 高山は何も言わなかった。

 ただ、机の上の魚のスケッチを見つめていた。

 その目に映るのは、科学者ではなく、“人間リンネ”の影だった。



【終章 君が呼ぶ名】


 夕陽が窓から差し込み、机の上の魚のスケッチを赤く染める。


 長い沈黙の後、教授が口を開いた。


「さて――君はどう思う?

 この二つの話を聞いて、君はこの魚を、どう呼ぶ?」


 学生は、教授と高山の顔を交互に見た。

 そして視線をスケッチに落とす。


 縞模様の魚が、紙の上で静かに彼を見つめ返していた。

 まるで、ナイルの岸辺でハッセルクヴィストが見たのと同じ眼で。


 秩序か、情熱か。

 歴史か、物語か。


 彼はゆっくりと顔を上げた。

 その声は、震えていなかった。


「――“ファハカ”と呼びたいです」


 教授は何も言わなかった。

 ただ、光の中で静かに目を伏せた。


 高山の唇が、わずかに笑みに揺れる。


 ナイルに消えた使徒の名は、学問の系譜からは消えたかもしれない。

 だが、その魂は――

 一つの名前の中に、今も静かに息づいている。

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